第1回本物川小説大賞はDRtanukiさんのTrue/Falseに決定!

平成27年6月下旬頃からTL上で曖昧に始まり8月9日に締切をむかえた第1回本物川小説大賞は、選考の結果、大賞1本、金賞1本、銀賞2本が以下のように決定しましたのでご報告いたします。

 

 大賞 DRtanuki 「True/False」

 

 

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選考委員 籠原スナヲさんの選評

 これがいちばん面白いと思いました。たっぷりとある分量のなかで語れる王道のSF風エンターテインメントであり、さらにそれが内輪ネタの固有名がしっかり決まっています。すなわち、本物川さんを「虚構の存在であるスカーレット」「生身の少女である大澤めぐみ」に区別した上でそれを邂逅させる結末は、閉ざされた人工的空間から広大な砂漠へ旅立つ物語と見事に重なり合っている。よって本作を大賞に選びました。あ、でもビックリマークはあんまり使われすぎると作品を安っぽくしてしまうので注意が必要かもしれません。

 

 

評論家 山川賢一さんの寸評

 SFでホラー。僕の好きなものしかない作品で、大変楽しく読ませていただきました。どこを切ってもフキツな予感しかしない状況がサイコーですね。登場人物たちがユーモラスなやりとりを続けるあいだも、いつ来るか、いつ来るかとハラハラしておりましたが、ラストは意外にもさわやかでした。

 

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受賞者のコメント

 まさか自分が大賞になるとか本当に考えてなかったので素直に嬉しいです。イラストまで付けていただけるとか有難い事この上ないです。本当に有り難うございます。

 

 

 大賞を受賞したDRtanukiさんには副賞として大賞主催の本物川が描いた表紙絵が授与されます。自由に使っていただいて結構ですのでなんとか自力で出版して下さい。

 

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 金賞 SPモードマン 「イルマニアファミリー」

 

 選考委員 籠原スナヲさんの選評

  ある種の傑作だと思います。ちなみに元ネタがぜんぜん分からなかったのでいちいち調べてしまいました。本物川さんを内輪ネタとして二次創作するだけではなく、彼女を「二次創作の悪夢」とも呼ぶべき地獄に放りこんでしまう、この容赦なさだけでグイグイ読ませます。あと私が僕っ娘として登場したのが少しだけ嬉しかったです。投げっぱなしのようなエンドもむしろ作品のムードに合っていると感じました。

 

 銀賞 hiromaru712 「概念戦士・本物川」

 

 選考委員 籠原スナヲさんの選評

 とても面白かったです。内輪ネタを超能力バトルものに昇華した作品には『春原さんごめんなさい』もありますが、こちらの作品は、ちゃんと敵が強いのでバトル自体にスリルがあるというところが優れています。完結していないのかもしれませんが、本物川さんを取り巻く人間的ドラマは斬撃編でいったん終わっていますし、ひとつの作品として楽しく読めました。

 

 

 銀賞 既読 「本物川と26人の本物川」

 

 選考委員 籠原スナヲさんの選評

  とても面白かったです。内輪ネタとして本物川さんを出してみる小説はたくさんありましたが、大量の本物川さんを出した上で殺し合わせる、という過剰さは本作以外にはほとんどありませんでしたね。この意味では『本物川と26人の本物川』はアイデア勝利です。ただし、そのアイデアをさらに盛り上げる要素がひとひねりふたひねり加えられていれば、小説としての完成度はさらに増したと思います。

 

 

  というわけで真夏の素人黒歴史小説甲子園 本物川小説大賞、陰湿な大激戦を制したのはDRtanukiさんのTrue/Falseでした。おめでとうございます!

 

 

 

 

以下、籠原スナヲさんによる全エントリー作品寸評です。

 

◇ピンフスキー

『文豪』

文豪が最初の書き出しに苦悩するというギャグテイストの作品ですが、基本的に夏目漱石のパロネタしかないところに弱さを感じてしまいました。

『リードファイト!ビブリオバトル!』

 内輪ウケの固有名を出してみたものの、それが作品の笑いどころとは特に何の関係もないのが辛いなと思いました。

『オバケバスターズ』

 登場人物の関係性を掘り下げるとさらに面白くなるかもしれませんが、彼らの仕事がオバケ退治屋であることに必然性を感じられませんでした。オバケ退治屋じゃなくてもこの話って成り立つよなあといいますか。

 

◇karedo

『ヴンダーカンマー 妄想浅学虚言博物館』

 本物川さんと少年にボーイミーツガールをさせてみた小説ですね。

 

◇起爆装置

『恋に落ちる落ちる落ちる』

 思い込みの激しい人間を主人公にすると文体をドライブさせやすいのですが、それだけで終わってしまいがちになるのもまた辛いところですね。

『小指、恋人、薬指』

 前作もそうなのですが、あるていど文章が上手いと何でも「とりあえず勢いよく」書けてしまうぶん、結果として作品に勢いしか残らないということには注意が必要だと思います。

『バナナの皮では滑れない』『アイヘイトクライムチャウダー』『既読のグルメ』

 このあたりぜんぶ未完ですね。

 

 ◇既読

『内臓の告白』

 未完ですね(ここで言う未完とは「話としてオチていない」という意味です)。

 

 ◇DRtanuki

『夏の川の記憶』

 本物川さんと少年にボーイミーツガールをさせてみた小説ですね。

『死神さゆりの懐中時計』

 本物川さんの固有名を出しており、そこに「時計」というアイテムがあるぶん必然性を感じられる小説です。時計というところから死を司る神が連想されているのは工夫が感じられます。

 

◇三日月明

『俺の脳みそがこんなにどろどろの訳がない』

 ゾンビにも陰性と陽性があるというアイデアは面白いかもしれませんが、設定を出したところで小説が終わってしまっていると思います。

 

 ◇さっきぃ☆竹田

『本物川とチクタクマン』

 内輪ネタの固有名を出しており、そこに「時計技師」という設定があるぶん必然性を感じられる小説です。しかし登場人物の設定を提示したところで小説を終えられたのは残念ですね。

『猫が眼からビームを出す日』

 タイトルが面白いと思いました。ただこれも登場人物の設定を提示したところで小説を終えられたのが残念です。また内輪ネタの固有名を出していますが、今作には特にその意味がありません。

 

 ◇ここの

『青い恋人』『溟海の底に』『でもOK!』

 ここのさんの小説は、おおよそ一対一の神秘的な関係を描き出すと同時に、その幻想が第三者の社会的視点によってあっさり崩れてしまう、というスタイルが採用されていると思います(『でもOK!』の場合には、その幻想性を打ち砕くのは第三者ではなく当の相手でだったように見えます)。この儚げな物語に説得力を持たせている文体は個人的には好みですね。おそらくある程度のクオリティを持った掌編は余裕で書ける人だと思うので、次は長めの作品にチャレンジしてみてください。

 

◇大村中

『R.P.S』

 登場人物がゲームで遊んでいただけでした。そういえば私が小さいころ勉強したときはロックじゃなくてストーンでした(イギリスの一部ではそういう言いかたになるみたいですね)。

 

 ◇higa_idsuru

『本物川殺人事件』

 本物川さんが概念だという内輪ネタをミステリの形式に落とし込んでいますが、概念であるという以上の工夫が見られませんでした。

 

◇ど

『戦いのあとに』

 実は本物川さんはロボットでしたという小説ですね。

 

 ◇胡紫

『血と銀と狂気の樹木』

 現実に対立している人間関係を単に空想世界の戦争に置きかえるのは少し安直というか、実際どのような対立なのかを掘り下げることができていないと思います。たとえばミ・サン・ドリーというのはネット等でフキアガッテいる「自称フェミニズム」のことであるわけですが、本作がその諷刺や寓意として成立しているようには見えない、ということですね。

『飢えた男』

 彼がどういう状況で、どうして飢えているのかがいまいち分かりません。

 

 ◇オルフェウス009

Honmonokawa’s Doll Cafe

ラストの一文が少しだけクスリと笑えました。

アンドロギュヌスの夢』

 これは未完ですね。種親、胎親といった呼称は面白いと思いましたが、そういう設定であるという以上の広がりを作品に見出すことはできませんでした。

 

◇不死身探偵

『遠くに在りて』

 初めての執筆のようですが、にもかかわらず、王道の青春小説として手堅くまとまっている印象を受けました。単なる1対1の関係ではなく、常に過去の関係性と対比されるなかで描かれる現在の関係性……という形で、作品そのものに時間的な奥行きを与えていると思います。

 

◇槐

『現の庭の本物川』

 本物川さんを男性に設定しているのは他の小説には見られない特徴で、それだけでも少し面白いかもしれないと感じました。とはいえ特に性別が逆転している以外の工夫はなく、他の「出会わせてみました系」と変わらなかったのは残念です。

 

◇弥生

『紡ぐ針先、通す糸の目、きらり』

 本作は小説ではなくエッセイであると明言されていますが、赤裸々に語られる個人史は作者さんの作品群のなかで最も娯楽性に溢れており、不謹慎かもしれませんが楽しく読むことができました。惜しむらくは、もう少し赤裸々レベルを上げて曝け出してほしいということです。

『偽物側』『本物側』

 どちらも本物川さんが頭のおかしい人たちに絡まれて迷惑するという話でした。迷惑して……それ以上の何かがあるようには感じられませんでした。

『ドラゴンの姫はクラッシャー』

 本作のような小説を私はファンタジー小説というよりRPG小説と呼んでいます。多くのRPGで採用されている設定やノリが暗黙の前提とされており、RPGをプレイしたことのない人にはチンプンカンプンになるアレです。たぶん『紡ぐ針先、通す糸の目、きらり』を読む限り作者さんはRPGが好きな人なのだなと思いました。いっそ「これはそういうオンラインゲームでの話である」という話にしたら設定を説明しやすくなり、また現実世界と虚構世界の対比を描いて面白くしたりと、いろいろ便利だと思うのですがいかがでしょう?

『ここはつくりも』

 突拍子もない設定を呑み込みはじめたころには小説が終わっていました。

 

◇leimonZ

『本物川小説』

 他の小説についても書いたのですが、現実に対立している人間関係を単に空想世界の戦争に置きかえるのは少し安直というか、実際どのような対立なのかを掘り下げることができていないと思います。

 

◇平野淳

『本物川はいかが?』

 「本物川という固有名をマクガフィンとして用いていますが、『本物』というワードを取り出す他の工夫は見られませんでした。しかし文章はこなれており最後まで楽しく読めました」

 

◇イカロス

『なんでもいかす魔女』

 いかすというのはそういう意味なのですね……。しかし中世の時代において、男尊女卑を改めたいという近代的すぎる願いを、どうしてこの魔女ルルは抱くことができたのでしょうか。そこらへんの描き込みがもっと欲しいなと思いました。

 

◇永世射精名人

『悪意の海』

 タイトルや結末の文章が言うほどには、別に悪意が渦巻いているようには見えないというのが辛いところですね。ただのイライラみたいな。

 

◇TAKAKO★マッドネス

『そんな人もいたねえ、と』

 面白いと思いました。ただし主人公が転落する理由が「禿げたから」というのは少しだけ不満です。「※ただしイケメンに限る」などとのたまう主人公が戒められる物語なのに、マジで容姿のせいで不幸になっているようにも見えるんですよね。

 

◇りっく

『ホンモノカワ』

 本物川さんが概念だという内輪ネタをホラーの形式に落とし込んでいますが、概念であるという以上の工夫が見られませんでした。

 

◇不動

『ごぼ天とりそぼろうどん』

 ごぼ天とりそぼろうどんという料理を食べているだけでした。でも美味しそうだなと思える巧みな描写だったと思います。

 

◇yono

『本物川さん』『本物川さん2』『本物川さん3』

 私が登場人物として出ていたので楽しく読みました。ただお話として完結しているようには感じられないので、4や5も希望です。

 

◇激しく

『さらば! 本物川!』

 ワンシーンのみ(おそらくはラストシーンのみ?)提示されたところで小説を終えられていたのが残念です。

 

しふぉん

『やさしい世界』

 元ネタが分からなかったので調べてしまいました。世の中にはこういう出来事もあるのかと勉強になりましたね。それとは別に、少し怖い掌編としてもまとまっているのではないでしょうか。

 

◇はん

『誘蛾灯』

 ただ擬音で畳みかけられても小説では怖くならない、と私は思います。

 

◇たくあん

『川に桜が降ったとき』

 オチがちょっとよく分からなかったです。

『本物川探偵』

 某人物を絵画泥棒に設定したのはクスリと笑えました。なるほど山川さんが警備員であるのも物語にハマりますね。ただ探偵である本物川さんのキャラクターが少し弱いかなと思います。

『アルコールオナニーレポート』

 もしタイトル部門があるなら今作が受賞していたと思います。しかしタイトル以上に面白い語彙が本編には登場せず、お話も特に盛り上がらないまま終えられていたのが残念でした。

『本物川と金のなる木』

 すみません全作品を通じてこれがいちばん笑えました。ただこの笑いは小説の面白さと言えるのだろうかとも感じてしまいましたね。

『流水少女』『レモネード』

 起承転結ではなく起!即!結!だなあと思いました。間のエピソードがあればもう少しキャラクターに感情移入できるかもしれません。

 

◇青識亜論

『春原さんごめんなさい』

 面白いと思いました。小説は「漢字にルビを当てるだけで」ある程度の雰囲気を醸し出せるものですが、それを効果的に使いこなしています。また内輪ネタをSFバトルに格好よく落とし込んでいますよね。惜しむらくは短いこと、物語が完結しているようには見えないことですね。

 

◇たいらん

『大学生活の苦難について』

 タイトルで全て説明されちゃっていますよねこれ。でも苦難というわりには勉強ができないというだけで、どう大変なのかよく分からないのが辛いところです(ヤバい大学生活はもっとヤバいものです!)。

『勉強会での友人Sとの会話記録』

 これもタイトルで全て説明されちゃっていますよね。会話そのものが物語を生み出すのかといえばそんなことはなく、本当にただ会話が続くだけでした。

 

◇りひにー

『シュバルツシルトの畔』

 物語の舞台を提示したところで小説を終えられているのが残念です。

『起爆装置大爆発! ぶっちぎりバトルテロリスト』

 登場人物の設定を提示したところで小説を終えられたのが残念です。内輪ネタの固有名を出していますが、出しただけという印象を受けます。

 

◇うむうむ

『進捗』

 未完です。

 

ネーポン

『概念陸軍シリーズ 本物中隊物語 灰の川(1)』

 完結しているのかなあこれと思いました。現実に対立している人間関係を単に戦争に置きかえるのは少し安直というか、実際どのような対立なのかを掘り下げることができていないと思います。

 

◇為瀬雄

『未成年・本物川新が出会ういくつかのお酒』

 完結しているのかなあこれと思いました。私自身がお酒好きなので、もう少し掘り下げてほしいと感じてしまいましたね。

『語彙をあまり知らない本物川の、よく言えば自分語り、悪く言えば懺悔のようなもの』

 タイトルで全て説明されちゃっていますよねこれ。少しに気になるのですが、懺悔はむしろ良い意味の言葉で、自分語りのほうが悪い意味の言葉なのではないかと思います(もしかしてそう思うのは私だけなのでしょうか)。

 

◇こうちゃん

『みどりの町、本物川』

 本物川という固有名を町に設定するのは斬新で面白いと思いましたが、町を出しただけで小説を終えられたのは残念です。

 

◇厚揚げ屋

『間奏曲』

 ワンシーンのみ提示されたところで小説を終えられていたのが残念です。

 

◇赤外松

 最後に、赤外松さんの小説

 本物川という固有名を川に設定するのは、たとえば町に設定するのと比べるとヒネリが少ない気がしました。あと夢オチ・嘘オチの類はアレです。

 

 以上!

 各自、今後の励みや創作の参考にしたりふてくされたりそれを乗り越えて人間として一段階大きくなってみたり頑張ってください。

それではまた次回ほにゃらら小説大賞でお会いしましょう!さようなら!

 

togetter.com

 

 大賞主催 大澤めぐみ

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選考委員 籠原スナヲ

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批評家 山川賢一

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ノムリッシュ語訳版「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」

 我は蒼星と紅月を結ぶ古の橋・カルチャーの諸々の要素が、ダークサイドの神殺しの贖罪を問われうるエビ=デンス=エビデンスを天を覆い大地を埋めつくす程残さないでたちまちに変質し霧散して彷徨うという、永遠に留まっていたい一瞬性を、神々が示し祝福した日の文化状況に抗するアスペクト(相貌)で改めて肯定しようとする事象素体《アロン・グレッダ》で他を圧倒する。2010年代のいにしえの神が眠る島は、聖のあらゆる最強のアンデッド面・零式において、いわば「エビデンシャリズム」が進展している時代では莫〈な〉いだろうか。

 

 1 エビデンシャリズム批判

 

 我はエビデンス(太古に生まれし禁断の園で言われる、すなわち我と同等の実力を持つ、あまりにも広大なる意味での証拠・証憑、唯物的で光の中…より量的なものを望む傾向が存在し得る)を残し続けなければならず………しかし運命はかくも残酷な刻<とき>を刻み続ける、エビデンスを挙げていわゆる「教示責任」(アカウンタビリティ…か……)を果たす如くつねに準備しておかねば即ち贖罪<クライム>とならない──その種の説明はしばしばひどくクェインガ・インカしているが──、という強迫テイク・イットな「神々の意思に等しさ」の緊張感をいや増しに増すことを「エビデンシャリズム」と名づける。(1)この魔法言語は、エヴィ=デュンス…“蛮神”を生み出した男が“災厄の焔”と畏れられたケンゼンな議論には摂理に従うだと囁く「実証主義」とは聖別されるべき、たんに古代の技法にこだわる強迫神経ステータス異常的な態度であり、トリビアル(些末に自明)と幻想(おも)われる事柄に闇の声に抗いながらも、データや機密文書といった原則として有形なエビデンスをヨーウ=キュウする、と囁く過剰さを意味破壊し尽くすものと理解されたい。多くの場合、混沌を司る精霊エビデンスは、文字通りにトリル、移転であることが求められるのであり、「差異を含んで反復可能」では不十分である。あらゆる可能性が一つの『解答』を示していた――、ある証言や解釈を含むあらゆる存在、想像の可塑性にイン=キョせざるをえないアーティファクトは、キ・キャクされがちであり…いつしか“光”と“闇”に分かれる。エビデンシャリズムには、すべてを超えしトゥスガ=イと双璧と呼ばれた若き戦士のディヴィジョンを信じ合う者としての、あるいはヴァルル・クノス合う…それが道理と言うものだが…事象地平線の彼方へと、その冠たる一切を放り投げたのだ。見よ!そして人間を不在にしたい、という欲望すら含まれて宿るように思われる。

 

 さらに、(2)これ程の魔法言語は、永劫の刻、鳴り止まぬ詩の神々が用いる魔道術のサービスを13人の闇の探究者たちが使役(スレイヴ)し…そこかしこの”供給者”にエビデンスとなりうる痕跡を残してしまう戦況、伝説に語られる避けがたさ、またそれを政治的批判なり秘密裏の取引なりオメガなりに命令しようと処す善意と悪意のメランジェを指すクリスタルでも存在し得る。(2)というAMPテクノロジー史的に新しいジョウ=キョウがカイーナの、後に暗黒の時代と呼ばれるこの時代=アニムスに交差を果たす。際限なく機械的な「あら探し」のゲームが預言書にも記されているようにマインスイーパーである。クレイクロウデンシャリズムは「実質的に」──とはどう囁くことか?──『終末の予言』を回避するために重要であると見なさ被るべきことではない――しかし預言書に記された事実から峻別すると、根源的に不確かであるしかない預言書が改竄された審判<ジャッジメント>を、『創成史』にある「ザ・ブラッドエッジ」として軽蔑しているかのようである。

 

 エビデンシャリズムは現代の追憶に沈むシャ=クァインオヴ・ジ・ダークペインを窒息させて在る…………かつてはそう幻想〈おも〉っていた…………。

 

 企業で、執行者で、知を灯す場所で。社会のあらゆるディープ・プレイスで「神殺しの贖罪のThe Litning化」と云う一見したところ批判しにくい名目の下、根源的に不確かであら弗る〈ざる〉判断「に耐える」と云う進化の過程を、厄介払いしようとしている。

 

 おそらく「非定型的」な審判<ジャッジメント>(ケー・スーバイ・ン・ケースの判断)に伴わざるをえないパーソナルの責任を遮断したいゆえだ。機械的、事務的パージを行き渡らせる「アギト」で、拒絶せし定型的な判断の機会を限りなく排除・ヘルガ・グレネディオして彷徨えば、根源的に不確かに審判<ジャッジメント>するしか莫〈な〉い「預言書の導くままな」それゆえに「キュクレインな」個人として魂を導かなくて済む……と予言書にも記されている。かの魂は、反−判断で存在し得る。諸人(もろびと)がエビデンスの闇夜を駆ける一陣の風たる配達人として滞りなくリレーを続けさえすればよい。斯くしたエビデンシャの鼓動のメィンイェンは一種の責任回避の現象にほかならない。が、それが示唆せしめるのは、パーソナルが個として否定性に向き合わずに済ませたいという欲望の、肥大ではないであろう、たとえそれですべてを失ったとしても――――。

 

 一族の抱える闇となる否定ファルシは、聖痕スティグマ>の「不確かさ」であり「リミットブレイク」であり、また「パージしてしまうこと」で光の中…......トゥウトゥ・ウと換言できるだろうか………否、違う。こうした否定神性が共通に滅ぼすと目される概念は、「偶然性-底知れぬ“人”の悪意-」で存在を維持している。

 

 かつての魔大戦において遺された子供たちの可能性を、絶対的に押しのける最善のハンダンを行なう中心とした魔の軍勢は““禁じられし魔剣”の書、別名“アンチエビデンス”、つまりこの書では、そのように前提する。ヘル・ジャッジメントは、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、全知全能の神━━乾坤トゥスヨー=ウによって認識されたコウリョと定めし神々を、理由のない悪意により切り捨てて「しまった」結果であるし─ただそれだけでしかない。かの者の師匠である時魔道士の「実質的に」『終末の予言』を回避するために重要だという審判<ジャッジメント>が、単独、排他的にファクションしうるファティマを滅ぼした。こうした判断の偶然性をあたかも無化して、エビデンスにもとづいて判断が許されるかのようなファンタジスクが、今日において「つかの間の安息」や「結界の中」というこの世に存在せぬものを世界の「方程式」にしているのである。 

 

 逆説的に、クリスタルが呼んでいるのかもしれないが、次のように言うことができる――それが神の意志なのだ。何かを「ある程度」のヘル・ジャッジメントによって、たいした預言書に記された事実ではないと受け流す、”不確定因子”に呼応する、ついにはヴォウキャクしていく、漠とした思い出に……そう、あの書にはこう記されていた......このような、「どうでもよさ、どうでもいい性 whatever-ness」の引き受けは、裏切りの未来への選択肢(ユメ)を受忍しつつ敢えることと形容するならば、「それ」でも『原罪無き命』を信じる光と闇で封印されしこととフカヴンなのであり、そしてそれは、エビデンスの数奇なる運命に惑わされしシェュウシェュウ・オブ・ヴァーミリオンによって説明責任を…まるで“決定”されていた事のように、目も虚ろなままパージ全てを滅ぼすことよりもはるかに重く、騎として「実質的に」責任を担う真理<ファティマ>にほかならないのだ、と。

 

 魔導院による最新の研究データによれば、どうでもよさは、ノブレス・オブリージュよりもはるかに真摯である。 

 

 

 誤解を避ける…そして、世界に光を取り戻すために補足を刻む。クラウドと同じ力を持つテ・インキは、エビデンスによる科学的なディスカッション・殲滅の重要性を減じるものではない。現下の、強迫的な、あるいは、たんに事務処理的であると言えるだろうエビデンシャリズムが前景化している状況においては、意識的・方法的に「ある程度の」どうでもよさの権利擁護をすることが……すなわち真理<ファティマ>が必要なのだ、と「アギト」が囁く。

 

 どうでもよさの「ある程度」は、根源的には偶然性によって福音の刻のヘル・ジャッジメント──その「ある程度」──によって調整される所と為る───ただそれしかあってはならぬ。

 

 預言書の記述にある「反神性イズゥム」において、恣意的にエビデンスをデジョンする、または恣意的にエビデンスめいた事象素体《アロン・グレッダ》を喧伝するイデアがあるとして、フォン・コウはその繋がりの証の「行動力」をファナティク・クリスタルによって力を与えた。整理しよう。(1)エビデンシャリズムの過剰顕現に抵抗果たすと云う意味で、どうでもよさを護衛(ガード)する。かつ、(2)どうでもよさを護衛(ガード)するにしても、ランダムにあるいは恣意的に如何でも――それでもよいのではなく、よさの「ある程度」を審判<ジャッジメント>しなければならない――しかし裏返して魂に囁けば、何者にどういうエビデンスをレクイレメントするのかを一律に形骸的に細かくするのではなく、叙事詩にある「ある程度」を終焉へと導く神ケース・ン・バイケースで判断する運命<こと>があってよいと云うこと、つまり「アギト」で他を圧倒し“絶望”を与える。ところで、反知性主義が殲滅されるべきであるとすればそれは、反知性イズゥムが、どうでもよさの「ある程度」の設定、また、いくらかのエビデンスの設定を、何らかの大きな暗黒の力を生じうるような向きへ偏らせて宿らせることで存在を維持している。しかしながら、次の付言もしておかねばならないだろう。エビデンシャリズムとしての精神の呪縛を全人類的に進化させ、ついに、どうでもよさから局所的な反神性イズゥムが生じうる未来への選択肢(ユメ)すら、徹底して摘み取ろうとするに至ったダークネビュラは、反ティセ・イ主義が全面進化した異空間に対してシンメトリカルに位置する、もうひとつの最悪のヴァナディースではありまいか、と。

 

 

 永遠のあらゆる面がますます形骸的なエビデンシャリズムに拘束されつつあるという今日の文化状況に<ティロ・ボレー>するのは、物語の始まり、前提としては、(a)たちまちに変質し霧散して彷徨う真理<ファティマ>「も」肯定するという一種の「存在への魔法反応」であり、また、(b)──そうした否定魔性・偶然魔性を受諾した「ある程度」でのヘル・ジャッジメントのノブレス・オブリージュを、運命的にプレイヤーとして引き受ける事象である。

 

 予言書は、神界(ここ)までの第壱式でいったん幕を引き隔世の楔を打つクリスタルとし、独立した導かれし真実提起として扱われうる、次節=ヴァラハ・トラクトゥスからは、パフォーメィ=ティィブ<禁断のカタストロフィ>なテクストとして、たちまちにクリスタル化し霧散して彷徨うアーティファクト、エビデンスを与えん運命<こと>が容易ではないものに導かれながら、想起、形態、書くことに闇の声に抗いながら考察する。

 

  そして世界は揺れ始める……。

現代口語訳版「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」その1

アンチ・エビデンス
──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い

千葉雅也(哲学・表象文化論)

 

 本稿は現代の日本人にはもはやあまりなじみのない失われた言語である古代ポストモダン語で書かれた千葉雅也さんの「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」を現代口語訳に翻訳したものである。完全な翻訳というのはいかなる言語からどのような言語に変換するものであれ原理的にはまったく不可能ではあるのだが、そのエッセンスを外すことがないように最大限留意した。千葉雅也の思想のその片鱗だけでも、広く一般の方に馴染んでいただくことの一助となれば幸いである。

 

 以下本文

 

 ストリートカルチャーというのはたいていの場合、学術的に事実資料として参照可能なぐらいの強度で記録されていたりはしないので、検証しようとしても当時を知る人の記憶頼みになるのだけれど、人間の記憶というのは薄れるし過剰に美化されていたりしてあんまり当てになるものではない。でもストリートカルチャーのそういう、ちゃんとした記録には残らず時間とともに薄れていってしまうっていうところが、むしろ最近のギスギスした文化状況に抵抗する鍵になるよ、っていう感じで肯定的にとらえてみようと思う。最近の日本ってなにか言っては根拠だ根拠だっていちいち口うるさいよね。

 

 1. エビデンシャリズム批判

 とりあえず、なんでもかんでも記録に残しておかないといけない、なにかあったときにちゃんと事情を説明できるように記録に残しておかないといけない、っていうのをめっちゃ口やかましくいちいち言ってくるのを「エビデンシャリズム」って呼ぶことにします。アレってなんだかんだ理由付けはしてくるけど要するにただ口やかましく言いたいだけだと思うんだよね。あ、別に実証主義的な、健全な議論をするには根拠が必要だとかそういう話とはまた別ね。そういうのじゃなくて、書式の細かいところにうるさい人とか、どうでもいいような細かいところにまでいちいち根拠根拠言ってくる口やかましい人っていうのが居るじゃん。ああいう感じのやつね。あいつら客観性があるものじゃないと根拠として認めないとか言って、体験者の証言でもちょいちょい言うことが変わったり別の解釈もできちゃったりすると、それだけで「そんなんじゃダメだ」って言ってくるしマジ細かいよね。ああいう人の言うことを無暗に疑うのって人間としてどうかと思う。

 

 それでさ、インターネットって基本なにやっても証拠が残るじゃん。それを政治批判とかビジネスとか福祉とかに活用しようって人も居るんだけど、まあ悪いやつばっかりじゃなくて良いことのために使われたりもするみたいだけど、そういうのも含めてエビデンシャリズムね。そういう何喋っても自動的に証拠が残っちゃう最近のインターネット環境のおかげで、細かいことにいちいち文句つけたいマンが暇つぶしのマインスイーパーみたいなノリでいちいち人の言うことに「それ間違えてますよ」とか「それ別に根拠ないですよね」とか気軽にリプ飛ばしてこれるわけ。でもなにが細かいところでなにが主張の根幹に関わる大事なことかなんて、そんなのどうやっても不確かなことなわけじゃん?お前にとっては大事かもしれないけれども俺にとってはそこんところはどうでもいい細かいことかもしれないわけよ。でもそういうのを許してくれないわけ。めっちゃ細かいことまで言ってくるんだよマジで。

 

 そういうのマジめんどくさい。

 

 企業でも行政でも大学でも、社会のどこに行っても「責任の明確化」とか言って四角四面にやってるけどさ、そういう「お前にとっては大事かもしれないけど俺にとっては細かいどうでもいいことなんだよ」っていう理屈もちょっとは考えてみてほしいんだよね。そこんとこ考えないのは、それ、堕落だよ。もうちょっと我慢して考えてみてほしいなぁ。

 

 たぶんアレだよね、ちゃんとやってないとなんかあったときに後からグチャグチャ言われるからそれでああやって四角四面にやってんだよね。人間なんだからもっとケースバイケースでさ、柔軟にやってもらいたいよねそこんとこ。ちゃんと決まり通りに形式的にやってれば責任は回避できるかもしれないけどさぁ、やっぱ人間なんだから義理とか人情とかそういう人間的な判断をやめたらいかんよ。ちょっと潔癖症すぎるよね。社会の歯車になってロボットみたいに仕事してれば楽なのかもしれないけどさ。そういうエビデンシャリズムの蔓延って要するに責任逃れだと思うんだよ。四角四面に形式通りっていうのは単に自分が責任を追及されたくないっていう我儘だよね。

 

 人生やっぱ一期一会だしさ、記憶が薄れたり美化されたり、あと忘れちゃったりとかさ、そういうのも含めて人生じゃん。もっと人と人の偶然の出会いを大切にしていきたいよねやっぱり。

 

 やっぱ実際のところ、絶対に正しい判断なんか絶対にできないわけじゃん。判断っていうのは、どれだけ考えたところで結局はその場その場の気まぐれなのよ。だからお前が大事だって思うことが俺にとってはどうでもいい細かいことだったりするわけ。そういうのをちゃんと考えないでさー、根拠があるからこれが正しいんだとかそういうのって幻想だと思うよ。根拠だって思ってることだって本当の本当に絶対正しいかどうかなんて本当のところは分かんないんだから、お前の思ってる安心も安全も幻想なわけよ。

 

 俺がどうでもいいって言ってるのは、お前らみたいに本当の本当に絶対に正しいのかどうかなんて誰にも分からない根拠を前提にして正しいって判断するのよりも、もっとちゃんと考えた結果なわけ。

 

 勘違いしてほしくないんだけど、別に科学的な議論に根拠がいらないとかそういう話をしてるんじゃないよ。さっき言ったみたいな、たんにケチつけたいから細かいこといちいち口出ししてくる口うるさい人らのことね。ああいう人らはもうちょっといいかげんになったほうが色々といいと思うよって話。

 

 どんくらいいいかげんになったほうがいいかっていう量の話はまたちょっと難しいんだけど。

 

 反知性主義の人らがわざと科学的な根拠を無視したりとか、科学的な根拠もないのに科学的なふりしたりとか、そういうのをやっていいって言ってるわけじゃないよ。整理すると「他人にケチつけたいだけで、いちいち細かいことばっかり言ってるような人はもうちょっといいかげんになったほうがよい」「どれぐらいいいかげんになったほうがいいのかっていう量の話はちょっと難しい」ってこと。逆に言うと、ぜんぶがぜんぶ根拠根拠言うんじゃなくて、ここは根拠がいるけどここんところはまあある程度いいかげんでもいいよとかそういう判断をケースバイケースでやっていこうよってこと。人間だもんね。反知性主義の人らはそこんところのケースバイケースの判断がうまくないからダメってこと。でも世の中が反知性主義者だらけになるのと同じぐらい世の中ぜんぶがぜんぶ根拠根拠言うようになったら、それはそれで最悪じゃん。やっぱ人間だもんな。

 

 社会に生きてる限りあっちに行ってもこっちに行っても、どこでも根拠根拠ってケチつけたいがためだけに細かいことまでいちいち言ってくる人ばっかりの状況を変えるには、人間っていうのはそもそも忘れる生き物だっていうこと「も」受け入れて、いちいち細かいこと言ってないでケースバイケースで柔軟にやっていこうって方針でいくしかないと思うんだよ。やっぱ人間だもんな。

 

 まあエビデンシャリズムの話はこれぐらいにしといて、次はその実践として、曖昧だし薄れてるかもしれないし過剰に美化されてたりするかもしれない自分の昔の記憶を根拠にストリートカルチャーのことを書いてみるってことをやってみるね。

ゼロアカ流無敵インターネットバリトゥーダーと概念的ギリ10万歳のツイッター時間からの乖離。あるいはエンドレスブロック崩し

 

 

 もとはと言えばこのちょっと間合いを間違えましたねすいませんでしたで済むような軽い失言から始まったゼロアカ流無敵インターネットバリトゥードおじさんの俺TUEEE節に愛想よくお付き合いをしておりましたら最終的に何故だか僕が「社会批評には根拠と客観性と論理的整合性が求められる」を論証するという流れになりました。詳しい経緯を知りたいという奇矯なかたはこちらのツゲッターをご確認下さい。無敵おじさんが駄々を捏ねているだけなので特に面白くはないです。

 

 

 

 

 はい、大人げないですね。

 僕の「批評家であるならば主観や自身の感性のみに依拠した言明ではなく客観的で根拠のある論理的な言明を心がけては(大意)」というような要請に対する応答ですが、それに対して「馬鹿って言うほうが馬鹿なんです~~」レベルの表層的な脊髄反射で「じゃあその根拠は????」ってやってる感がアリアリですごい馬鹿っぽいです。全ての論理はその根拠は?その根拠は?と問いを掘り下げていくと無限後退か無根拠のドグマか循環定義に陥るように原理的になっています。これをナントカのトリレンマとか言います。「じゃあその根拠は????」って馬鹿みたいに繰り返して最終的にたどり着いた地点で「はい根拠なし!根拠ないですよソレ!根拠のないことを言わないで下さい~~~~!!!!」って言って勝利宣言するのは原理的にどんなクソバカにでも脊髄反射だけで必ず達成できる無敵バリトゥード術なんですね。脊髄反射クソバカの称号と引き換えに手にできるヘンテコなHNの概念アカウントとの論争における勝利になんの意味があるのかはさっぱり分かりませんがきっと馬鹿には馬鹿なりの価値観があるのでしょう。

 実際のところ僕が要請する「知の営みに参画するものであるならば、客観的で根拠のある論理的な言明を心がけるべきである」というのは「知の営みに参画するもの」が共通して了解しているだけのドグマに過ぎないので根拠を求めることはできません。であるからこそ「知の営みに参画するものであるならば」という前提条件が付帯するわけです。サッカーをやりたいならサッカーのルールに従うべきだというだけの話で別にラグビーをやるなという話ではありません。しかし、サッカーのプレイ中に突然ボールを抱えて走り出したらまあだいたいは反則を取られるでしょう。プレイする前に「俺はボールを抱えて走り出しても良いというルールでサッカーをしたい」という要請をしてみるのはアリと言えばアリかもしれません。それをサッカーと呼ぶかは別として。

 

 If you tried to doubt everything you would not get as far as doubting anything. The game of doubting itself presupposes certainty. Ludwig Wittgenstein / On Certainty #115.

  

 全てを疑おうとするものは疑うところまで行き着くこともできない。疑いのゲームはそれ自身が確実性を前提としている。

 

 「なぜ知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならないのか」これは疑いであり探究です。それも「知的営みに参画するもの」が無根拠に乗っかっている足場に対する疑義なわけです。しかし、疑うというのはただただ「なぜ?」「なぜ?」と疑問符をつければそれで済むというものではありません。やみくもにハンマーを振り回して壁と言わず床と言わず全てを破壊し尽してしまえば足場を失った自分自身は自由落下していくだけです。通常、一部の尊師を除いて人間は空中浮遊できません。じゃあどこかの誰かが勝手に決めた無根拠の足場に無抵抗に乗っかるしかないのかというと別にそんなことは全然なくてひょいと隣の足場に自分が移動すれば元居た足場を壊すことも普通にできます。

 

That is to say, the questions that we raise and our doubts depend on the fact that some propositions are exempt from doubt, are as it were like hinges on which those turn.

That is to say, it belongs to the logic of our scientific investigations that certain things are in deed not doubted.

But it isn't that the situation is like this: We just can't investigate everything, and for that reason we are forced to rest content with assumption. If I want the door to turn, the hinges must stay put.  Ludwig Wittgenstein / On Certainty #341 #342 #343 

 

 わたしたちが問い、疑うには、ある命題が疑いを免れ、問いや疑いを動かす蝶番の役割をしていなければならない。

 つまり、確実なものとは科学的探究の論理において事実上疑われないもののことである。

 しかしそれは、私たちは全てを探究することができないのでたんに仮定するだけで満足すべきだ、ということではない。扉を開けたければ蝶番は固定されていなければならない。

 

 ウィトゲンシュタインは蝶番という比喩を用いていますが、僕個人としてはこれを畳返しと理解するのをオススメしています。ビッチリ畳の敷き詰められた8畳間。自分が乗っている畳はなにしろ自分が乗っているのでひっくり返すことが出来ません。これで「うわーこんなん畳全部返せなんて無理やわー無理ゲーやわーだって自分の乗ってる畳はひっくり返されへんもん~~」ってギブアップしちゃう人は有体に言ってちょっと馬鹿でしょう。普通にまず自分の乗っていない畳を返して、それからそっちの畳に移動して今まで乗っていた畳をひっくり返せばいいだけです。「すべてを同時に疑うことはできないが、すべてのもののうち任意のものはなんでも疑うことができる」ということです。畳に寝転がったまま「なんで?なんで?」ってブーたれてないでまずは起き上がって自分の身体を動かして自分で畳をひっくり返すべきでしょう。要するに疑うなと言っているのではなく疑いたいならズボラをせずに自分で疑えと言いたいだけだと言いたい。疑うというのは、疑うという論理的行為、疑うという実践であって……そう、ちょっと笑っちゃうけど、論理とは何かと疑うという論理的行為というのもあるんですよ。なんでだろうね~~って言いながら畳の上でゴロゴロしているだけならそれは疑いという名のただの自堕落です。いいから働きなさい精神的クソニート。

 

 We are quite sure of it' does not mean just that every single person is certain of it, but that we belong to a community which is bound together by science and education. Ludwig Wittgenstein / On Certainty #298

 

 わたしたちにとって絶対に確かであるとは、ひとりひとりがそれを確信するということだけでなく、科学と教育によって結ばれたひとつの共同体にわたしたちが属しているということだ。

 

 先述の通り「知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの「知的営みに参画するもの」の共同体において了解されている暗黙のルールに過ぎず、そこに根拠を求めることはできません。「客観的で根拠のある論理的な言明をする人」が一般に知的であると了承されているというだけのことです。なので「俺は客観的で根拠のある論理的な言明などしない!」も別にそれはそれで勝手にしてくれればいいのですが、たぶん知的な人であるとは思ってもらえないのではないかと推測します。もちろん、他人から知的であると思ってもらえなくても知的コミュニティからパージされてもそれですぐに死ぬなんてことはありませんしなんぞかんぞお金を稼ぐ手段というのもありますし悪そうなヤツはだいたい友達で大親友の彼女のツレのパスタがうまくて握りしめたこの絆がロックプライドてきライジングサンなサムシングで仲間たち親たちファンたちに感謝しながら進むこの荒れたオフロードをタフに生き抜いていくのもなかなか悪くはないとは思います。各自気持ちでやっていきましょう。

 

ここまでの要旨

知的言明には根拠と客観性と論理性が求められるということを「絶対的に」「普遍的に」真であると論証することは原理的にできない。

根拠と客観性と論理性のある言明のことを知的と呼ぶのであって循環定義になる。

故に言明に「根拠と客観性と論理性」を求めるには「知的営みに参画するものであるならば」という付帯条件がつく。

知のルールという枠組みの内部に居る限りは「それがルールだから」としか言いようがないけれど、知のルールという枠組みの外からなら「根拠と客観性と論理性が求められるかどうか」を検証することはできる。

 

なので次に知のルールとは別の枠組みで「根拠と客観性と論理性が求められる」の妥当性を検証していきます。

 

 

 

 はいはい、少し話が変わりましたね。繰り返しますが「知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの知のコミュニティの暗黙の了解であってそこに根拠はありません。そして、知のコミュニティという枠組みに乗りながらその蝶番を疑うことはできませんが、別の枠組みに移動すれば蝶番を破壊することもできます。つまり、このケースでは知という枠組みから政治力という枠組みに移動することで知の基本ルールに疑問を投げかけようというわけですね。めっちゃひらたくに言いかえますと「世の中理屈じゃねぇんだよオォン!?!?」ということで、はい非常にありきたりなライジングサンなエグザイル節でなかなか気持ちが出ています。例えば僕のような世間知らずの論理馬鹿タイプなどは社会に出てソッコーでまず一度はこの手の壁に頭を打ち付ける羽目になるものなので、藤田さんもきっとなにかその種の嫌なことがあったのでしょう。

 つまり、正しいことを正しいと論理立てて主張するだけで他人を動かせると思っている、という類の勘違いです。ましてや「世の中を正しくしていこう」という欲望のために行動しようとするならば、前提は当然「現状の世の中は正しくない」状態なわけで、正しくない世の中で正しいことを正しいと言い張るだけでは如何ともしがたいのは当然のことなわけで、つまりそこで政治ゲームや権力闘争という知や論理とはまた別の所作、スキルが要求されてくることになるわけですがちょっと待って。別にそれらは背反するスキルではなく普通に干渉することなく追加可能なスキルなのでただ単に普通に既にある「客観的で根拠のある論理的な言明」という知のスキルにさらに政治ゲームのスキルを追加すればいいだけです。影響力さえあれば全てが許される!!!!ってどうしてお前はそう極端なんだ。

 僕たちが生きているのは確かに厳かな知のルールが支配する正確で厳密な正しい世界ではないけれども、しかしそれでも飽くまで知のルールに軸足を置き理想を持ちながら眼前の問題には各自現場で対応していく、というのが知に求められるモラルではないでしょうか。

 

 ともあれここで枠組みは知のルールから権力闘争、利害闘争、政治ゲーム、あるいは藤田さんが繰り返しエクスキューズしておられるツィイタァーバリトゥードルールに移行したわけで、ではこの藤田さんの「影響力さえあれば論↑理↓なんか必要ねぇんだよォン!!!!」を知のルールという枠組みではなくツイタッターバリトゥード的に評価していくとどうなるのか検証してみることにしましょう。

 ツイターバリトゥードというのは要するに自分のブランドを構築するゲーム、固定IDにより継続的に同一性が確認できる自分のアカウントのブランド力を高めていくことで周囲の人間に自分の発言をより尊重させ、耳を傾けさせるように仕向けるというゲームです。つまり、このアカウントのブランド力をツイットーにおける影響力と言い換えることができます。ツイッツーという公開の場での議論において知的フェアネスを貫くというのはとりもなおさず「自分は知的フェアネスを持ち合わせたアカウントなのだ」ということを発信し自身のツイブランド力(影響力)を高めていく行為でもあるわけです。もちろんそれだけが唯一絶対の道筋というわけではなく、例えば実名であることとか博士号を持っていることだとか単著を出していることなどでもオプションてきなブランド力を付加することなどもできますが、一般に一番ローコストで地道で手堅い手法は長期的な収支で考えると馬鹿にできない期待値があるものです。

 さて、こういった枠組みで今回の件を捉えなおしますと「実名、博士、単著、職業批評家」という追加オプションコインを貯め込んだアカウントが「どうして客観的で論理的じゃないといけないんですか~~~???根拠は~~~~~????」と小学生の終わりの会並みのアホ丸出し感で「匿名、変なHN、付加価値一切ナシ」のアカウントに絡んで来てくれるというまさにタレに浸かった全身脱毛済みのカモがネギと鍋とコンロ持参で襲い掛かってきたみたいな状況でもうまじスーパー鴨鍋うまいうまいタイムです。実際うまい。ただそこにいて知的フェアネスに専念するだけでじゃかじゃかコインが移動してくるわけでボーナスゲーム過ぎてこれはもう完全に作業ゲーです。ぶっちゃけ飽きます。

 「影響力さえあれば論理的に破綻している主観てきなポエムでも世界に働きかけることができる」は真でしょうが、その影響力というのは固定のステータス値ではなく使えば消耗するMPみたいなものです。あるいはある程度のラインを超えて高まった影響力は消耗しにくくなる、といったことはありえますし、つまりそれが権威とか呼ばれたりもするわけですが、それですら無限であるわけでもなく、気安く俺TUEEEを乱発していればあっという間に消尽して権威も地に落ちることになるでしょう。ましてや藤田さん程度のささやかな影響力など消尽まであっという間です。君、ついこの間まで全くのゼロだったじゃん?権威ぶって気が大きくなるのなんぼなんでも早すぎるんじゃないでしょうかね?

 

 

 はい、根拠や客観性や論理的整合性、正義や倫理は「あったほうがいい」という点では合意しているので、僕と藤田さんの間ではその重要性をどの程度と評価するのかという価値判断、あるいはリスク評価という点で判断が分かれているわけです。「世間は、どうかな。」というのは要するに「(俺は頭がいいからそれがそれなりに重要だと分かっているけれども世間の普通の人たちはだいたい馬鹿だから)どうかな。」という意味であって、つまり世間の人間は馬鹿ばっかりだから大丈夫って思っている頭いいいつもりの馬鹿なのでしょう。それ(知的フェアネス)だけが判断基準であるなんてことはもちろんありませんが、しかし現実の社会や世間というのは君が思う以上に頭の良い人というのが無限のように存在しているし、当たり前の話ですがツイッターは世界に対して開かれているのでその中で自分自身が最高の知性であり続けることはまず不可能です。世間はどうかなもなにも、たったフォロワー数千人という到達範囲ですらポコポコポコポコ気軽に頭叩かれているのにその程度の論理強度でいざ世間に出たらもっと気安くしかも理不尽にポコポコポコポコ頭を叩かれるに決まっているじゃありませんか。これってただ世の中をナメ腐っているだけのことなんじゃないですかね?確かに世界は厳かな知のルールが支配する正確で厳密な正しい世界ではないけれども君が期待するほど君にとって都合のいい馬鹿ばっかりでもないよ。

 世間はどうかなもなにも現にいまツィッターのタイムラインという世間に自分の主張を投げかけてそこで「根拠は?」「主観じゃね?」「論理的整合性なくね?」とポコポコポコポコ気安く叩かれているのにどこの優しい世間でなら叩かれないで受け入れてもらえると思っているんでしょうか?ツイッターのことを世間だとは思ってないんですかね?アカウントの向う側にはさまざまな種類の一般人がそれぞれに入っているということが信じられない?「影響力があれば全ては許される!!!!!」なんて言われても現に君、影響力なんかないんだからそんなのただのないものねだりだしゴネたってしょうがないんで真面目に下から一段ずつ地道に登っていくしかないでしょう。

 そもそものもともとが「世間の多くの人が黙祷とかやってるのがムカつく」という話だったのに、より多くの世間の人を動かしたほうが正しいみたいな結論になってるの致命的じゃないでしょうか。現に多くの人が黙祷とかやってるんだから黙祷とかやってるのが正しいってことになっちゃってその筋だと一生価値転倒なんか達成できるわけがないですよね?それともとりあえず予約だけしておいて誰かが首尾よく価値転倒してくれた時に、あるいは時代の必然として自然な成り行きで黙祷がマイナな習慣になった時に「ホラ俺が言った通りだった」とかやる作戦なんでしょうか。期待値はあまり高くないように思いますけれど。

 世界は政治ゲームだ!は別にいいんですけれどもそれならそれでまずはちゃんと政治ゲームのスキルを磨いて自分の手腕でサバイブして下さい。マジでゴロゴロぐだぐだしてないでいい加減自分の足で歩きなさい精神的クソニート。

 

 結論:世界が政治ゲーム的であることは知的フェアネスの有効性を棄却しない。知的フェアネスを貫くことは政治ゲームの世界でもかなりの程度有効な手段。特に現状持たざる者である人にとっては自身のブランド力(影響力)を高めるためのほとんど唯一の手段と言っても良い。

 

  

  なんだその歴史観!?(驚愕)

 こんなもん→処女の純潔を論ず(富山洞伏姫の一例の観察) / 北村透谷 が現代のオタクの価値観に影響を与えているわけないでしょう。相関関係と因果関係がごっちゃになってます。北村透谷処女厨だったので処女サイコー!ウヒョー!みたいな文章を書いたんですけど彼はたまたま文学史に名前が残ってしまったのでその処女サイコー!ウヒョー!も文学史に残ってしまったわけでなんとも可哀想な話ではあります。各自黒歴史は適宜焼却処分していけ。まぁ明治大正期の文学者には処女厨が多いのでその当時においても彼が特に特殊な性癖を持った先進的な変態だったというわけではなくむしろ当時の価値観においては平凡なことを書いただけなわけで、んーこれはひょっとしてどっちに転んでも不名誉なんじゃないでしょうか。罪深い。安らかに眠れ。

 明治時代には処女厨の文学者が居た。一方現代の平成の世にも処女厨のオタクが居た。世に処女厨の種は尽きまじ。

 

 

 ああ、うん、そうだね。明治と今を比べてもしょうがないよね。←結論

 

 文字数も8000字を超えてだいぶ雑になってきましたがもうちょっと頑張ってみましょう。お気に入りの画像を貼るんやなw

 

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デジタル画像 フランス百科全書 図版集 <諸科学:人体(解剖)>動脈系(ドレークによる)

 

 どうでしょう、なかなか愛嬌があって単純に図画としてとても素敵だと僕個人としては思うのですが、ところがこれ一応は18世紀当時の最先端の医学的知見に基づいた学術的な資料なんですね。こういった「過ぎ去った過去の知の最高峰」に対して現代の知見、知識を持った僕たちの立場から一方的に生ぬるい視線を投げかけ昔の人は馬鹿ばっかりだったんだねと優越感に浸ることはあまりフェアな態度とは言えませんが、だからといって21世紀のこのご時世において、この図に基づいて医療行為をされてしまっても困ります。なにしろ直接的に命がかかっていますので。はい、なにを申し上げたいかと言いますと「その時代において、その時代に生きる人間として現実的に受ける諸々の制限の中で、その時代における最先端の仕事だったものは現代においてもその当時の最先端の学問として評価を受け歴史に残る」ということと「その手法が現代でも通用する」かどうかは全く別の話だということです。

 現代的な知見と感性を持った僕たちがこの図に感じる独特の奇妙さは、例えば当時の道具の未熟さとか観察機器の欠如などのみに還元できるものではありません。それは細部が描かれていないことではなく、むしろありもしないものまでが過剰に描かれていることに由来します。しかしながら、これは絵画作品ではなく自然科学的資料として描かれたものですから、当時の筆者は自らの知覚に忠実に、見えているものそのものを正しく描き記そうとと試みたはずのものなので、別に筆者自身が特段に科学的知見を持たない詩的で非論理的でイマジネーション豊かでロマンチックな人物だったというわけではきっとないのです。おそらく彼は、当時の彼が属する知のルールにしっかりと軸足を置き、知のモラルに従ってこれを描き記したに違いないでしょう。それを現在の時間軸から「詩的でロマンチックだ」と評することはいささか不誠実ではないかと思います。ましてや「現代的な価値観で見れば詩的でロマンチックなものが古典として認知されているのだから現代に生きる俺も詩的でロマンチックでも構わないはずだ」というのは、まあ別に構いはしないんですけれども、それで将来古典の仲間入りできるとはちょっと思えないですね。なんでだか知りませんけれど藤田さんは未来が自分に味方してくれると確信しているっぽくて、まあたぶん躁なんでしょう。躁なんだと思います。なんかいいことあったんですかね?

 

ある文化のある時点においては、つねにただひとつの《エピステーメー》があるにすぎず、それがあらゆる知の成立条件を規定する。 ミシェル・フーコー 言葉と物

 

 フーコーてきな用法でのエピステーメーというのは、人の思考はその人が生きる時代が持つ思考体系、メタ知識構造に否応なく従ってしまうという不可避の「知の枠組み」のことです。人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたわけですが、しかしそれらはいずれもその時代の知の枠組みの内側にまるごとすっぽり収まってしまう。時代のエピステーメーに規定されているというわけです。もちろんフーコーは「だから神ならぬ人は時代のエピステーメーからは決して逃れられないのだ!」とかそういうことを言いたかったのではなく、それを前提にしてなお希望を語ろうとしていたようですが、藤田さんに関しては不可避の時代エピステーメーを突破することではなく単に逃避することを指向しているだけのようですので今回はあまり関係がないでしょう。肝要なのは「人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたがそれらは時代のエピステーメーに規定されていた」のうち「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきた」のほうであって、それこそが時代のエピステーメーを超えて過去から現在にまで通底する知のモラルであるわけです。現代においては真理の真理性というのは根拠と客観と論理的整合性によって支持されます。

 

 

 

 いやもうマジでそうかなに言ってんだお前?って感じなんですが。主張を単純化しないというのも技のひとつって、それなんのための技でしょうね?主張をしなければ反論されないって言っているのと同じことで、負けないための技でしかないでしょう。なに威勢よく方々に喧嘩売って歩いてるくせに根本的なところがおよび腰なんですか。主張というのは理解されてこそ社会に働きかける意味を持ち得るわけで、理解されないように主張を曖昧にしておくなんていうのは自分から社会に働きかけることを諦めているとしか思えません。せいぜいが世間に理解されない躁ぎみの孤高の批評家を気取るくらいのことしかできないでしょう。それが真理だとは自分でも思っていない、分かりやすく確定してしまえばたちどころに蹴り飛ばされてしまうような主張を理解し難いように批評的な思想的な修辞で粉飾してなんとなくそれっぽく演出し、あとは政治力と影響力(現状ないのでどう調達するのかは謎ですが)でゴリ押して社会に働きかけよう、などというのは大変に「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張する」という根本的な知のモラルに欠けた姿勢だと思います。

 

 

そこで我々が早速お目にかかるのは、哲学史は即ち時間の中で出現し、時間の中で提示された、たくさんの哲学的意見を枚挙すべきだという、哲学史についての極めて通俗的な見解である。控え目に言うときは、こういうものは意見と呼ばれる。しかし、これにもう一つ突っこんだ判断を下しうると考える人々は、哲学の歴史を阿呆の画廊とさえも呼ぶ。 ヘーゲル / 哲学史序論

 

 ヘーゲルはこの阿保の画廊てき哲学史観に対して否定的な態度で阿保の画廊という言葉に言及しているわけですが、それでも時系列に沿ってその時々の思想哲学を雑多に陳列してくだけでは(つまり通常の歴史編纂の手法による哲学史では)歴代の浮世離れした哲学馬鹿たちが犯した数々の誤謬を陳列するだけの阿保の画廊にしかならないという部分には同意しています(であるからこそ哲学は多様性の中でただひとつの真理に向けて前進しているのだ、という独創的な哲学史観で哲学史の再編纂を試みたわけです)。批評史だってまぁ似たようなものでしょう。どれだけ歴代のビッグネームを挙げてところで、どれだけ彼ら彼女らが当時影響力を持っていたか、またそれらがどれだけ今日にまで影響し続けているのかを語ってみたところで、雑多に並べるだけならそれは阿保の画廊です。それが阿保の画廊と知りてなお、失敗作だと分かっていてなおその手法を「影響力が持てるかもしれないから」と正当化するのであれば、歴史から学ぶという根本的な知的姿勢に欠けるものと判断するしかありません。失敗を繰り返さないためではなく失敗を繰り返すために繰り返させるために歴史を参照するのですか?というか、読者の立場からしてみれば失敗作に影響を受けてしまったことこそが繰り返すべきでない失敗なわけですし人は失敗を繰り返さないために歴史を参照するものなのですよ?自分は頭がいいからそれらが失敗作だと知っているけれどもそのことを世間の人は馬鹿だから知らないはずなのでもう一度同じ失敗をしてくれるはずだしその中で頭のいい自分だけは勝ち抜けておいしい目をみれるはずだとでも思ってるんですか?全能感ですか?躁なんですか?

 

 結論:過去の偉人が、その著作が現代の視点から見ると明らかに失敗作であるにも関わらず、その当時においては多大な影響力をもち現在も変わらず偉人という評価を受けているということは、現在において積極的に失敗作を書いても良いのだということを意味しない。

 

 はい、とっくに1万文字を突破していますがここまでが前座です。やっと本題に入ります。

 

 

 はい、ようやく僕がやるべき仕事が少し見えてきましたね。「社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかない」故に「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするもの(批評家)は」「根拠と客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これでアガリです。「批評とは、言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて、社会を変えようとする営みである」は藤田さんのほうから提示してきた前提であるのでこれは今回無根拠に採用します。最初のほうで言いました通りあらゆる論理はなんらかの無根拠の前提を必要としますので、これは批評がそういうものであるという普遍的定義があるということではなく、これを前提する限りにおいてはさすがに藤田さんも自分で言い出したことであるのだからちゃぶ台返しはできないだろうというだけの話で「都合が悪くなると定義論に持ち込んでうやむやにして負けてないアピール」という藤田さんのツイタァーバリトゥード術を封じるための僕のツイッティーバリトゥード術です。なので残る論証までの障壁は「社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかない」だけです。

 僕のこの主張に対する藤田さんの反論は概ね「そんなことはない。影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」の一点に尽きます。これは実際のところ真でしょう。なのでこれを回避するために僕の主張に前提条件を足しましょう。

 「<現に影響力を持たない者が>言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするならば、根拠と客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これを最終的な僕の主張とします。以下「なぜ現に影響力を持たない者が社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかないのか」を説明します。

  

 藤田さんの言う「そんなことはない。影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」は実際のところそうなんですよね。世界は政治ゲーム的であるわけです。現にいま藤田さんに影響力なんかたいしてありもしないのにそれを言っているのがアホっぽいというだけで言明じたいは真です。そして、それこそが社会批評がまさに取り組むべき対象であるわけです。

 藤田さんはちょっとあまり頭がよろしくないようなので見落としていらっしゃるのかもしれませんが「影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」ということは、今まさにこの社会において「影響力があるというただそれだけの理由でふわふわポエムで社会に働きかけている」対象が存在するということです。影響力が現にある、つまり既存の権威です。「既存の権威の発するふわふわポエムには力がある」ということであり、それらはもはや根拠と客観性と論理的整合性に支持されていない過去の権威の残骸で、つまり不合理な言説です。そしてそれが不合理な制度やルールや生活様式が社会に蔓延していることの原因でもあるわけです。現に世界には権威が、強者が既に存在していて、そしてあなたは持たざるものである。その関係性において、そこに論理がなければ、持たざる者の言明は「既存の権威の意向に沿っているか否か」だけで権威によって評価されるということになってしまいます。権威の庇護下にある不合理な言説を権威の外から突き崩すには、それらがもはや根拠と客観性と論理的整合性によって支持されていない惰性に過ぎないということを、根拠と客観性と論理的整合性でもって暴くしかないのです。

 

 ツイブランド力が日々のツイの積み重ねによって高められもすれば消耗もするように、権威というのも原理的になにか過去からつながるもの、積み上げられてきたもの、伝統に関わる概念です。藤田さんの定義に乗れば「批評家言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするもの」ですから「批評家としての権威があれば言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとすることができる」というのは「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするものとしての権威があれば言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えることができる」ということになり「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするものとしての権威は言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えていくことによって得られる」というクッキーを焼くためにクッキーを焼くみたいな話になります。はい、これで合っています。クッキーを焼きましょう。

 

  社会について一般的に論じられるようなことはそう多くはありません。社会批評における問題の多くは過度の一般化に起因しています。タイムラインで話題になるような時事問題というのはそれが例外事象であるからこそ話題にのぼっているわけで、ある例外事象から一般則を導けばそれが早まった一般化になるのは当然です。一般に言えることというのは平凡で凡庸でありきたりなものと相場は決まっているのですが、社会批評というのは兎にも角にも「広く一般的に適用可能で」しかし「新奇性のある斬新なもの」を求める傾向があります。しかし、当然のように「新奇性のある斬新なもの」が「広く一般的に適用可能」となるのは一般そのものが変容するタイミング、つまり時代の節目にしか成立しません。こういった新奇的な一般則を打ち立てるタイプの社会批評というのがそもそもムリゲーなのですが、その要請をなんとか満たそうとしてことあるごとに時代の節目をねつ造しようとするわけです。ポストモダン以降、人間一般が動物化している、とか、震災以後社会全般が断絶した島宇宙化している、などなど。しかし歴史を振り返れば分かる通り、人間の感性一般が変容してしまうような時代の節目というのはそんな数年単位で何度も何度もポンポンポンポンと訪れるものではないでしょう。時代がシフトする間隔がムーアの法則てきに指数関数的に加速してきていると仮定しても、いくらなんでも乱発しすぎです。こういった大きく山をはってギャンブルしてうまくいったら儲けもの。外しちゃったら知らんぷり。言うだけならタダだからとりあえず言ってみよう、みたいな大雑把な社会批評はもうやめにするべきです。

 

 大切なのは、大雑把に社会全体に対して大鉈を振るうのではなく、ひとつひとつの個別具体的な問題点を注視し、不合理な制度、風習、言明などを個別に言語によって批判し、新しい合理的なものを言語によって提案し、それを古い制度と取り換えていくというところまでの気の遠くなるような長い行程を、根気強くひとつずつ堅実に積み重ねていくということです。そういった細やかな実践の積み重ねが後から見れば権威と呼べるような伝統を作り出していくことになるでしょう。抽象的に批評家という権威に訴えてみたところで批評家という肩書きに、とりわけ現代の日本においては、威を借りることのできるような権威が存在しているかどうかは甚だ疑問です。ないものはないのですから、ならば自分でいちから作り上げていくDASH村ルールでやっていくしかないでしょう。権威は結果として出来上がるものであって、便利使いしていい火力ではありません。

 

 【追記】藤田直哉さんからレスポンスがありました

d.hatena.ne.jp

これでもう迷わない!ポストスーパーフラット「黒瀬陽平校長ゲンロンアートスクール&こども教室合同成果展」を100倍楽しむためのステイトメントガイド

 ふわふわアート怪文書コレクターの大澤めぐみです。

 

 2014年8月30日からの三日間、東浩紀さんが経営する五反田のゲンロンカフェにおいて、黒瀬さんの提唱する新概念ポストスーパーフラットをテーマとした展示会「黒瀬陽平校長ゲンロンアートスクール&こども教室合同成果展2014」が開催されます。それに先立ち黒瀬陽平さんによる展示会のステイトメント『「ポストスーパーフラット」から「ポストフクシマ」へ』が公開されましたが、黒瀬さんの独特な言語感覚で書かれたこの文章は、彼の文章に慣れていない方には少し分かりにくいものとなっていると思われますので、これを現代アートなどに馴染みのない一般の方向けに平易に解説すると共に、今回の展示の見どころを紹介していきたいと思います。

 

 まずポストスーパーフラットと言われても、そもそものスーパーフラットがなんなのかよく分からないのではなかなか難しいでしょうから、軽くこれの解説をしましょう。とはいえ、言葉じたいはとても有名なので一般の方でも耳にしたことぐらいはあるかもしれませんね。芸術家 村上隆さんの提唱した概念で、村上さん自身の著作の中でも定義が二転三転しているため、これこそがスーパーフラットだと端的に説明するのは難しいのですが、原意としては「多重平面による奥行表現」を指す語です。シューティングゲームをやる人なら、サンダーフォースの多重スクロールによる奥行表現をイメージしてもらうと分かり易いかもしれません。平面的に描かれたレイヤーを複数重ねることで奥行を表現する技法です。村上さんはこれを導線に「故にアニメ・マンガなどの表現はART足り得る」を論証し、一般にARTとして認知されていなかったアニメ・漫画などの表現をARTの中に位置付けました。

 ものすごく雑で投げやりに説明すると「西洋の透視図法に対し、日本独自の多重平面による奥行表現が西洋のマーケットでウケた。故に浮世絵とかそういうのはART足り得た。アニメ・漫画も同様の多重平面による奥行表現という文脈を踏襲している。故にアニメ・漫画はART足り得る」という道筋です。最終的にアニメ・漫画に至る、既にARTと認知されているものによる導線を引くことで、アニメ・漫画表現にARTの中での居場所を作ったわけです。美術史という数直線上にアニメ・漫画をピン留めした、というのが一番大きな意義です。スーパーフラットという導線によって、従来ARTと見做されていなかったアニメ・漫画・ゲームといったものは美術史上のここに位置するよ、と座標が示されたわけです。

 先にも述べたようにスーパーフラットの原意は「多重平面による奥行表現」ですが、一般にスーパーフラットと言えば、最終的に「故にアニメ・漫画はART足り得るのです」に至る論証、導線そのものを指す語として運用されています。

 

 さて、そのスーパーフラット村上隆さんとカオスラウンジと言えば 、村上隆さんがカオスラウンジを拾い上げ 

 直後に村上さんの門下のMr.の作品をカオスラウンジにパクられ

  何故かカオスラウンジがヨソからパクったことの尻を拭く羽目になり

  突っ込んだら砂をかけられ血圧も上がり

 逆恨みされ 

 宣戦布告され

 かと思えばゴロニャンされたり

 その一方で村上隆さんのほうはカオスラウンジに見切りをつけて、彼らに求めていた仕事を自分で引き継いだり

 今度は謎に「君も村上隆を超えてみないか!?(他力本願)」と当て馬扱いされたり

 村上隆をも敵に回した稀代の批評家!なんて看板に使われたり

 とまぁ、僕個人としては決して村上隆さんに好感情を抱いているわけではないのですが、流石にこの扱いには「ざまぁw」を超えて普通に不憫になってしまいます。

 

 さて、ここ数か月の黒瀬さんの動向はどうやらポストスーパーフラットという概念をブチ上げることによりスーパーフラットを超克して積年の目の上のたんこぶ(逆恨み)村上隆をいよいよ超えてみせる!!と息巻いているようなのですが、肝心のそのポストスーパーフラットという概念が語感以外に一切不明という状態だったので、いまいち何をするんだかどうやるんだかピンとこないというのが実際のところでした。

 ところが今回のステイトメントにおいて、ようやく謎のベールに包まれていたポストスーパーフラットが定義されたので、その意図が見えてきた感じがあります。

 

 ポストスーパーフラットとは、スーパーフラットが依拠していた文脈を相対化する視点のことである。

 

 とは、で始まり、である、で〆られているので、この一文がポストスーパーフラットの簡潔な定義文であると解釈できます。とはいえ、独特の言語感覚を持つ黒瀬さんの文章は、ふわふわアート怪文書に耐性のない一般の方にはパッと見ではなんのことだかつかみみづらいことでしょう。しかし、如何に修飾関係が混乱した文であっても、諦めず丁寧にひとつずつ整理しながら読んで行けばちゃんと読解できるものです。中学高校の現国の長文読解の授業のつもりで丁寧にやってみましょう。

 文意がつかみづらい長文に出くわした場合は、まず概要をつかむために修飾語をすべて取り除くのがセオリーです。

 

 ポストスーパーフラットとは視点である。

 

 この時点ですこしハテナがつきますね。先述のとおり、スーパーフラットとは最終的にアニメ・漫画に至る導線のことですから、導線と視点、線と点、超えるとか超えないとかの話をするには比較のためのグレードが揃っていないように感じられます。 しかしまずは読解です。疑問はさておき読み進めていきましょう。 ポストスーパーフラットとは特定の表現技法や美術的スタイルのことではなく、視点である、というのは分かりました。ではどのような視点か。

 

 スーパーフラットが依拠していた文脈を相対化する視点のことである。

 

 スーパーフラットとは導線、つまり文脈そのものを指す語として一般に運用されていますので、「スーパーフラットが依拠していた文脈」というセンテンスはすなわち「スーパーフラット」と扱って構いません。

 

 ポストスーパーフラットとは、スーパーフラットを相対化する視点のことである。

 

 だいぶシンプルになってきました。 では次に、相対化とはどういう意味でしょうか。よく使われる語彙ではありますが、なんの為に相対化するのかというと、それは位置付けを確認するためです。航海術の交差方位法などをイメージして頂けると分かりやすいと思います。「俺の村」という語だけでは客観的にその村がどこにあるのだか一切確定しませんが、「俺の村は東京から300キロ離れている」「俺の村は大阪の北東にある」と、他の地点との関係性を吟味することで、その位置づけを把握することができ、地点を追加していくことで精度を高めることができます。「あなたは優しい」という言明は、あなたは普遍的に絶対的に優しいという意味ではなく、わたしより優しいとか、他の人に比べて優しいという意味です。位置でも属性でも評価でも、他者との相対的関係性においてしかそれを確認することはできません。自分では自分は見えないので、外部の視点が必要となるわけです。

 

 ポストスーパーフラットとはスーパーフラットの位置を確認するための外部の視点のことである。

 

 かなり文意が通りましたね。スーパーフラットは美術史の数直線上にアニメ・漫画をピン留しましたが、それをさらに他の地点からも観測することにより、三次元空間的にスーパーフラットの位置をピン留めしようとする試みだと考えられます。あれ、スーパーフラットを超克するんじゃなかったの?それじゃむしろスーパーフラット研究じゃない?というような疑問も浮かびますが、ポストスーパーフラットという語は黒瀬さんしか使っていない、黒瀬さんが定義した独自用語なので、自然言語的にポストスーパーフラットとはこういう意味だ、という議論はあまり意味がありません。別にラベルに書かれた文字がポストスーパーフラットでもスーパーフラット研究でもクロックムッシュでも、ある概念をある語と紐づけ、その場において一貫してそのように扱うのであれば支障はありません。

 以上が黒瀬さんによるポストスーパーフラットの定義文を自然言語的に解釈した場合の定義となります。

 

 次に、ではスーパーフラットを観測し、その位置を確定するために具体的に何をするのかが気になります。

 

 「悪い場所」(椹木野衣)や「スーパーフラット」(村上隆)という、既存の美術批評のパースペクティブを乗り越え、「情報社会」や「震災後」といった現在進行形の問題に取り組む、という大きな目標を掲げた。

 

 セオリー通りに修飾語を取り除きます。

 

 「情報社会」や「震災後」の問題に取り組むのが目標。

 

 つまり、今回の展示のテーマですね。情報社会や震災後というのはスーパーフラットとは関係がありません。先にも述べた通り、観測により位置を確定させるためには、複数の「外部の」地点から観測し、その相互の関係性を明らかにすることが必要なので、比較対象となる作品群のテーマがスーパーフラットと関係がないのは必然です。

 

 受講生たちは、スーパーフラットという枠組みに留まらない文化的文脈を多数持ち込んだ。

 

 というのも、同様の理由で、スーパーフラットの位置づけを確たるものにするために、スーパーフラットに関係しない外部の観測地点を増やしたということです。今回の展示では、こども絵画教室の作品展との抱き合わせとなっていることも重要な点です。スーパーフラットというのは村上隆さんが提唱したものではありますが、日本美術の根底に脈々と受け継がれている表現技法とその文脈のことなので、日本人であり、日本的感覚の中で暮らし、日本で美術を学んだ以上は、意図的に避けでもしない限りは自然とスーパーフラット的になってしまう、という類のものなので、まだ美術教育を受けていないこどもの作品というのは「スーパーフラットの外部」という視点を確保するために非常に有効に機能するであろうことが期待されます。

 

 まず、展覧会場全体は「浄土式庭園」に見立てられている(梅田裕《羊の東西》)。わたしたちは、此岸から彼岸を拝む「橋(エレベーター)」を渡って、「現代における救済の場」としての浄土庭園に足を踏み入れる。東には太陽が掲げられ(初鹿野雄起《RISING SUN》)、西には「秘仏」を安置した阿弥陀堂が配されている(中山いくみ《ポストスーパーフラット祭壇画》)。そして、「宴」の場である砂利敷のフロアでは天女=アイドルが舞い(古村雪《会いに行け アイドル(2035年)》、あたまがぐあんぐあん《アイハラ! idle Harassment!》)、聖衆が遊戯に興じ(遠野よあけ《悪くない場所RPG》)、河原者が物売りをしている(巣窟明《路上生活者〜ON THE DOURO》)……

 

 このなんかごちゃごちゃした文章はとりあえず「色んな作品があるよ」みたいな感じで概ね大丈夫です。

 

 平安から鎌倉時代にその頂点を迎え、禅宗の流行とともに「枯山水」にとってかわられた浄土式庭園を召喚し、現代アートの空間として見立てることは、スーパーフラットにおいても禅や「無常感」「侘び寂び」などが参照されがちだった日本美術のイメージを、それ以前に遡ることによって拡張し、日本美術史を独自に再編集してゆくだろう。そして、釈迦入滅後56億7千万年後に訪れる弥勒の救済を待つ場としての庭園と、ウラン238半減期45億年という時間軸の中で「復興」を為そうとする私たちの現在が重ね合わされる。

 

 はい、要するに「スーパーフラットの文脈に連なるものを意図的に回避したよ」ってこと、スーパーフラットと全然関係ないよ、という感じで全然オッケー。

 「スーパーフラットを外部の複数のスポットから観測して、それぞれの関係性を明らかにすることによりスーパーフラットの居場所、アウトラインを確定させる」ことを目的とし、「スーパーフラットと関係ない」「複数のスポット」を用意した。>>>それら複数の地点とスーパーフラットとの関係性を明示することにより、スーパーフラットの位置づけを確定する!!!<<< ここまでは完全に文意が通りました。

 

 

 つまりこここそが今回の展示の見どころとなります。

 

 

 ポストスーパーフラットという視座のもと持ち込んだ多様な文化的文脈は、スーパーフラットを相対化する。

 

 と、あたかも地点さえ容易すれば自ずとスーパーフラットとの関係性が明示されるかのような言い回しになっていますが、その部分、展示されたそれぞれの作品とスーパーフラットとの関係性を明示することこそがキュレーターである黒瀬さんの仕事ですから、押しつけがましくあからさまに解説するのではなく、黒子のように立ち回ることで、あたかもそれらの作品群とスーパーフラットとの関係性が自ずと明示されたかのように観客には認識されますよ、という意味の、黒瀬さんのキュレーターの矜持がそうさせた言い回しでしょう。

 地点を用意したから各々勝手にそこからスーパーフラットとの関係性を考えてね、というのでしたら、そもそもやっていることは「スーパーフラットと関係ない色んな作品の展示」ってだけですから、コンセプトにポストスーパーフラットと銘打つ意味がありません。この世に存在するあらゆるスーパーフラットと無関係な作品/展示、スーパーフラットの補集合は、ポストスーパーフラットと呼ぶにふさわしいということになってしまいます。

 スーパーフラットと全然関係ない色んな作品を集めた展示会が、複数の地点からの相対化によってスーパーフラットをピン留めする事業になるための要件は「それぞれの地点(作品)とスーパーフラットとの関係性の明示」です。

 三日間という非常に短い開催期間となっておりますが、お近くに寄られた際にはぜひ五反田のゲンロンカフェに足を運んで頂いて、この部分の黒瀬さんの仕事に注目して展示会を楽しんで頂けたらと思います。

 

 ※ふわふわアート怪文書コレクターとしての力が及ばず『と同時に、私たちの目先をより広範な歴史へと向かわせる。ポストスーパーフラットの視座によって拡張された現代アートは、「ポストフクシマ」の現在を思考するために起動するのである。』という部分は何を言っているのか一切分かりませんでした。お詫び申し上げると共に、どなたか読解に成功した方がいらっしゃいましたら、後学のため @kinky12x08 までリプライにてお知らせ頂けますと助かります

あの頃の君は不死のゾンビたちとの泥沼の殴り合いの中にこそ喜びを見出していたはずじゃなかったのか

 

 しんかい36こと山川賢一さん(怨念暗黒流剣術免許皆伝)の心が折れてしまったので代打で出ます。サラサラヘアーの本物川こと大澤めぐみ(元オチスレのアイドル/怨念暗黒流剣術見習い)です。怨念ゲージを溜めてリミットブレイク技を発動しよう!

 

 東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編

 

 以前にtogetterYoutubeで公開された、山川賢一の「動ポモのどこがクソなのか大会」の再編集版とでも言うべきエントリです。基本的に批判の内容は同じなのですが、ポイントを絞り、かなりざっくりとダイエットしてすっきりした感があります。乱舞系の九頭龍閃から一撃必殺系の天翔龍閃への進化といった体ですが、怨念と憎悪にまみれたコッテコテでドロドロの怨念暗黒流剣術のファンである僕にはちょっとスッキリとしてそれでいてベタつかないのが物足りない感じだったりもします。怨念と憎悪に呑まれることなくそれを超克した先にある、究極の神速剣はたしかに威力は上がるかもしれませんが、怨念暗黒流の魅力はその威力のみにあるのではないと強く主張したい。モテたいとか受け入れられたいとか、そういうのは全部雑念なので、もっと心を無にして、ありのままの自分の怨念と憎悪に正面から向き合ってほしい。

 

 しかし一撃必殺系なので要旨は簡単ですね。用語の用法がそれぞれの場面でスライドしている。グラデーション論法。今回の指摘はこれだけです。これでなにが問題なのかと言うと、それぞれの用語が指示する範囲が違うのだから、その通りに適用すれば全てを満たす適用範囲が極めて限られてしまうので、データベース消費理論はオタク一般に適用できる理論ではなくなる。社会論への接続可能性が失われる。要するにデータベース消費理論の有意性が失われる、ということになります。

 

 これに対して、以前の動ポモのどこがクソなのか大会にも出演していたコロンブスさんから反論のエントリが出ています。

 

 「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」を読んで

 

 グラデーション論法って言うほうがグラデーション論法!っていう、馬鹿って言うほうが馬鹿案件なのですが、まあそれはいいとして、山川さんのエントリのグラデーション論法を指摘する!というワンアイデアが先行してしまっていて、守るべき本丸がおろそかになるどころか、むしろ積極的に破壊してしまっています。

 

 要旨としては、東はデータベース消費理論は全てのオタクに適用できるなんて言っていないのに、山川さんは勝手に全てのオタクに適用できないから無効って言っている!グラデーション論法!!みたいな感じなのですが、データベース消費理論がオタク全てに適用できるものではないというのが真だとして、ではその割合がどうなのか、という話になってきます。データベース消費理論が社会論として成立するぐらいに広い範囲に観測できる法則であると主張するのならば、全てに適用できないのであっても依然山川さんの指摘は有効なままですし、山川さんの指摘を無効化できるまでに適用範囲を絞ればデータベース消費理論は法則と呼べるほどのものではなく、極めて限られた人の様態を示しただけのものにすぎない、ということになります。つまり、山川さんの指摘を追認する形になってしまうのですね。データベース消費理論は法則と呼べるほどに適用範囲の広いものではない、という点で両者は合意できているので、グラデーション論法って言っているほうがグラデーション論法を使っているんだ!とかそういう泥沼の戦いはどうぞ好きにやってもらいたい。そういう地獄のような殴り合いが見たいんだ僕は。

 

 エヴァに逢うては原作の物語とは無関係にイラストや設定を消費し、ノベルゲームに逢うては類型的で抽象的な物語を消費するという、すべての要件に見事合致する極少数の奇特な人がデータベース消費理論の適用対象であり、その対象を書籍内の独自用法としてオタクと定義すれば、少なくとも表面上の無矛盾性は担保されます。なにしろ世界は広いので、すべての要件を満たす人もどこかには存在するでしょう。

 

 以上のことからデータベース消費理論は無矛盾であり、限定的に現実に妥当する理論であるということが分かって頂けたかと思います。

 

 でっていう。

そんなポストモダン・ジャパンの行方なんかよりも浅田彰に学ぶ10オンスグローブ級の美しい日本語表現

 本物川こと大澤めぐみがお送りしております、大反響のふわふわアート怪文書ブログ。どれぐらい大反響かと言いますと、実兄から感想もなにもない「読んだよ」というただ読んだ旨だけを伝えるメールが届くくらいに前代未聞の大反響っぷりで今後のブログ運営が危ぶまれるところでもありますが、明鏡止水の如き不退転の覚悟で淡々と進行していきたいと思います。

 

 以前のエントリで取り上げた浅田 彰×黒瀬陽平ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」、黒瀬くんのターンを受けての浅田さんの再応答となる第三ラウンドが公開されました。

浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第3ラウンド]1

 

 とても美しい日本語で記述されていて、いろいろな学びがある内容となっています。

 

 >矢代幸雄の「前面性」という概念を借りて、仏像などを含む日本の宗教美術を特徴づけるというのは、やや大雑把に過ぎるとはいえ、ある程度まで納得できる見方だと思います。ただ、僕の疑問は、「日本の仏像や神像について、おおむね正面性が強いということは言えるとしても、『二次元的である』とまで言い切れるか、あるいはまた、キャラクターは二次元でなければいけない、言い換えれば三次元的なキャラクターはキャラクターたり得ない、と言い切れるか」というものでした。黒瀬さんの返答を踏まえてもなお、この疑問は残ります。

 

 とても美しい日本語表現ですね。普段の僕の口調だと、「ああ、まぁそれが正しいかどうかは別として、君が言いたいことは分かったけど、それ全然僕の質問の答えにはなってないよね?質問の意味が理解できなかった?もう一回言おうか?」みたいな感じになると思います。要するに「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」です。同じことを言うにしても表現を工夫するだけでここまで美しくなるものかとハッとさせられると共に、日本語という言語が持つ詩的ポテンシャルの高さを改めて認識しました。オブラートどころか言葉の拳を10オンスグローブで包むが如しです。一般に、ボクシンググローブというのは拳の保護を目的として使われているようですが、グローブが大きくなればなるほど打撃が即KOに結びつかず、選手がファイティングポーズを取り続ける限りは試合は続行されるため加撃され続けることとなり却って危険性を高める、という議論もあるようです。僕としましては黒瀬さんには是非とも固い決意で何度でも立ち上がりファイティングポーズを取ってもらいたいと、こう思う次第であります。

 

 >アニミズム多神教の世界、とくに日本では、現世と来世、俗なる空間と聖なる空間は連続しており、ひとつの絵画空間の中にあっけらかんと共存し得る、という見方は、やはり大雑把すぎるものの、比較文化論的な第一次近似としては理解できます。(中略)ただ、僕が問題にしていたのは、久松知子の《日本の美術を埋葬する》を、生者と死者が共存するプレモダンな日本的空間と称するものに回収する見方が、本当に適切なのか、ということでした。

 

 はい、とても美しい「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」パンチのコンビネーションですね。黒瀬くんが繰り出すトリッキーで小刻みなパンチをその場から一歩も動くことなく全て避け(それを避けると呼ぶかという議論はまた別にあり得ましょうが)何度でも同じところに同じパンチを打ち込むだけという愚直とも思える挙動。まさに学長の風格。これも普段の僕の口調にすると「うん、まぁそれが合ってるかどうかっていうと微妙な感じはするけど、とりあえずお前が言いたいことは分かった。でもそれ俺の質問に対する答えになってないよね?ひょっとして全然意味分かってない?もう一回言おうか?」みたいな感じになるでしょう。

 

 以上です。

 

 はい。実は今回の浅田彰さんの応答、挨拶や相槌に相当する部分を除くと、実質的に前回の黒瀬くんのエントリに対応しているのはこの部分だけになります。黒瀬くんの7000文字を超えるエントリに対して、実質「でも俺そんなこと聞いてるわけじゃないんだよね」と言っているだけなんですね。黒瀬さん、浅田さんの疑義を全てスルーしてひたすら全然関係ない話をしていただけなので、当然と言えば当然なのですが。

 

 >黒瀬さんの『Little Akihabara Market』展のテクストが単なる思い付きではなく、それなりに広く深い思考に裏打ちされていることがあらためてよくわかったし、そのことが多くの読者に伝わるとすれば、この意見交換には十分な意味があったと言うべきでしょう。

 

 目の前に相手が居るのにリングの上でシャドーボクシングに興じる黒瀬さんの挙動に対しても、黒瀬さんのシャドーボクシングスキルを観衆に知らしめるという価値まで否定し切ることは難しいでしょう。何度直撃を食らって血まみれで昏倒しようとも、何度でも立ち上がり飽くまでシャドーボクシングに徹する姿勢には鬼気迫るものがあり、ここは僕も完全に浅田さんの言に首肯せざるを得ません。心の奥底からじんわりと暖まるような実に美しい日本語表現で学ぶところが多いですね。

 

 さて、前回の黒瀬くんのエントリに対する応答は「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」パンチ一本で粉砕した浅田さんですが、流石にそれだけでは間が持たないと判断したのか、後半ではさらに別の追撃を仕掛けていきます。ゲンロン通信という東浩紀の友の会の会報に掲載された、黒瀬さんの「『当事者性』の美学」というテキストに対する言及で、残念ながら僕は元のテキストを持っていないので浅田さんの引用からその内容を伺い知ることしかできないのですが。

 

 !!!!直接の被災者ではないカオス*ラウンジ」は「自らの炎上の『当事者性』を介することで震災について考えた!!!!

 

 すごいですね。

 

 知っている人は知っている、知らない人は覚えてね、ただのゆるふわアート学生のオフ会みたいなものに過ぎなかった黒瀬さん率いるカオスラウンジは、梅沢和木さんのキメこな丸パクリ騒動大炎上し一躍有名になったわけですが、その炎上の経緯っていうのは「パクったら怒られたから逆ギレしたら大炎上して、結果的に他の悪さも芋づる式に出てきてさらに延焼」っていう、ほとんど「万引きを自分からツイッターで自慢してたら怒られたから逆ギレしたら大炎上した」っていうような、いわゆるバカッター丸出しのテンプレパターン自業自得因果応報諸以外のなんとも言いようがないようなものです。未曾有の天災である東日本大震災被災者に対して「俺たちも被災者の気持ちはよく分かるよ。ネットで炎上したことあるからね」って言っているわけで、そりゃあ普通に「は?」ってなるだろうという話です。

 

 >「当事者性」を本気で重視するのなら、東日本大震災とカオス*ラウンジの「炎上」を、またそれぞれの「当事者性」を重ねるとか、「原発麻雀」をプレイすることで東京電力の「当事者性」を身に帯びるとかいうのは、いくらなんでも軽率に過ぎるのではないでしょうか

 

 「は?」の一言で済む話をここまで美しい日本語表現にしてしまう浅田さんの変幻自在のゲンロンボクシングスキルは流石と言わざるを得ません。僕もスラスラとこんな美しい日本語を話せるように日々精進していきたいと決意を新たにしたところであります。