虚無虚無反復横跳びをする全裸巨乳青識亜論に毎朝欠かさずつける利息の取り立てと天上不知唯我独損
痛祈~!
毎朝、青識亜論に利息をつける人としての知名度が作家としてとかVtuberとしての知名度を上回っている気がしないでもない今日このごろ。みなさん、痛切に祈ってますか?
なんとなく「なにこの人、毎朝利息つけてんだけどこわくない?」くらいに思われてそうだから、わたしはなにを毎日利息つけてるのかっていうのをある程度まとまったエントリーにして残しておいたほうがいい気がして今これを書いているんだけど、こんなアホらしいことにリソースを投入することじたいが大変にアホらしいので、思いついた順にババ~ッ! と書いて出しちゃうから、とっ散らかってるかもしれないけど頑張って読んで。
まずは論理的とはどういうことかという話からはじめるんだけど、所詮はただのはてなブログだからめちゃくちゃ雑で適当な説明をザッとするから真剣に聞いてね。
A=B、B=C、ゆえに、A=Cである。
こういうの、なんとなく論理だなって思うじゃん?
でもA=Bってなんなん? って思わない? これはAとBは同じであるって意味なんだけど、でも同じならAとBって別々の記号で指示する必要はないよね。A=Aでいいじゃん。同様に、B=Cも同じものなら、結局はA=A、A=A、ゆえに、A=Aってことになっちゃうじゃん。でも、これはなんか、意味のない記号の羅列だなって感じだよね。
AはAであってBはBなんだから、そこには必ずなにかの違いが存在しているんだよね。絶対に、まったくの同一ではない。まったくの同一なら、そもそも論理が入り込む余地というのはない。
わたしたちがまずAとBが同じである、と言うとき、それはAとBは絶対的には違うものだという前提に立って、でも、ある側面では同じだと見做すこともできるから、ここでは限定的に同じものとして扱うよ、という意味で言っているわけ。
たとえば、角度や座標は違うけれども長さは同じだとか、形状は違うけれども体積は同じだとか、そういう意味ね。あるものの総体の中から共通する一部分だけを取り出して「この部分では同一と見做すことができるから、そこだけを取り出して限定的に同一として扱うよ」っていうことを言っているわけ。
だからA=Bっていう言明は常に、同時にA≠Bっていう意味も含まれているわけ。これは矛盾でもなんでもなくて、論理というものが持つ原理的な必然なのね。AはBと同じですよ~と言いつつも、いやAはBとは違いますよ~でもあるの。これは常にそうなの。恒真なの。
だから、A=Bと言うときに一番重要なのは「総体のどの部分を取り出して同一と見做しているのか」というところで、まずはここに大きな労力を割く必要があるのね。逆に、ここさえきっちりやってしまえば、あとの論理操作というのはほとんどがただの作業なので、大したことはないわけ。なににおいても、まずはフレームを決定するっていうのが、一番クリエイティブで難しくてダイナミックでドラマチックな作業なの。
で、これがなんの話だったかというと青識亜論さんの悪口なんですけど、あの人の場合はこの「こういう根拠があって、これとこれはこの側面においては同一と見做すことができるよね」という論証をすっ飛ばして「これは同じです」と、宣言しちゃうわけ。
いや、宣言しても同じにはならないんですけどね。本来、違うものなので。強い言葉で「同じであれ!」宣言するとそのようになる、みたいな魔術的な世界観じゃないんですよ、わたしたちが生きているこの現実世界というのは。
なので「いや、そこは違うものなんじゃないですか?」という質問は当然くるよね。ここで問われた論者がするべき応答は、もちろん「うん、まあ違うものなんだけど、これこれこういう根拠で、この側面においては同一と見做すこともできるから、この場においては限定的に同一と扱うことは妥当じゃないですか?」みたいに、同一と扱うことの妥当性を挙証することなんだけど、あの人は「どう違うのですか?」と、質問で返すんですよ。質問を質問で返すとゼロ点だって学校で習わなかったんですかね?
これは挙証責任の転嫁という、典型的な「議論に負けないための2ちゃんねるテクニック」です。なにがどう違うのか、どの側面においては同じと言えるのか、その根拠はなにか、といった、論理のもっともエッセンシャルな部分を整えるのは、もちろん、言い出したほうがやるべきことです。
逆のパターンもあります。
「それって同じじゃないんですか?」と質問がくると「違います」と宣言するわけです。「かくあれかし!」と、力強い言葉を唱える。うん、まあ全ては別の事象であり事物なので「違う」ということは恒真なんですけどね。A=Bは、つねに、A≠Bを含んでいるからね。
大事なのは、どう違い、どういう側面においては、どういう理由から同一と扱っても妥当と言えるのか、というところを丁寧に挙証するということです。挙証もなしに「同じである!」とか「違うものである!」とか言ってても、A=Bとは、つねに、AはBと同じであり、かつ、AはBと違うものであるのだから、うんうん、それはどちらも真理だね。みんな違って、みんないい。人間だもの。みたいな結論にしかなりません。
青識亜論は基本的に、この「同じ」と「違う」の挙証をすっ飛ばしているので、いつでもどこでも「同じ」と「違う」を自由に反復横跳びできるわけです。時と場合に依って、A=Bも、A≠Bも、自由に取り出せるのですから、前提を自由に設定すれば、妥当な論理操作によって望む結論を自由に導出するのが容易いのは当然のことです。
この「妥当な論理操作」という部分だけを見て「論理的だ!」と喝采してしまう頭の緩いかたが一定数いらっしゃるようで、そういった方々が騙されてしまうんでしょうかね? 先ほども言ったように、前提が揃っているのであれば、そこになんらかの妥当な論理操作を加えて結論を導出するなんていうのは、ただの決まりきった作業でしかありませんから、ちょっと訓練を積めば誰にだってできます。
この虚無の論理の合間合間に、パッと見かっこいいっぽいけれど、何も現実的なものには結びつかない力強い語による自己陶酔が入るのが青識亜論の基本的な行動パターンです。ルンバのように基本に忠実です。
詐欺師というのは力強い言葉を好みますので、話を聞くほうも、なにか力強い言葉が出てきたら、いったん立ち止まって「本当にそうだろうか?」と、よく読んでみたほうがいいです。表層的な力強い言葉に惑わされずに、装飾はぜんぶ剥したうえで、根拠は妥当だろうか、同じと違うを恣意的に使い分けていないだろうか、論理操作は妥当だろうか、という部分を見るようにしましょう。
わたしはもうなにを言ってもシカトされるみたいなので、気になった人は青識亜論の「同じ」とか「違う」にちゃんと妥当な根拠が示されているかに注目して質問してみると良いでしょう(たぶん「なにが違うのですか?」「どう同じなのですか?」と質問で返されるとは思いますが)
はい。このへんまでは、飽くまで論客としての青識亜論さんの悪口ですね。以降はただのわたし個人の喧嘩です。
わたしは以前からこういった類の青識亜論さんへの批判的なエントリーを書いていますし↓
ツイでもたびたび、批判的な態度で言及してますから、まあ青識亜論さんに嫌われるのは仕方がないと思うんですけど。
あ、そういえば言うのを忘れていました。大澤めぐみ先生、7月11日に光文社から新刊発売だそうですね。おめでとうございます。今度はうまくいくといいですね。
— 青識亜論(私が"表現の不自由展"だ) (@dokuninjin_blue) June 22, 2019
おう、なんだテメェ。
上記のエントリーや、わたしが青識亜論について批判的に言及しているツイに対して、青識亜論の側からなんらかの反論なり応答なりを受けたことは一度もなくガン無視だったのですが、反応したと思ったらこれですよ。
自然言語解釈てきに「今度はうまくいくといいですね」という言明には「これまでは失敗だった」という含意が発生してしまうことを、いちいち説明して差し上げないといけないくらいに頭が緩いのでしょうか? まあ、分かっててやってるんでしょうけど。
自身の論客としての不誠実な態度に批判的な作家に対して、反論するんじゃなくて作品をdisってくるってお前どういう了見だ。そんなもん、こっから先はもう完全にシャバダバよ。
青識亜論は自身に批判的な作家に対して、その批判に反論するのではなく無関係な作品をdisることで溜飲を下げるは、観測された事実です。論客としては甚だ不適と言えるでしょう。
— 大澤めぐみ🌀 (@ohswmgm) June 23, 2019
で、取引ってなんだったんでしょうか?
わたしはたんに論客としての青識亜論にたいして批判的なだけなので、言われたことが気に入らないなら自分で反論して自身の正当性なり妥当性なりを主張すればいいだけのことです。それが青識亜論が普段から声高に主張している「思想の自由市場」ってやつでしょう?
わたしは「なにがあったか」(←なに?)がなんなのかも知りませんし興味もありませんし、青識さんから聞ける価値ある秘密のお徳情報なんてひとつも想定できませんし、同様に、わたしの側から青識さんに提供できる価値もなにひとつ持ち合わせてはいませんから、最初から取引なんて成立しえないと思うし、どういう取引をしようとしてたのかはまったく謎なのですけれど、青識亜論が自身に対して批判的な人物に水面下でなんらかの取引を持ち掛けたは、すでに観測された事実です。この時点でも十分に、青識亜論が論客として甚だ不適な人物だと判断する根拠としては充分でしょう。
で、ここまできても、相変わらずわたしの批判に対する応答はないままで、つぎはこれですよ。
JKに金品を渡してというのは普通に犯罪なので、そのような虚言の流布は通常、名誉毀損性があります。出版というのは属人的な評判もかかわってきますし、光文社さんのブランドイメージにも関わってきますので、何らかの対応が必要なのではないかなと私も思いました。
— 青識亜論(私が"表現の不自由展"だ) (@dokuninjin_blue) June 22, 2019
これについては話が長くなるんですけど、ザッと説明すると、そのむかし春原というものすごい虚言癖がいて、その虚言癖の虚言を元にして作られた、わたしの悪口が書いてある嘘八百のブログがあって、悪口の内容というのはわたしが女子高生に金品を渡して援助交際してる! とかで笑っちゃうんですけど、で、それじたいはもう何年も前の話なんですけど、なんか青識亜論は急にそれを引っ張り出してきて、虚言の再放送をはじめたわけですね。わたしの批判への反論はなにもないままで。
ここではブログの真偽は(わたし自身はもちろんわたし自身のことなのでそれが偽であることは知っていますが客観的に証明せよと言われると原理的に難しいので)脇に置きますが、この時点でも、青識亜論は反論に窮すると現在のトピックとはまったく無関係の真偽不明のスキャンダルを持ち出してでも論敵を貶めようとするは、すでに観測された事実です。この事実からストレートに、論理操作を挟むまでもなく、だから、青識亜論は論客としては甚だ不適格です。
机上の論理から導出された推定などより、観測された事実は圧倒的に強力です。
あと、満を持して嘘ブログを振り上げて襲い掛かってきたのに、当の嘘ブログのほうはもう消えてしまっているので、梯子を外された青識亜論がひとりで後始末をつける羽目に陥っているのはちょっと笑います。今もまだその嘘を送信状態で置いているのは青識亜論だけなんですが、大丈夫でしょうか? なんでそういうことを考えなしに本垢でやっちゃうんでしょうね。2ちゃんねるとかでやりなさい。
以上の観測された事実から、青識亜論は論客としては甚だ不適であるを導出して、今回のエントリーは終了です。
また、青識亜論にはわたしから
・今度はうまくいくといいですねってなんだテメェこら。
・で結局、取引ってなんだったのよ。
の二点を引き続き質問とさせていただきますので、お返事お待ちしております。
死を忘れるな。