いかにして黒瀬陽平のテキストが学術的価値を認められうるかについて真摯に耳を傾ける向かって左30度

浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第2ラウンド]2

 

 このエントリーは黒瀬陽平さんによる上記のエントリーにインスパイアされマスターピースをアプロプリエーションしてシミレーショニズム的手法で真摯に取り組むべく忸怩たる思いではてなブログに登録をした次第の本物川こと大澤めぐみがお届けしております。初エントリども……

 

 件のエントリーでありますが、久松作品の読解をきっかけに、リアリズムから一足飛びにプレモダンへ移行しようとする黒瀬陽平クールベ解釈に対して「有名人群像であれば《オルナンの埋葬》よりも《画家のアトリエ》が重要だろう」という浅田の指摘について黒瀬陽平は理解している旨から始まるわけですが、この点についてまず耳を傾ける必要があるでしょう。しかしながら言うまでもなく、人間の耳は犬猫などとは違い独立して稼働するような構造をしておりませんので、耳を傾けるためには首から上の頭部全体を傾けるしかなく、これは様態としては要するに首を傾げていることになるわけですが、とはいえ、向かって左方向30度程度の傾斜にはなんらかの意図を読み取らずにはいられないのが人間の本性というものです。そんな話だっただろうかと思われる向きもあるかもしれませんが、そう言いたいのはむしろ僕のほうだと声を大にして主張するまでは行かなくとも舌打ちしてボソッと呟く程度にはささやかな抵抗を試みてみる所存で望むべきだと考えます。

 

 さて、非常に目が滑る、つまり文章と視線との摩擦係数が極めて小さい黒瀬陽平のエントリーですが、冒頭を要約すると

 「死と再生のテーマの是非で食い違ったのは、浅田と黒瀬の死生観が食い違っているから」

 「西洋の死生観はプロテスタント以降、復活が特異なものである。一方日本の死生観にはそれは無い。」

 「浅田の解釈は正当クールベ解釈的には正しいが、久松がわざわざそんな時代遅れのことするわけもないので、正当クールベ解釈に基づく批判は生産的じゃない。黒瀬の言う死生観に基づいて考察するほうが生産的だ」

 といったようなものであろうと解釈しました。しかしながら、なにしろ僕の視線もカーリングストーンのように軽やかに滑って行きましたので解釈の妥当性については定かではありません。とはいえ、そこまで大きく的を外してもいないのではないかという自己評価にはある程度の妥当性が存在するものと願ってやまない今日この頃、止まない雨はない、みたいなありきたりな慰めの言葉をかけられても、今降っている雨こそが問題なのでそんな問題ではないと積極的に煽っていきましょう。そもそもその読解が誤解であるという指摘も真摯に受け止める覚悟ではありますが、人間どこかでは断定しないとなかなか話が前に進みませんので、ここでは仮にこの読解が真であることを前提に話を進めていきたいと思います。話が進んでいないぞという指摘に関しても謙虚に受け止めて流しつつ、まずは「西洋の死生観はプロテスタント以降、復活が特異なものである。一方日本の死生観にはそれは無い。」という前提に耳を傾けてみましょう。この場合、耳を傾けるというのはこのエントリーで独自に定義されたテクニカルタームです。

 

 言うまでもなく、キリスト教の教義の中心概念となるのは「永遠の命」です。キリスト教を信仰することによって得られる救いとは他でもなく、死後の復活とその後の永遠の命だからです。つまりは漠然とした不安に対して安心を売っているわけで、生命保険が商材として成立するのと同じ理屈です。これこそが旧約聖書(とキリスト教徒が読んでいるもの)を聖典とするユダヤ教と、新約聖書を含む一群を聖典と定めるキリスト教の差異です。旧約聖書にはそもそも死後の世界に関する言及というのが一切存在しないので、復活がキリストの特権であるとかそんな小理屈を捏ねるまでもなく、死んだら終わり、死んだらそれまで、塵に過ぎないお前はまた塵に帰るだけ、という死生観となっています。また「プロテスタントキリスト教以前には、様々な呪術的信仰が存在していた。そこには日本の仏教・神道的な死生観と共通するものが数多く見つかる」と言及されていることから、上記エントリーで使われている「西洋」や「キリスト教的死生観」というタームは「プロテスタントキリスト教以降」と解釈すべきであろうと考えられますので、ここでカトリックプロテスタントの差異についても触れておきたいと思いますが、端的に申し上げますと聖典として認める範囲が異なります。あまり一般的なタームではありませんが「アプクリファ」とか「第二旧約聖書」とか「インターテスタメント」呼ばれる一群はプロテスタントにおいては聖典として認められていません。やっかいなことに、プロテスタントはこれを聖典として認めない立場でありますから、聖典ではないということを明確に示すためにこれを「旧約外典」などと呼びますが、カトリックにおいてはなんのエクスキューズもなく普通に旧約聖書の中に含まれているのです。つまり「旧約聖書」という語を使うにしても、それがプロテスタントにおける旧約聖書であるのかカトリックにおける旧約聖書であるのかによって、その語が指示する範囲が異なっていまうわけです。したがって、この語によって担われているコンセプトの再現性、あるいは翻訳可能性についても今後は考えてゆかねばならないなどと使命感を抱いたところで、そもそもキリスト教徒が全人口の1%未満でしかない我が国においては、真紅の二次創作絵がドロワーズではなくショーツを履いていた場合などに感じる憤りと似たような種類のものであり、つまりこれは非常に由々しき問題であると認識を新たにすると共に、徹底抗戦を固く心に誓ったところであります。滅びの風よ、吹け。

 

 もしかしたら、ここで問題にするべきは「ドロワーズとショーツ」というテーマを持ち出すことについての是非ではなく、僕とみなさんの想定している「ドロワーズとショーツ」の神話の違いについて、なのかもしれませんが、話を戻しましょう。旧約聖書の中に聖典として認められない一群がある、という話は既にしましたが、ではなぜそのようなことになったかというと、ヨーロッパで広まった聖書は主にラテン語で記述されていたわけですが、ヘブライ語から直接にドイツ語への翻訳をしたマルティン・ルターが翻訳の作業において、既に広まっているラテン語の聖書にはヘブライ語の聖書にはない箇所があることに気付いたのです。つまり、旧約聖書にはラテン語に翻訳されるあたりの段階で書き足された部分があったということです。聖書はその中で「あなた方は、わたしが命じている言葉に付け加えてはならず、それから取り去ってもならない」と規定されていますので、書き加えられた箇所は除かれなければならないと考えるのは当然の帰結と言えると思うかもしれませんが、そのことに気付いたルターが即座にそれを取り去ったかというとそういうこともなく、ただし、あちこちに分散して書き加えられていた箇所をひとまとめにして旧約聖書の末尾に置くことにしました。このルターの翻訳が広く採用されたために、書き加えられた箇所は第二旧約聖書というひとまとまりの文書として認識されるようになっていったのです。さて、果たしてこれで話は戻ったのかという一抹の不安を払しょくできない節は否定しきれないこともありませんが、ここで気になってくるのは「キリスト教的な歴史的一回性によって死生観が統合された経験を持たない日本ではどうか」という言明です。これは少し操作すると「西洋の広い地域ではキリスト教的な歴史的一回性によって死生観が統合されている」という言明となり、これが自明の前提として扱われているのですがここもまた首を傾げざるを得ません。間違えました。耳を傾けてみましょう。

 

 黒瀬陽平史観では「プロテスタントキリスト教以前は日本の仏教・神道的な死生観と共通するものが数多く見つかるが、プロテスタントキリスト教以降は生と死は明確に断絶するようになり、原則的に「死と再生」の神話は認めらなくなった」ということになっているようですが、もはや言うまでもなく、カトリックプロテスタントの差異はそんなところにあるのではなく、前述の通り聖典と認める聖書の範囲であり、またプロテスタントという語そのものが宗教改革によってカトリックから分離した「諸宗派」を指す語であって、大きく分けるだけでも福音派とリベラルに二分することができ、プロテスタントという一大勢力が西洋世界の宗教を統一したわけでもなんでもありませんし、プロテスタントキリスト教が西洋全体の死生観に与えた有意な影響があるわけでもなく、プロテスタントキリスト教以降という区分で西洋世界全体を語るのであれば、それはただ「16世紀頃」という大まかな時代を指すだけのアンカーでしかありません。16世紀頃の西洋といえば、まさに近代化の起こりですね。生と死が明確に断絶するようになった、という変化の原因を求めるのであれば、そちらを採用するほうが自然な流れというものではないかと考えるわけですが、そもそも考えるという行為自体が自然な流れに刃向う行為、動物的本能に対する人間の知性による反逆なわけで、そうは言ってもやはり人間は考える葦たるべしなのだから、まあたぶん近代化が原因でしょう。

 もちろん、ヨーロッパの近代化はプロテスタント革命によって強力な後押しを得たものだ、という見解には僕も首肯するものですが、僕たちの議論において重要なのは先にも述べた通り、プロテスタントキリスト教がなにかしら死生観に関する新しい解釈を持っていた故に、16世紀以降、生者と死者の世界が断絶したのではなく、ただ近代化の結果としてそうなったのではないかということだろうと思うのです。なにしろ、僕たちの居るこの世界は現に生と死が明確に断絶しているのですから、いずれ人はその世界の真実を当然のこととして受け入れざるを得ません。貴方がどのような死生観を持とうとも貴方は死ぬし生まれ変わらないし復活もしないし地球は太陽の周囲を公転し宇宙は膨張を続けています。さあ、アセンションによってパラダイムの地平を超えるのです。

 

 そもそもの話、16世紀以降の西洋の文化芸術において死者の復活が封じ手となっているかと言えばこれも甚だ疑問であるし、これは黒瀬陽平の言明ではなく引用された文章へのツッコミになるうえ原本を読んでいないのでアレなのですが「しかしこの点で日本の宗教の特異な点は、死者の霊魂のあの世での浄化を、生者がこの世から援助できるということであろう」なんて清々しく断言されてしまうと、パンを踏んだ娘って西洋的世界観ではかなり特殊なプロットに相当するのだろうか?聖ブランダンの航海は?ホレおばさんは?などと一瞬で様々な疑問が走馬灯のように駆け巡る悲喜こもごもの様相を呈してきたところで世俗の聖典をつらつらと読み返してたら「英雄的な行為はキリスト教神話において受難を耐え忍ぶという形を取るが、世俗文学はいかなる教義上の禁制によっても縛られないので、主人公はキリスト教の物語において対応している神的存在と同じように救い主の役割も引き受けることができる」みたいなことが書いてあるじゃありませんか。というか、そもそもの論点は生者と死者の距離感が遠いか近いかという話であって、西洋が断絶しているのはキリスト教の教義によって死者が復活できないからだ、みたいなことを言われても、キリスト教においてもキリストの特権となっているのはメシアとしての復活、つまり人間ではなく永遠に生きる存在として復活することであって、死んだ人間がそのまま生前の人間として復活する、死という病気が治る(故にその後も普通に人間として生き天寿を全うして人として死ぬ)、というレベルの復活であればそこいらの聖人でもわりと気軽に起こしていいレベルの奇跡でしかありません。それに、日本の場合はむしろ復活なんかするまでもなく死んだままで幽霊として出てくればそれで済むみたいなところがあって、むしろそれこそが「あまりにもぬけぬけと繋がった生と死の空間」と評される様態なのではないかという気がしてきたりもしました。お彼岸にご先祖様は生き返って生者として帰ってくるのではなく、死んだままでざっくばらんにフラッと返ってきますし、生者と死者の距離が近い世界観ではそもそも復活する必要もないわけで、宗教の教義によって復活できない縛りがたとえ事実であったとしても、それは生者と死者の距離感とは無関係のファクターではないかと彼岸への想いを馳せたところで話は振り出しに戻りこそすれ、一歩も進んでいないのではないかという指摘も真摯に受け止めるとは言ったものの、受け止めたからといって改善するとは限らない、むしろ受け止めるところまでは頑張ったのだからもうそれで勘弁してくれ、改善策とか再発防止策など知ったことか、というのが「真摯に受け止める」という語の実際の運用のされ方であろうかと思います。

 

 そういえばこれは、黒瀬陽平のエントリーについての話でした。後半の要約としては

 「矢代に拠れば日本の仏像は前面性芸術である」

 「矢代の見解を鵜呑みにするのは危険だが、前面性、平面性が日本の神仏の世界と紐つけられているということは言える」

 といった感じではないかと視線で華麗な四輪ドリフトを決めつつコーナリング出口では速やかにトップスピードに乗りざっくりと解釈したわけですが、長々と日本美術の前面性について語っていたはずなのに、最後に唐突になんの論証も挟まず、前面性と平面性がイコールで結ばれていて、前面性と平面性というのは「すなわち」の一語ですんなりとイコールで結んでしまっていい概念であろうかと疑問を呈すれば13人の怒れるドイツ人がビールジョッキ片手にハラショーと開廷しそうな気配がなきにしもあらず、心ここにあらずんば虎児を得ず。そもそも虎児なんて得たところでなんに使うんでしょうか。飼うのか?

 また曼荼羅に代表される神仏の世界は二次元的に把握される世界観である、といったような言明も見受けられるのですが、曼荼羅が二次元的に把握される世界観というのは、数式は全て奥行のないテキストでシーケンシャルに記述されているのだから二次元的に把握される世界観だと言っているようなものではないかという気がするのです。曼荼羅を定義するのは、複数の要素がある法則に依って配置されている、という部分なので、ただ画面を画面として視覚的に捉えるものではなく、数式のように脳内でレンダリングされることを前提とした記述ですし、レンダリングされたそれは大抵は三次元以上の構成になっています。法曼荼羅などはその側面をさらに先鋭化させたもので、これはもはや絵画というよりは魔方陣のように、ある種の式として読み解く前提のものと言ってしまって構わないでしょう。

 

 以上のような言説を踏まえると、僕は曼荼羅の専門家ではないから適当なことをフカしておいていやそれは違うみたいなことを誰かに突っ込まれてもむろんリプライ&ブロックアウェイする所存ではありますが、とはいえ、前面性、あるいは黒瀬陽平の中では自明の前提としてそれとイコールで結ばれる平面性や二次元性を論じるにあたって、よりにもよって曼荼羅をその代表格として引いてくるのは隙が多いのではないか、ということは言えるのではないでしょうか。

 

 さて、ここまでずっと黒瀬陽平のエントリーを受けてなんとなく思いついたことを適当に書き連ねることで字数を稼ぐという手法を実践してきてみていたのですが、こんなしょうもないクソエントリーを頑張ってここまで読んでくれた酔狂な読者の方でも、もういい加減に最初がそもそもが何の話であったのかお忘れのことかと思います。つまりはこれこそが黒瀬陽平の手口であって、そもそも何の話なのかよく分からないのだから批判しようにも批判のしようがないという、弱肉強食のゲンロン界で生き抜くために、強者に取って喰われることがないよう牙を研ぎ強くなるという指向性ではなく、肉がマズければ喰われないといった方向性での生存戦略なのではないかと推測します。しかしながら、話がつぎつぎと逸れていき、的外れなところで興奮し、自身の認識内で並列すると無根拠にイコールで結ばれ、勘違いを前提に話を進め、そもそもの本題がなんであったのかを忘れてしまう、というか本題なんか最初からない、ただ連想を積み重ねているだけ、という生成りの人間の思考回路の様態をテキストという汎用性の高いメディアで観測することが可能である、という点においては学術的価値も認められる可能性がなにげにあったりなかったりするかもしれません。どっとはらい