ゼロアカ流無敵インターネットバリトゥーダーと概念的ギリ10万歳のツイッター時間からの乖離。あるいはエンドレスブロック崩し

 

 

 もとはと言えばこのちょっと間合いを間違えましたねすいませんでしたで済むような軽い失言から始まったゼロアカ流無敵インターネットバリトゥードおじさんの俺TUEEE節に愛想よくお付き合いをしておりましたら最終的に何故だか僕が「社会批評には根拠と客観性と論理的整合性が求められる」を論証するという流れになりました。詳しい経緯を知りたいという奇矯なかたはこちらのツゲッターをご確認下さい。無敵おじさんが駄々を捏ねているだけなので特に面白くはないです。

 

 

 

 

 はい、大人げないですね。

 僕の「批評家であるならば主観や自身の感性のみに依拠した言明ではなく客観的で根拠のある論理的な言明を心がけては(大意)」というような要請に対する応答ですが、それに対して「馬鹿って言うほうが馬鹿なんです~~」レベルの表層的な脊髄反射で「じゃあその根拠は????」ってやってる感がアリアリですごい馬鹿っぽいです。全ての論理はその根拠は?その根拠は?と問いを掘り下げていくと無限後退か無根拠のドグマか循環定義に陥るように原理的になっています。これをナントカのトリレンマとか言います。「じゃあその根拠は????」って馬鹿みたいに繰り返して最終的にたどり着いた地点で「はい根拠なし!根拠ないですよソレ!根拠のないことを言わないで下さい~~~~!!!!」って言って勝利宣言するのは原理的にどんなクソバカにでも脊髄反射だけで必ず達成できる無敵バリトゥード術なんですね。脊髄反射クソバカの称号と引き換えに手にできるヘンテコなHNの概念アカウントとの論争における勝利になんの意味があるのかはさっぱり分かりませんがきっと馬鹿には馬鹿なりの価値観があるのでしょう。

 実際のところ僕が要請する「知の営みに参画するものであるならば、客観的で根拠のある論理的な言明を心がけるべきである」というのは「知の営みに参画するもの」が共通して了解しているだけのドグマに過ぎないので根拠を求めることはできません。であるからこそ「知の営みに参画するものであるならば」という前提条件が付帯するわけです。サッカーをやりたいならサッカーのルールに従うべきだというだけの話で別にラグビーをやるなという話ではありません。しかし、サッカーのプレイ中に突然ボールを抱えて走り出したらまあだいたいは反則を取られるでしょう。プレイする前に「俺はボールを抱えて走り出しても良いというルールでサッカーをしたい」という要請をしてみるのはアリと言えばアリかもしれません。それをサッカーと呼ぶかは別として。

 

 If you tried to doubt everything you would not get as far as doubting anything. The game of doubting itself presupposes certainty. Ludwig Wittgenstein / On Certainty #115.

  

 全てを疑おうとするものは疑うところまで行き着くこともできない。疑いのゲームはそれ自身が確実性を前提としている。

 

 「なぜ知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならないのか」これは疑いであり探究です。それも「知的営みに参画するもの」が無根拠に乗っかっている足場に対する疑義なわけです。しかし、疑うというのはただただ「なぜ?」「なぜ?」と疑問符をつければそれで済むというものではありません。やみくもにハンマーを振り回して壁と言わず床と言わず全てを破壊し尽してしまえば足場を失った自分自身は自由落下していくだけです。通常、一部の尊師を除いて人間は空中浮遊できません。じゃあどこかの誰かが勝手に決めた無根拠の足場に無抵抗に乗っかるしかないのかというと別にそんなことは全然なくてひょいと隣の足場に自分が移動すれば元居た足場を壊すことも普通にできます。

 

That is to say, the questions that we raise and our doubts depend on the fact that some propositions are exempt from doubt, are as it were like hinges on which those turn.

That is to say, it belongs to the logic of our scientific investigations that certain things are in deed not doubted.

But it isn't that the situation is like this: We just can't investigate everything, and for that reason we are forced to rest content with assumption. If I want the door to turn, the hinges must stay put.  Ludwig Wittgenstein / On Certainty #341 #342 #343 

 

 わたしたちが問い、疑うには、ある命題が疑いを免れ、問いや疑いを動かす蝶番の役割をしていなければならない。

 つまり、確実なものとは科学的探究の論理において事実上疑われないもののことである。

 しかしそれは、私たちは全てを探究することができないのでたんに仮定するだけで満足すべきだ、ということではない。扉を開けたければ蝶番は固定されていなければならない。

 

 ウィトゲンシュタインは蝶番という比喩を用いていますが、僕個人としてはこれを畳返しと理解するのをオススメしています。ビッチリ畳の敷き詰められた8畳間。自分が乗っている畳はなにしろ自分が乗っているのでひっくり返すことが出来ません。これで「うわーこんなん畳全部返せなんて無理やわー無理ゲーやわーだって自分の乗ってる畳はひっくり返されへんもん~~」ってギブアップしちゃう人は有体に言ってちょっと馬鹿でしょう。普通にまず自分の乗っていない畳を返して、それからそっちの畳に移動して今まで乗っていた畳をひっくり返せばいいだけです。「すべてを同時に疑うことはできないが、すべてのもののうち任意のものはなんでも疑うことができる」ということです。畳に寝転がったまま「なんで?なんで?」ってブーたれてないでまずは起き上がって自分の身体を動かして自分で畳をひっくり返すべきでしょう。要するに疑うなと言っているのではなく疑いたいならズボラをせずに自分で疑えと言いたいだけだと言いたい。疑うというのは、疑うという論理的行為、疑うという実践であって……そう、ちょっと笑っちゃうけど、論理とは何かと疑うという論理的行為というのもあるんですよ。なんでだろうね~~って言いながら畳の上でゴロゴロしているだけならそれは疑いという名のただの自堕落です。いいから働きなさい精神的クソニート。

 

 We are quite sure of it' does not mean just that every single person is certain of it, but that we belong to a community which is bound together by science and education. Ludwig Wittgenstein / On Certainty #298

 

 わたしたちにとって絶対に確かであるとは、ひとりひとりがそれを確信するということだけでなく、科学と教育によって結ばれたひとつの共同体にわたしたちが属しているということだ。

 

 先述の通り「知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの「知的営みに参画するもの」の共同体において了解されている暗黙のルールに過ぎず、そこに根拠を求めることはできません。「客観的で根拠のある論理的な言明をする人」が一般に知的であると了承されているというだけのことです。なので「俺は客観的で根拠のある論理的な言明などしない!」も別にそれはそれで勝手にしてくれればいいのですが、たぶん知的な人であるとは思ってもらえないのではないかと推測します。もちろん、他人から知的であると思ってもらえなくても知的コミュニティからパージされてもそれですぐに死ぬなんてことはありませんしなんぞかんぞお金を稼ぐ手段というのもありますし悪そうなヤツはだいたい友達で大親友の彼女のツレのパスタがうまくて握りしめたこの絆がロックプライドてきライジングサンなサムシングで仲間たち親たちファンたちに感謝しながら進むこの荒れたオフロードをタフに生き抜いていくのもなかなか悪くはないとは思います。各自気持ちでやっていきましょう。

 

ここまでの要旨

知的言明には根拠と客観性と論理性が求められるということを「絶対的に」「普遍的に」真であると論証することは原理的にできない。

根拠と客観性と論理性のある言明のことを知的と呼ぶのであって循環定義になる。

故に言明に「根拠と客観性と論理性」を求めるには「知的営みに参画するものであるならば」という付帯条件がつく。

知のルールという枠組みの内部に居る限りは「それがルールだから」としか言いようがないけれど、知のルールという枠組みの外からなら「根拠と客観性と論理性が求められるかどうか」を検証することはできる。

 

なので次に知のルールとは別の枠組みで「根拠と客観性と論理性が求められる」の妥当性を検証していきます。

 

 

 

 はいはい、少し話が変わりましたね。繰り返しますが「知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの知のコミュニティの暗黙の了解であってそこに根拠はありません。そして、知のコミュニティという枠組みに乗りながらその蝶番を疑うことはできませんが、別の枠組みに移動すれば蝶番を破壊することもできます。つまり、このケースでは知という枠組みから政治力という枠組みに移動することで知の基本ルールに疑問を投げかけようというわけですね。めっちゃひらたくに言いかえますと「世の中理屈じゃねぇんだよオォン!?!?」ということで、はい非常にありきたりなライジングサンなエグザイル節でなかなか気持ちが出ています。例えば僕のような世間知らずの論理馬鹿タイプなどは社会に出てソッコーでまず一度はこの手の壁に頭を打ち付ける羽目になるものなので、藤田さんもきっとなにかその種の嫌なことがあったのでしょう。

 つまり、正しいことを正しいと論理立てて主張するだけで他人を動かせると思っている、という類の勘違いです。ましてや「世の中を正しくしていこう」という欲望のために行動しようとするならば、前提は当然「現状の世の中は正しくない」状態なわけで、正しくない世の中で正しいことを正しいと言い張るだけでは如何ともしがたいのは当然のことなわけで、つまりそこで政治ゲームや権力闘争という知や論理とはまた別の所作、スキルが要求されてくることになるわけですがちょっと待って。別にそれらは背反するスキルではなく普通に干渉することなく追加可能なスキルなのでただ単に普通に既にある「客観的で根拠のある論理的な言明」という知のスキルにさらに政治ゲームのスキルを追加すればいいだけです。影響力さえあれば全てが許される!!!!ってどうしてお前はそう極端なんだ。

 僕たちが生きているのは確かに厳かな知のルールが支配する正確で厳密な正しい世界ではないけれども、しかしそれでも飽くまで知のルールに軸足を置き理想を持ちながら眼前の問題には各自現場で対応していく、というのが知に求められるモラルではないでしょうか。

 

 ともあれここで枠組みは知のルールから権力闘争、利害闘争、政治ゲーム、あるいは藤田さんが繰り返しエクスキューズしておられるツィイタァーバリトゥードルールに移行したわけで、ではこの藤田さんの「影響力さえあれば論↑理↓なんか必要ねぇんだよォン!!!!」を知のルールという枠組みではなくツイタッターバリトゥード的に評価していくとどうなるのか検証してみることにしましょう。

 ツイターバリトゥードというのは要するに自分のブランドを構築するゲーム、固定IDにより継続的に同一性が確認できる自分のアカウントのブランド力を高めていくことで周囲の人間に自分の発言をより尊重させ、耳を傾けさせるように仕向けるというゲームです。つまり、このアカウントのブランド力をツイットーにおける影響力と言い換えることができます。ツイッツーという公開の場での議論において知的フェアネスを貫くというのはとりもなおさず「自分は知的フェアネスを持ち合わせたアカウントなのだ」ということを発信し自身のツイブランド力(影響力)を高めていく行為でもあるわけです。もちろんそれだけが唯一絶対の道筋というわけではなく、例えば実名であることとか博士号を持っていることだとか単著を出していることなどでもオプションてきなブランド力を付加することなどもできますが、一般に一番ローコストで地道で手堅い手法は長期的な収支で考えると馬鹿にできない期待値があるものです。

 さて、こういった枠組みで今回の件を捉えなおしますと「実名、博士、単著、職業批評家」という追加オプションコインを貯め込んだアカウントが「どうして客観的で論理的じゃないといけないんですか~~~???根拠は~~~~~????」と小学生の終わりの会並みのアホ丸出し感で「匿名、変なHN、付加価値一切ナシ」のアカウントに絡んで来てくれるというまさにタレに浸かった全身脱毛済みのカモがネギと鍋とコンロ持参で襲い掛かってきたみたいな状況でもうまじスーパー鴨鍋うまいうまいタイムです。実際うまい。ただそこにいて知的フェアネスに専念するだけでじゃかじゃかコインが移動してくるわけでボーナスゲーム過ぎてこれはもう完全に作業ゲーです。ぶっちゃけ飽きます。

 「影響力さえあれば論理的に破綻している主観てきなポエムでも世界に働きかけることができる」は真でしょうが、その影響力というのは固定のステータス値ではなく使えば消耗するMPみたいなものです。あるいはある程度のラインを超えて高まった影響力は消耗しにくくなる、といったことはありえますし、つまりそれが権威とか呼ばれたりもするわけですが、それですら無限であるわけでもなく、気安く俺TUEEEを乱発していればあっという間に消尽して権威も地に落ちることになるでしょう。ましてや藤田さん程度のささやかな影響力など消尽まであっという間です。君、ついこの間まで全くのゼロだったじゃん?権威ぶって気が大きくなるのなんぼなんでも早すぎるんじゃないでしょうかね?

 

 

 はい、根拠や客観性や論理的整合性、正義や倫理は「あったほうがいい」という点では合意しているので、僕と藤田さんの間ではその重要性をどの程度と評価するのかという価値判断、あるいはリスク評価という点で判断が分かれているわけです。「世間は、どうかな。」というのは要するに「(俺は頭がいいからそれがそれなりに重要だと分かっているけれども世間の普通の人たちはだいたい馬鹿だから)どうかな。」という意味であって、つまり世間の人間は馬鹿ばっかりだから大丈夫って思っている頭いいいつもりの馬鹿なのでしょう。それ(知的フェアネス)だけが判断基準であるなんてことはもちろんありませんが、しかし現実の社会や世間というのは君が思う以上に頭の良い人というのが無限のように存在しているし、当たり前の話ですがツイッターは世界に対して開かれているのでその中で自分自身が最高の知性であり続けることはまず不可能です。世間はどうかなもなにも、たったフォロワー数千人という到達範囲ですらポコポコポコポコ気軽に頭叩かれているのにその程度の論理強度でいざ世間に出たらもっと気安くしかも理不尽にポコポコポコポコ頭を叩かれるに決まっているじゃありませんか。これってただ世の中をナメ腐っているだけのことなんじゃないですかね?確かに世界は厳かな知のルールが支配する正確で厳密な正しい世界ではないけれども君が期待するほど君にとって都合のいい馬鹿ばっかりでもないよ。

 世間はどうかなもなにも現にいまツィッターのタイムラインという世間に自分の主張を投げかけてそこで「根拠は?」「主観じゃね?」「論理的整合性なくね?」とポコポコポコポコ気安く叩かれているのにどこの優しい世間でなら叩かれないで受け入れてもらえると思っているんでしょうか?ツイッターのことを世間だとは思ってないんですかね?アカウントの向う側にはさまざまな種類の一般人がそれぞれに入っているということが信じられない?「影響力があれば全ては許される!!!!!」なんて言われても現に君、影響力なんかないんだからそんなのただのないものねだりだしゴネたってしょうがないんで真面目に下から一段ずつ地道に登っていくしかないでしょう。

 そもそものもともとが「世間の多くの人が黙祷とかやってるのがムカつく」という話だったのに、より多くの世間の人を動かしたほうが正しいみたいな結論になってるの致命的じゃないでしょうか。現に多くの人が黙祷とかやってるんだから黙祷とかやってるのが正しいってことになっちゃってその筋だと一生価値転倒なんか達成できるわけがないですよね?それともとりあえず予約だけしておいて誰かが首尾よく価値転倒してくれた時に、あるいは時代の必然として自然な成り行きで黙祷がマイナな習慣になった時に「ホラ俺が言った通りだった」とかやる作戦なんでしょうか。期待値はあまり高くないように思いますけれど。

 世界は政治ゲームだ!は別にいいんですけれどもそれならそれでまずはちゃんと政治ゲームのスキルを磨いて自分の手腕でサバイブして下さい。マジでゴロゴロぐだぐだしてないでいい加減自分の足で歩きなさい精神的クソニート。

 

 結論:世界が政治ゲーム的であることは知的フェアネスの有効性を棄却しない。知的フェアネスを貫くことは政治ゲームの世界でもかなりの程度有効な手段。特に現状持たざる者である人にとっては自身のブランド力(影響力)を高めるためのほとんど唯一の手段と言っても良い。

 

  

  なんだその歴史観!?(驚愕)

 こんなもん→処女の純潔を論ず(富山洞伏姫の一例の観察) / 北村透谷 が現代のオタクの価値観に影響を与えているわけないでしょう。相関関係と因果関係がごっちゃになってます。北村透谷処女厨だったので処女サイコー!ウヒョー!みたいな文章を書いたんですけど彼はたまたま文学史に名前が残ってしまったのでその処女サイコー!ウヒョー!も文学史に残ってしまったわけでなんとも可哀想な話ではあります。各自黒歴史は適宜焼却処分していけ。まぁ明治大正期の文学者には処女厨が多いのでその当時においても彼が特に特殊な性癖を持った先進的な変態だったというわけではなくむしろ当時の価値観においては平凡なことを書いただけなわけで、んーこれはひょっとしてどっちに転んでも不名誉なんじゃないでしょうか。罪深い。安らかに眠れ。

 明治時代には処女厨の文学者が居た。一方現代の平成の世にも処女厨のオタクが居た。世に処女厨の種は尽きまじ。

 

 

 ああ、うん、そうだね。明治と今を比べてもしょうがないよね。←結論

 

 文字数も8000字を超えてだいぶ雑になってきましたがもうちょっと頑張ってみましょう。お気に入りの画像を貼るんやなw

 

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デジタル画像 フランス百科全書 図版集 <諸科学:人体(解剖)>動脈系(ドレークによる)

 

 どうでしょう、なかなか愛嬌があって単純に図画としてとても素敵だと僕個人としては思うのですが、ところがこれ一応は18世紀当時の最先端の医学的知見に基づいた学術的な資料なんですね。こういった「過ぎ去った過去の知の最高峰」に対して現代の知見、知識を持った僕たちの立場から一方的に生ぬるい視線を投げかけ昔の人は馬鹿ばっかりだったんだねと優越感に浸ることはあまりフェアな態度とは言えませんが、だからといって21世紀のこのご時世において、この図に基づいて医療行為をされてしまっても困ります。なにしろ直接的に命がかかっていますので。はい、なにを申し上げたいかと言いますと「その時代において、その時代に生きる人間として現実的に受ける諸々の制限の中で、その時代における最先端の仕事だったものは現代においてもその当時の最先端の学問として評価を受け歴史に残る」ということと「その手法が現代でも通用する」かどうかは全く別の話だということです。

 現代的な知見と感性を持った僕たちがこの図に感じる独特の奇妙さは、例えば当時の道具の未熟さとか観察機器の欠如などのみに還元できるものではありません。それは細部が描かれていないことではなく、むしろありもしないものまでが過剰に描かれていることに由来します。しかしながら、これは絵画作品ではなく自然科学的資料として描かれたものですから、当時の筆者は自らの知覚に忠実に、見えているものそのものを正しく描き記そうとと試みたはずのものなので、別に筆者自身が特段に科学的知見を持たない詩的で非論理的でイマジネーション豊かでロマンチックな人物だったというわけではきっとないのです。おそらく彼は、当時の彼が属する知のルールにしっかりと軸足を置き、知のモラルに従ってこれを描き記したに違いないでしょう。それを現在の時間軸から「詩的でロマンチックだ」と評することはいささか不誠実ではないかと思います。ましてや「現代的な価値観で見れば詩的でロマンチックなものが古典として認知されているのだから現代に生きる俺も詩的でロマンチックでも構わないはずだ」というのは、まあ別に構いはしないんですけれども、それで将来古典の仲間入りできるとはちょっと思えないですね。なんでだか知りませんけれど藤田さんは未来が自分に味方してくれると確信しているっぽくて、まあたぶん躁なんでしょう。躁なんだと思います。なんかいいことあったんですかね?

 

ある文化のある時点においては、つねにただひとつの《エピステーメー》があるにすぎず、それがあらゆる知の成立条件を規定する。 ミシェル・フーコー 言葉と物

 

 フーコーてきな用法でのエピステーメーというのは、人の思考はその人が生きる時代が持つ思考体系、メタ知識構造に否応なく従ってしまうという不可避の「知の枠組み」のことです。人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたわけですが、しかしそれらはいずれもその時代の知の枠組みの内側にまるごとすっぽり収まってしまう。時代のエピステーメーに規定されているというわけです。もちろんフーコーは「だから神ならぬ人は時代のエピステーメーからは決して逃れられないのだ!」とかそういうことを言いたかったのではなく、それを前提にしてなお希望を語ろうとしていたようですが、藤田さんに関しては不可避の時代エピステーメーを突破することではなく単に逃避することを指向しているだけのようですので今回はあまり関係がないでしょう。肝要なのは「人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたがそれらは時代のエピステーメーに規定されていた」のうち「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきた」のほうであって、それこそが時代のエピステーメーを超えて過去から現在にまで通底する知のモラルであるわけです。現代においては真理の真理性というのは根拠と客観と論理的整合性によって支持されます。

 

 

 

 いやもうマジでそうかなに言ってんだお前?って感じなんですが。主張を単純化しないというのも技のひとつって、それなんのための技でしょうね?主張をしなければ反論されないって言っているのと同じことで、負けないための技でしかないでしょう。なに威勢よく方々に喧嘩売って歩いてるくせに根本的なところがおよび腰なんですか。主張というのは理解されてこそ社会に働きかける意味を持ち得るわけで、理解されないように主張を曖昧にしておくなんていうのは自分から社会に働きかけることを諦めているとしか思えません。せいぜいが世間に理解されない躁ぎみの孤高の批評家を気取るくらいのことしかできないでしょう。それが真理だとは自分でも思っていない、分かりやすく確定してしまえばたちどころに蹴り飛ばされてしまうような主張を理解し難いように批評的な思想的な修辞で粉飾してなんとなくそれっぽく演出し、あとは政治力と影響力(現状ないのでどう調達するのかは謎ですが)でゴリ押して社会に働きかけよう、などというのは大変に「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張する」という根本的な知のモラルに欠けた姿勢だと思います。

 

 

そこで我々が早速お目にかかるのは、哲学史は即ち時間の中で出現し、時間の中で提示された、たくさんの哲学的意見を枚挙すべきだという、哲学史についての極めて通俗的な見解である。控え目に言うときは、こういうものは意見と呼ばれる。しかし、これにもう一つ突っこんだ判断を下しうると考える人々は、哲学の歴史を阿呆の画廊とさえも呼ぶ。 ヘーゲル / 哲学史序論

 

 ヘーゲルはこの阿保の画廊てき哲学史観に対して否定的な態度で阿保の画廊という言葉に言及しているわけですが、それでも時系列に沿ってその時々の思想哲学を雑多に陳列してくだけでは(つまり通常の歴史編纂の手法による哲学史では)歴代の浮世離れした哲学馬鹿たちが犯した数々の誤謬を陳列するだけの阿保の画廊にしかならないという部分には同意しています(であるからこそ哲学は多様性の中でただひとつの真理に向けて前進しているのだ、という独創的な哲学史観で哲学史の再編纂を試みたわけです)。批評史だってまぁ似たようなものでしょう。どれだけ歴代のビッグネームを挙げてところで、どれだけ彼ら彼女らが当時影響力を持っていたか、またそれらがどれだけ今日にまで影響し続けているのかを語ってみたところで、雑多に並べるだけならそれは阿保の画廊です。それが阿保の画廊と知りてなお、失敗作だと分かっていてなおその手法を「影響力が持てるかもしれないから」と正当化するのであれば、歴史から学ぶという根本的な知的姿勢に欠けるものと判断するしかありません。失敗を繰り返さないためではなく失敗を繰り返すために繰り返させるために歴史を参照するのですか?というか、読者の立場からしてみれば失敗作に影響を受けてしまったことこそが繰り返すべきでない失敗なわけですし人は失敗を繰り返さないために歴史を参照するものなのですよ?自分は頭がいいからそれらが失敗作だと知っているけれどもそのことを世間の人は馬鹿だから知らないはずなのでもう一度同じ失敗をしてくれるはずだしその中で頭のいい自分だけは勝ち抜けておいしい目をみれるはずだとでも思ってるんですか?全能感ですか?躁なんですか?

 

 結論:過去の偉人が、その著作が現代の視点から見ると明らかに失敗作であるにも関わらず、その当時においては多大な影響力をもち現在も変わらず偉人という評価を受けているということは、現在において積極的に失敗作を書いても良いのだということを意味しない。

 

 はい、とっくに1万文字を突破していますがここまでが前座です。やっと本題に入ります。

 

 

 はい、ようやく僕がやるべき仕事が少し見えてきましたね。「社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかない」故に「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするもの(批評家)は」「根拠と客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これでアガリです。「批評とは、言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて、社会を変えようとする営みである」は藤田さんのほうから提示してきた前提であるのでこれは今回無根拠に採用します。最初のほうで言いました通りあらゆる論理はなんらかの無根拠の前提を必要としますので、これは批評がそういうものであるという普遍的定義があるということではなく、これを前提する限りにおいてはさすがに藤田さんも自分で言い出したことであるのだからちゃぶ台返しはできないだろうというだけの話で「都合が悪くなると定義論に持ち込んでうやむやにして負けてないアピール」という藤田さんのツイタァーバリトゥード術を封じるための僕のツイッティーバリトゥード術です。なので残る論証までの障壁は「社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかない」だけです。

 僕のこの主張に対する藤田さんの反論は概ね「そんなことはない。影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」の一点に尽きます。これは実際のところ真でしょう。なのでこれを回避するために僕の主張に前提条件を足しましょう。

 「<現に影響力を持たない者が>言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするならば、根拠と客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これを最終的な僕の主張とします。以下「なぜ現に影響力を持たない者が社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかないのか」を説明します。

  

 藤田さんの言う「そんなことはない。影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」は実際のところそうなんですよね。世界は政治ゲーム的であるわけです。現にいま藤田さんに影響力なんかたいしてありもしないのにそれを言っているのがアホっぽいというだけで言明じたいは真です。そして、それこそが社会批評がまさに取り組むべき対象であるわけです。

 藤田さんはちょっとあまり頭がよろしくないようなので見落としていらっしゃるのかもしれませんが「影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」ということは、今まさにこの社会において「影響力があるというただそれだけの理由でふわふわポエムで社会に働きかけている」対象が存在するということです。影響力が現にある、つまり既存の権威です。「既存の権威の発するふわふわポエムには力がある」ということであり、それらはもはや根拠と客観性と論理的整合性に支持されていない過去の権威の残骸で、つまり不合理な言説です。そしてそれが不合理な制度やルールや生活様式が社会に蔓延していることの原因でもあるわけです。現に世界には権威が、強者が既に存在していて、そしてあなたは持たざるものである。その関係性において、そこに論理がなければ、持たざる者の言明は「既存の権威の意向に沿っているか否か」だけで権威によって評価されるということになってしまいます。権威の庇護下にある不合理な言説を権威の外から突き崩すには、それらがもはや根拠と客観性と論理的整合性によって支持されていない惰性に過ぎないということを、根拠と客観性と論理的整合性でもって暴くしかないのです。

 

 ツイブランド力が日々のツイの積み重ねによって高められもすれば消耗もするように、権威というのも原理的になにか過去からつながるもの、積み上げられてきたもの、伝統に関わる概念です。藤田さんの定義に乗れば「批評家言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするもの」ですから「批評家としての権威があれば言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとすることができる」というのは「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするものとしての権威があれば言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えることができる」ということになり「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするものとしての権威は言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えていくことによって得られる」というクッキーを焼くためにクッキーを焼くみたいな話になります。はい、これで合っています。クッキーを焼きましょう。

 

  社会について一般的に論じられるようなことはそう多くはありません。社会批評における問題の多くは過度の一般化に起因しています。タイムラインで話題になるような時事問題というのはそれが例外事象であるからこそ話題にのぼっているわけで、ある例外事象から一般則を導けばそれが早まった一般化になるのは当然です。一般に言えることというのは平凡で凡庸でありきたりなものと相場は決まっているのですが、社会批評というのは兎にも角にも「広く一般的に適用可能で」しかし「新奇性のある斬新なもの」を求める傾向があります。しかし、当然のように「新奇性のある斬新なもの」が「広く一般的に適用可能」となるのは一般そのものが変容するタイミング、つまり時代の節目にしか成立しません。こういった新奇的な一般則を打ち立てるタイプの社会批評というのがそもそもムリゲーなのですが、その要請をなんとか満たそうとしてことあるごとに時代の節目をねつ造しようとするわけです。ポストモダン以降、人間一般が動物化している、とか、震災以後社会全般が断絶した島宇宙化している、などなど。しかし歴史を振り返れば分かる通り、人間の感性一般が変容してしまうような時代の節目というのはそんな数年単位で何度も何度もポンポンポンポンと訪れるものではないでしょう。時代がシフトする間隔がムーアの法則てきに指数関数的に加速してきていると仮定しても、いくらなんでも乱発しすぎです。こういった大きく山をはってギャンブルしてうまくいったら儲けもの。外しちゃったら知らんぷり。言うだけならタダだからとりあえず言ってみよう、みたいな大雑把な社会批評はもうやめにするべきです。

 

 大切なのは、大雑把に社会全体に対して大鉈を振るうのではなく、ひとつひとつの個別具体的な問題点を注視し、不合理な制度、風習、言明などを個別に言語によって批判し、新しい合理的なものを言語によって提案し、それを古い制度と取り換えていくというところまでの気の遠くなるような長い行程を、根気強くひとつずつ堅実に積み重ねていくということです。そういった細やかな実践の積み重ねが後から見れば権威と呼べるような伝統を作り出していくことになるでしょう。抽象的に批評家という権威に訴えてみたところで批評家という肩書きに、とりわけ現代の日本においては、威を借りることのできるような権威が存在しているかどうかは甚だ疑問です。ないものはないのですから、ならば自分でいちから作り上げていくDASH村ルールでやっていくしかないでしょう。権威は結果として出来上がるものであって、便利使いしていい火力ではありません。

 

 【追記】藤田直哉さんからレスポンスがありました

d.hatena.ne.jp

これでもう迷わない!ポストスーパーフラット「黒瀬陽平校長ゲンロンアートスクール&こども教室合同成果展」を100倍楽しむためのステイトメントガイド

 ふわふわアート怪文書コレクターの大澤めぐみです。

 

 2014年8月30日からの三日間、東浩紀さんが経営する五反田のゲンロンカフェにおいて、黒瀬さんの提唱する新概念ポストスーパーフラットをテーマとした展示会「黒瀬陽平校長ゲンロンアートスクール&こども教室合同成果展2014」が開催されます。それに先立ち黒瀬陽平さんによる展示会のステイトメント『「ポストスーパーフラット」から「ポストフクシマ」へ』が公開されましたが、黒瀬さんの独特な言語感覚で書かれたこの文章は、彼の文章に慣れていない方には少し分かりにくいものとなっていると思われますので、これを現代アートなどに馴染みのない一般の方向けに平易に解説すると共に、今回の展示の見どころを紹介していきたいと思います。

 

 まずポストスーパーフラットと言われても、そもそものスーパーフラットがなんなのかよく分からないのではなかなか難しいでしょうから、軽くこれの解説をしましょう。とはいえ、言葉じたいはとても有名なので一般の方でも耳にしたことぐらいはあるかもしれませんね。芸術家 村上隆さんの提唱した概念で、村上さん自身の著作の中でも定義が二転三転しているため、これこそがスーパーフラットだと端的に説明するのは難しいのですが、原意としては「多重平面による奥行表現」を指す語です。シューティングゲームをやる人なら、サンダーフォースの多重スクロールによる奥行表現をイメージしてもらうと分かり易いかもしれません。平面的に描かれたレイヤーを複数重ねることで奥行を表現する技法です。村上さんはこれを導線に「故にアニメ・マンガなどの表現はART足り得る」を論証し、一般にARTとして認知されていなかったアニメ・漫画などの表現をARTの中に位置付けました。

 ものすごく雑で投げやりに説明すると「西洋の透視図法に対し、日本独自の多重平面による奥行表現が西洋のマーケットでウケた。故に浮世絵とかそういうのはART足り得た。アニメ・漫画も同様の多重平面による奥行表現という文脈を踏襲している。故にアニメ・漫画はART足り得る」という道筋です。最終的にアニメ・漫画に至る、既にARTと認知されているものによる導線を引くことで、アニメ・漫画表現にARTの中での居場所を作ったわけです。美術史という数直線上にアニメ・漫画をピン留めした、というのが一番大きな意義です。スーパーフラットという導線によって、従来ARTと見做されていなかったアニメ・漫画・ゲームといったものは美術史上のここに位置するよ、と座標が示されたわけです。

 先にも述べたようにスーパーフラットの原意は「多重平面による奥行表現」ですが、一般にスーパーフラットと言えば、最終的に「故にアニメ・漫画はART足り得るのです」に至る論証、導線そのものを指す語として運用されています。

 

 さて、そのスーパーフラット村上隆さんとカオスラウンジと言えば 、村上隆さんがカオスラウンジを拾い上げ 

 直後に村上さんの門下のMr.の作品をカオスラウンジにパクられ

  何故かカオスラウンジがヨソからパクったことの尻を拭く羽目になり

  突っ込んだら砂をかけられ血圧も上がり

 逆恨みされ 

 宣戦布告され

 かと思えばゴロニャンされたり

 その一方で村上隆さんのほうはカオスラウンジに見切りをつけて、彼らに求めていた仕事を自分で引き継いだり

 今度は謎に「君も村上隆を超えてみないか!?(他力本願)」と当て馬扱いされたり

 村上隆をも敵に回した稀代の批評家!なんて看板に使われたり

 とまぁ、僕個人としては決して村上隆さんに好感情を抱いているわけではないのですが、流石にこの扱いには「ざまぁw」を超えて普通に不憫になってしまいます。

 

 さて、ここ数か月の黒瀬さんの動向はどうやらポストスーパーフラットという概念をブチ上げることによりスーパーフラットを超克して積年の目の上のたんこぶ(逆恨み)村上隆をいよいよ超えてみせる!!と息巻いているようなのですが、肝心のそのポストスーパーフラットという概念が語感以外に一切不明という状態だったので、いまいち何をするんだかどうやるんだかピンとこないというのが実際のところでした。

 ところが今回のステイトメントにおいて、ようやく謎のベールに包まれていたポストスーパーフラットが定義されたので、その意図が見えてきた感じがあります。

 

 ポストスーパーフラットとは、スーパーフラットが依拠していた文脈を相対化する視点のことである。

 

 とは、で始まり、である、で〆られているので、この一文がポストスーパーフラットの簡潔な定義文であると解釈できます。とはいえ、独特の言語感覚を持つ黒瀬さんの文章は、ふわふわアート怪文書に耐性のない一般の方にはパッと見ではなんのことだかつかみみづらいことでしょう。しかし、如何に修飾関係が混乱した文であっても、諦めず丁寧にひとつずつ整理しながら読んで行けばちゃんと読解できるものです。中学高校の現国の長文読解の授業のつもりで丁寧にやってみましょう。

 文意がつかみづらい長文に出くわした場合は、まず概要をつかむために修飾語をすべて取り除くのがセオリーです。

 

 ポストスーパーフラットとは視点である。

 

 この時点ですこしハテナがつきますね。先述のとおり、スーパーフラットとは最終的にアニメ・漫画に至る導線のことですから、導線と視点、線と点、超えるとか超えないとかの話をするには比較のためのグレードが揃っていないように感じられます。 しかしまずは読解です。疑問はさておき読み進めていきましょう。 ポストスーパーフラットとは特定の表現技法や美術的スタイルのことではなく、視点である、というのは分かりました。ではどのような視点か。

 

 スーパーフラットが依拠していた文脈を相対化する視点のことである。

 

 スーパーフラットとは導線、つまり文脈そのものを指す語として一般に運用されていますので、「スーパーフラットが依拠していた文脈」というセンテンスはすなわち「スーパーフラット」と扱って構いません。

 

 ポストスーパーフラットとは、スーパーフラットを相対化する視点のことである。

 

 だいぶシンプルになってきました。 では次に、相対化とはどういう意味でしょうか。よく使われる語彙ではありますが、なんの為に相対化するのかというと、それは位置付けを確認するためです。航海術の交差方位法などをイメージして頂けると分かりやすいと思います。「俺の村」という語だけでは客観的にその村がどこにあるのだか一切確定しませんが、「俺の村は東京から300キロ離れている」「俺の村は大阪の北東にある」と、他の地点との関係性を吟味することで、その位置づけを把握することができ、地点を追加していくことで精度を高めることができます。「あなたは優しい」という言明は、あなたは普遍的に絶対的に優しいという意味ではなく、わたしより優しいとか、他の人に比べて優しいという意味です。位置でも属性でも評価でも、他者との相対的関係性においてしかそれを確認することはできません。自分では自分は見えないので、外部の視点が必要となるわけです。

 

 ポストスーパーフラットとはスーパーフラットの位置を確認するための外部の視点のことである。

 

 かなり文意が通りましたね。スーパーフラットは美術史の数直線上にアニメ・漫画をピン留しましたが、それをさらに他の地点からも観測することにより、三次元空間的にスーパーフラットの位置をピン留めしようとする試みだと考えられます。あれ、スーパーフラットを超克するんじゃなかったの?それじゃむしろスーパーフラット研究じゃない?というような疑問も浮かびますが、ポストスーパーフラットという語は黒瀬さんしか使っていない、黒瀬さんが定義した独自用語なので、自然言語的にポストスーパーフラットとはこういう意味だ、という議論はあまり意味がありません。別にラベルに書かれた文字がポストスーパーフラットでもスーパーフラット研究でもクロックムッシュでも、ある概念をある語と紐づけ、その場において一貫してそのように扱うのであれば支障はありません。

 以上が黒瀬さんによるポストスーパーフラットの定義文を自然言語的に解釈した場合の定義となります。

 

 次に、ではスーパーフラットを観測し、その位置を確定するために具体的に何をするのかが気になります。

 

 「悪い場所」(椹木野衣)や「スーパーフラット」(村上隆)という、既存の美術批評のパースペクティブを乗り越え、「情報社会」や「震災後」といった現在進行形の問題に取り組む、という大きな目標を掲げた。

 

 セオリー通りに修飾語を取り除きます。

 

 「情報社会」や「震災後」の問題に取り組むのが目標。

 

 つまり、今回の展示のテーマですね。情報社会や震災後というのはスーパーフラットとは関係がありません。先にも述べた通り、観測により位置を確定させるためには、複数の「外部の」地点から観測し、その相互の関係性を明らかにすることが必要なので、比較対象となる作品群のテーマがスーパーフラットと関係がないのは必然です。

 

 受講生たちは、スーパーフラットという枠組みに留まらない文化的文脈を多数持ち込んだ。

 

 というのも、同様の理由で、スーパーフラットの位置づけを確たるものにするために、スーパーフラットに関係しない外部の観測地点を増やしたということです。今回の展示では、こども絵画教室の作品展との抱き合わせとなっていることも重要な点です。スーパーフラットというのは村上隆さんが提唱したものではありますが、日本美術の根底に脈々と受け継がれている表現技法とその文脈のことなので、日本人であり、日本的感覚の中で暮らし、日本で美術を学んだ以上は、意図的に避けでもしない限りは自然とスーパーフラット的になってしまう、という類のものなので、まだ美術教育を受けていないこどもの作品というのは「スーパーフラットの外部」という視点を確保するために非常に有効に機能するであろうことが期待されます。

 

 まず、展覧会場全体は「浄土式庭園」に見立てられている(梅田裕《羊の東西》)。わたしたちは、此岸から彼岸を拝む「橋(エレベーター)」を渡って、「現代における救済の場」としての浄土庭園に足を踏み入れる。東には太陽が掲げられ(初鹿野雄起《RISING SUN》)、西には「秘仏」を安置した阿弥陀堂が配されている(中山いくみ《ポストスーパーフラット祭壇画》)。そして、「宴」の場である砂利敷のフロアでは天女=アイドルが舞い(古村雪《会いに行け アイドル(2035年)》、あたまがぐあんぐあん《アイハラ! idle Harassment!》)、聖衆が遊戯に興じ(遠野よあけ《悪くない場所RPG》)、河原者が物売りをしている(巣窟明《路上生活者〜ON THE DOURO》)……

 

 このなんかごちゃごちゃした文章はとりあえず「色んな作品があるよ」みたいな感じで概ね大丈夫です。

 

 平安から鎌倉時代にその頂点を迎え、禅宗の流行とともに「枯山水」にとってかわられた浄土式庭園を召喚し、現代アートの空間として見立てることは、スーパーフラットにおいても禅や「無常感」「侘び寂び」などが参照されがちだった日本美術のイメージを、それ以前に遡ることによって拡張し、日本美術史を独自に再編集してゆくだろう。そして、釈迦入滅後56億7千万年後に訪れる弥勒の救済を待つ場としての庭園と、ウラン238半減期45億年という時間軸の中で「復興」を為そうとする私たちの現在が重ね合わされる。

 

 はい、要するに「スーパーフラットの文脈に連なるものを意図的に回避したよ」ってこと、スーパーフラットと全然関係ないよ、という感じで全然オッケー。

 「スーパーフラットを外部の複数のスポットから観測して、それぞれの関係性を明らかにすることによりスーパーフラットの居場所、アウトラインを確定させる」ことを目的とし、「スーパーフラットと関係ない」「複数のスポット」を用意した。>>>それら複数の地点とスーパーフラットとの関係性を明示することにより、スーパーフラットの位置づけを確定する!!!<<< ここまでは完全に文意が通りました。

 

 

 つまりこここそが今回の展示の見どころとなります。

 

 

 ポストスーパーフラットという視座のもと持ち込んだ多様な文化的文脈は、スーパーフラットを相対化する。

 

 と、あたかも地点さえ容易すれば自ずとスーパーフラットとの関係性が明示されるかのような言い回しになっていますが、その部分、展示されたそれぞれの作品とスーパーフラットとの関係性を明示することこそがキュレーターである黒瀬さんの仕事ですから、押しつけがましくあからさまに解説するのではなく、黒子のように立ち回ることで、あたかもそれらの作品群とスーパーフラットとの関係性が自ずと明示されたかのように観客には認識されますよ、という意味の、黒瀬さんのキュレーターの矜持がそうさせた言い回しでしょう。

 地点を用意したから各々勝手にそこからスーパーフラットとの関係性を考えてね、というのでしたら、そもそもやっていることは「スーパーフラットと関係ない色んな作品の展示」ってだけですから、コンセプトにポストスーパーフラットと銘打つ意味がありません。この世に存在するあらゆるスーパーフラットと無関係な作品/展示、スーパーフラットの補集合は、ポストスーパーフラットと呼ぶにふさわしいということになってしまいます。

 スーパーフラットと全然関係ない色んな作品を集めた展示会が、複数の地点からの相対化によってスーパーフラットをピン留めする事業になるための要件は「それぞれの地点(作品)とスーパーフラットとの関係性の明示」です。

 三日間という非常に短い開催期間となっておりますが、お近くに寄られた際にはぜひ五反田のゲンロンカフェに足を運んで頂いて、この部分の黒瀬さんの仕事に注目して展示会を楽しんで頂けたらと思います。

 

 ※ふわふわアート怪文書コレクターとしての力が及ばず『と同時に、私たちの目先をより広範な歴史へと向かわせる。ポストスーパーフラットの視座によって拡張された現代アートは、「ポストフクシマ」の現在を思考するために起動するのである。』という部分は何を言っているのか一切分かりませんでした。お詫び申し上げると共に、どなたか読解に成功した方がいらっしゃいましたら、後学のため @kinky12x08 までリプライにてお知らせ頂けますと助かります

あの頃の君は不死のゾンビたちとの泥沼の殴り合いの中にこそ喜びを見出していたはずじゃなかったのか

 

 しんかい36こと山川賢一さん(怨念暗黒流剣術免許皆伝)の心が折れてしまったので代打で出ます。サラサラヘアーの本物川こと大澤めぐみ(元オチスレのアイドル/怨念暗黒流剣術見習い)です。怨念ゲージを溜めてリミットブレイク技を発動しよう!

 

 東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編

 

 以前にtogetterYoutubeで公開された、山川賢一の「動ポモのどこがクソなのか大会」の再編集版とでも言うべきエントリです。基本的に批判の内容は同じなのですが、ポイントを絞り、かなりざっくりとダイエットしてすっきりした感があります。乱舞系の九頭龍閃から一撃必殺系の天翔龍閃への進化といった体ですが、怨念と憎悪にまみれたコッテコテでドロドロの怨念暗黒流剣術のファンである僕にはちょっとスッキリとしてそれでいてベタつかないのが物足りない感じだったりもします。怨念と憎悪に呑まれることなくそれを超克した先にある、究極の神速剣はたしかに威力は上がるかもしれませんが、怨念暗黒流の魅力はその威力のみにあるのではないと強く主張したい。モテたいとか受け入れられたいとか、そういうのは全部雑念なので、もっと心を無にして、ありのままの自分の怨念と憎悪に正面から向き合ってほしい。

 

 しかし一撃必殺系なので要旨は簡単ですね。用語の用法がそれぞれの場面でスライドしている。グラデーション論法。今回の指摘はこれだけです。これでなにが問題なのかと言うと、それぞれの用語が指示する範囲が違うのだから、その通りに適用すれば全てを満たす適用範囲が極めて限られてしまうので、データベース消費理論はオタク一般に適用できる理論ではなくなる。社会論への接続可能性が失われる。要するにデータベース消費理論の有意性が失われる、ということになります。

 

 これに対して、以前の動ポモのどこがクソなのか大会にも出演していたコロンブスさんから反論のエントリが出ています。

 

 「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」を読んで

 

 グラデーション論法って言うほうがグラデーション論法!っていう、馬鹿って言うほうが馬鹿案件なのですが、まあそれはいいとして、山川さんのエントリのグラデーション論法を指摘する!というワンアイデアが先行してしまっていて、守るべき本丸がおろそかになるどころか、むしろ積極的に破壊してしまっています。

 

 要旨としては、東はデータベース消費理論は全てのオタクに適用できるなんて言っていないのに、山川さんは勝手に全てのオタクに適用できないから無効って言っている!グラデーション論法!!みたいな感じなのですが、データベース消費理論がオタク全てに適用できるものではないというのが真だとして、ではその割合がどうなのか、という話になってきます。データベース消費理論が社会論として成立するぐらいに広い範囲に観測できる法則であると主張するのならば、全てに適用できないのであっても依然山川さんの指摘は有効なままですし、山川さんの指摘を無効化できるまでに適用範囲を絞ればデータベース消費理論は法則と呼べるほどのものではなく、極めて限られた人の様態を示しただけのものにすぎない、ということになります。つまり、山川さんの指摘を追認する形になってしまうのですね。データベース消費理論は法則と呼べるほどに適用範囲の広いものではない、という点で両者は合意できているので、グラデーション論法って言っているほうがグラデーション論法を使っているんだ!とかそういう泥沼の戦いはどうぞ好きにやってもらいたい。そういう地獄のような殴り合いが見たいんだ僕は。

 

 エヴァに逢うては原作の物語とは無関係にイラストや設定を消費し、ノベルゲームに逢うては類型的で抽象的な物語を消費するという、すべての要件に見事合致する極少数の奇特な人がデータベース消費理論の適用対象であり、その対象を書籍内の独自用法としてオタクと定義すれば、少なくとも表面上の無矛盾性は担保されます。なにしろ世界は広いので、すべての要件を満たす人もどこかには存在するでしょう。

 

 以上のことからデータベース消費理論は無矛盾であり、限定的に現実に妥当する理論であるということが分かって頂けたかと思います。

 

 でっていう。

そんなポストモダン・ジャパンの行方なんかよりも浅田彰に学ぶ10オンスグローブ級の美しい日本語表現

 本物川こと大澤めぐみがお送りしております、大反響のふわふわアート怪文書ブログ。どれぐらい大反響かと言いますと、実兄から感想もなにもない「読んだよ」というただ読んだ旨だけを伝えるメールが届くくらいに前代未聞の大反響っぷりで今後のブログ運営が危ぶまれるところでもありますが、明鏡止水の如き不退転の覚悟で淡々と進行していきたいと思います。

 

 以前のエントリで取り上げた浅田 彰×黒瀬陽平ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」、黒瀬くんのターンを受けての浅田さんの再応答となる第三ラウンドが公開されました。

浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第3ラウンド]1

 

 とても美しい日本語で記述されていて、いろいろな学びがある内容となっています。

 

 >矢代幸雄の「前面性」という概念を借りて、仏像などを含む日本の宗教美術を特徴づけるというのは、やや大雑把に過ぎるとはいえ、ある程度まで納得できる見方だと思います。ただ、僕の疑問は、「日本の仏像や神像について、おおむね正面性が強いということは言えるとしても、『二次元的である』とまで言い切れるか、あるいはまた、キャラクターは二次元でなければいけない、言い換えれば三次元的なキャラクターはキャラクターたり得ない、と言い切れるか」というものでした。黒瀬さんの返答を踏まえてもなお、この疑問は残ります。

 

 とても美しい日本語表現ですね。普段の僕の口調だと、「ああ、まぁそれが正しいかどうかは別として、君が言いたいことは分かったけど、それ全然僕の質問の答えにはなってないよね?質問の意味が理解できなかった?もう一回言おうか?」みたいな感じになると思います。要するに「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」です。同じことを言うにしても表現を工夫するだけでここまで美しくなるものかとハッとさせられると共に、日本語という言語が持つ詩的ポテンシャルの高さを改めて認識しました。オブラートどころか言葉の拳を10オンスグローブで包むが如しです。一般に、ボクシンググローブというのは拳の保護を目的として使われているようですが、グローブが大きくなればなるほど打撃が即KOに結びつかず、選手がファイティングポーズを取り続ける限りは試合は続行されるため加撃され続けることとなり却って危険性を高める、という議論もあるようです。僕としましては黒瀬さんには是非とも固い決意で何度でも立ち上がりファイティングポーズを取ってもらいたいと、こう思う次第であります。

 

 >アニミズム多神教の世界、とくに日本では、現世と来世、俗なる空間と聖なる空間は連続しており、ひとつの絵画空間の中にあっけらかんと共存し得る、という見方は、やはり大雑把すぎるものの、比較文化論的な第一次近似としては理解できます。(中略)ただ、僕が問題にしていたのは、久松知子の《日本の美術を埋葬する》を、生者と死者が共存するプレモダンな日本的空間と称するものに回収する見方が、本当に適切なのか、ということでした。

 

 はい、とても美しい「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」パンチのコンビネーションですね。黒瀬くんが繰り出すトリッキーで小刻みなパンチをその場から一歩も動くことなく全て避け(それを避けると呼ぶかという議論はまた別にあり得ましょうが)何度でも同じところに同じパンチを打ち込むだけという愚直とも思える挙動。まさに学長の風格。これも普段の僕の口調にすると「うん、まぁそれが合ってるかどうかっていうと微妙な感じはするけど、とりあえずお前が言いたいことは分かった。でもそれ俺の質問に対する答えになってないよね?ひょっとして全然意味分かってない?もう一回言おうか?」みたいな感じになるでしょう。

 

 以上です。

 

 はい。実は今回の浅田彰さんの応答、挨拶や相槌に相当する部分を除くと、実質的に前回の黒瀬くんのエントリに対応しているのはこの部分だけになります。黒瀬くんの7000文字を超えるエントリに対して、実質「でも俺そんなこと聞いてるわけじゃないんだよね」と言っているだけなんですね。黒瀬さん、浅田さんの疑義を全てスルーしてひたすら全然関係ない話をしていただけなので、当然と言えば当然なのですが。

 

 >黒瀬さんの『Little Akihabara Market』展のテクストが単なる思い付きではなく、それなりに広く深い思考に裏打ちされていることがあらためてよくわかったし、そのことが多くの読者に伝わるとすれば、この意見交換には十分な意味があったと言うべきでしょう。

 

 目の前に相手が居るのにリングの上でシャドーボクシングに興じる黒瀬さんの挙動に対しても、黒瀬さんのシャドーボクシングスキルを観衆に知らしめるという価値まで否定し切ることは難しいでしょう。何度直撃を食らって血まみれで昏倒しようとも、何度でも立ち上がり飽くまでシャドーボクシングに徹する姿勢には鬼気迫るものがあり、ここは僕も完全に浅田さんの言に首肯せざるを得ません。心の奥底からじんわりと暖まるような実に美しい日本語表現で学ぶところが多いですね。

 

 さて、前回の黒瀬くんのエントリに対する応答は「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」パンチ一本で粉砕した浅田さんですが、流石にそれだけでは間が持たないと判断したのか、後半ではさらに別の追撃を仕掛けていきます。ゲンロン通信という東浩紀の友の会の会報に掲載された、黒瀬さんの「『当事者性』の美学」というテキストに対する言及で、残念ながら僕は元のテキストを持っていないので浅田さんの引用からその内容を伺い知ることしかできないのですが。

 

 !!!!直接の被災者ではないカオス*ラウンジ」は「自らの炎上の『当事者性』を介することで震災について考えた!!!!

 

 すごいですね。

 

 知っている人は知っている、知らない人は覚えてね、ただのゆるふわアート学生のオフ会みたいなものに過ぎなかった黒瀬さん率いるカオスラウンジは、梅沢和木さんのキメこな丸パクリ騒動大炎上し一躍有名になったわけですが、その炎上の経緯っていうのは「パクったら怒られたから逆ギレしたら大炎上して、結果的に他の悪さも芋づる式に出てきてさらに延焼」っていう、ほとんど「万引きを自分からツイッターで自慢してたら怒られたから逆ギレしたら大炎上した」っていうような、いわゆるバカッター丸出しのテンプレパターン自業自得因果応報諸以外のなんとも言いようがないようなものです。未曾有の天災である東日本大震災被災者に対して「俺たちも被災者の気持ちはよく分かるよ。ネットで炎上したことあるからね」って言っているわけで、そりゃあ普通に「は?」ってなるだろうという話です。

 

 >「当事者性」を本気で重視するのなら、東日本大震災とカオス*ラウンジの「炎上」を、またそれぞれの「当事者性」を重ねるとか、「原発麻雀」をプレイすることで東京電力の「当事者性」を身に帯びるとかいうのは、いくらなんでも軽率に過ぎるのではないでしょうか

 

 「は?」の一言で済む話をここまで美しい日本語表現にしてしまう浅田さんの変幻自在のゲンロンボクシングスキルは流石と言わざるを得ません。僕もスラスラとこんな美しい日本語を話せるように日々精進していきたいと決意を新たにしたところであります。

文化庁の原則をもねじ曲げる強いあの手この手によって収束させられる助成金をそれでもなお確保しようとするならば激おこ高裁判決文のような力を想定するよりも風にそよぐ天然パーマ


  東京都の演劇を主とした国際芸術祭、フェスティバル・トーキョー14 (以後F/T14) のコンセプト文がふわふわ過ぎると僕のTLで局所的に話題になっています。

 

フェスティバル/トーキョー14 コンセプト

 

 !!!!光をもねじ曲げる強い磁場によって収束させられる多様性をそれでもなお確保しようとするならば、その磁場をも破壊するブラックホールのような力を想定するよりも風にそよぐ葦のような柔構造を思い描いてみたい!!!!

 

 はい、のっけから飛ばしていますね。光をもねじ曲げる強い磁場、すごく強そうです。相対性理論のミクロな世界にまで行くと磁場が中性子に影響を与えるとか与えないとかなので、第五の力だよ!よりは相対的な妥当性をそこはかとなく感じなくもなかったりもするかもしれませんが、なにしろ強そうなので意気込みは十分に伝わってきます。きっと面接試験とかではこういうのが重要なファクタなのでしょう。本当に「有望な新卒なんてどこからも採用することはできない」と諦めかけたときにこそ、「御社にはわたしのような人材が必要なのではないか」という地の底からのうなり声が聞こえるはずであると言いたい。

 

 固有名詞を避けてはいますが、明らかに美味しんぼの件を指示して、風評被害という名の同調圧力により表現が敗北し真実は隠されてしまったみたいな周回遅れの知見を示すだけならばともかく、その後漫画は敗北したけどアートがまだ存在している!!!!というナチュラルなアート大上段ポーズがいかにもアートミンっぽくてとてもふわふわアート怪文書です。筆者の市村作知雄さんという方、いったいどういう方かというと、2006年4月に横浜大倉山記念館の館長として業務開始すると同時に背任行為で横浜市から公金を詐取し、2009年には横浜地裁で異例の付言を加えた有罪判決を受け実質の館長職解任命令を下される判決文の解釈の問題として従わず居座るなど、まぁ色々と折り紙つきの方でうん……って感じではあります。おかげさまで昭和59年以来大倉山記念館を拠点に26年間にわたり若手音楽家に演奏の機会を提供してきた水曜コンサートは指定管理者の任期終了と時を同じくしてその歴史に幕を閉じることとなりました。

 

 だから今こそ、「東京高裁の判決文の力」が必要とされている。

 

 このふわふわアート怪文書に対して、世のあらゆるふわふわアート怪文書を問答無用で「ヤバイ!」「アツイ!」「間違いない!」と圧倒的語彙感で褒め称えるアクロバットを本職としている方たちから今回は何故か嘲笑の声が上がっています。

 

 

 偽札アートでおなじみの黒瀬くん率いるカオスラウンジはF/T11への参加経験もあり、ずいぶんなゴロニャン具合だったのにえらい手のひらクルーするなぁと思ったら、3年につき1回分しか助成金を支出しないという文化庁の枠組みをも掻い潜り、ある時はフェスティバルの名前を変えて連続申請したり、あの手この手を使って助成金をゲットしてきては気前よく寄生させてくれるF/T13までの総合ディレクター相馬千秋さん謎の解任をされて以降初の、新体制でのF/Tになるわけですね。寄生先にうま味がなくなったら律儀に砂を掛けてからすっぱい葡萄をするゲンロンケンポーの正しい作法はつつがなく継承されているようです。

 

 さて、ふわふわアート怪文書の常であるように、今回のこれもまたずいぶんと目が滑る文章でとても目が滑るので目が滑って論旨を掴みづらいのですが、というかコンセプトという表題がついた文章でいまいちなにがコンセプトなのか見えてこないというのはもうその時点で問題であろうとは思うのですが、僕とてエミュとはいえふわふわアートポエマーの端くれ、頑張ってツルツルと文章を解釈してみたところ、結論に相当しそうな部分はこれは確かに黒瀬くんたちは気に入らないかもしれないなぁという感じではありました。

 

 以下、ふわふわアートコンセプトを平叙文に翻訳した大まかな概要です。

 

<収束する多様性

・真実は多様性の担保によってしか存在できない。故に、表現の多様性は守られなければならない。
・そこにはアートの力が必要!(謎
・そのためにF/Tは保守的でない、より良い組織を目指す!
・周囲と自らの立ち位置を自覚することだけが、今の時代を照らす光となる

 

多様性と少数者>

現代アート多様性によって担保されている。
多様性の担保は平和を齎す
・奇抜なだけでは、現代社会ではありふれたものの一つでしかなく、アートとは言えなくなって来た
多様性が担保された現代では、アーティストは社会のインサイダーとして成立することが必要
現代アートが、単に奇抜なものとして埋もれていくか、社会のインサイダーにあっても成立し新しいアーティスト像へ変遷していくか、これから見定めることになる

 
  この文章の中でF/T14のコンセプトに相当するのは「多様性が認められる現代社会においては社会のアウトサイダーとして奇抜であろうとするだけでは結局は多様性の一部に過ぎずアーティストとは呼べない。社会のインサイダーにあっても成立する新しいアーティスト像へ変遷していく必要がある」という部分であろうかと推察されます。反体制反権力ぶって、頑張って奇抜であろう個性的であろうと頑張った結果、みんな似たり寄ったりの無個性なグズグズメンヘラアートに帰着する現状を批判するとともに、F/T13までの方針から刷新し、質実剛健な新生F/T14を宣言しているものと解釈できますね。参加アーティストとして助成金アートに寄生することを許されないばかりか安直な反体制主義を痛烈に批判されたとあってはそれは黒瀬くん、面白くないでしょう。

 

 ではここでF/T13以前の参加アーティストたちの輝かしい軌跡を振り返ってみましょう。

 

 バナナ学園純情乙女組:公演中に役者が観客の女性相手に強制わいせつ

 カオスラウンジ:F/T11において届出なしでキャバクラの模擬店

 PortB:三日三晩色んなところでお茶飲んでウロウロして喋るだけの演劇

 

 なんというか、もう完全に社会に反抗してさえいれば一端のアーティストって感じの安直な強い磁場しか感じ取れませんし、国際的な舞台芸術フェスティバル、と銘打つには?となるような演目が目白押しですが、俺が演劇と言ったら全ては演劇なのだてきに演劇の定義を拡張しまくった現代演劇という概念を便利に使って公金でやりたいことをやりたいようにやっているだけとしか思えないのはきっと僕が芸術を解さないつまらない凡人だからでしょう。とはいえ、新体制となったF/T14がそういった相馬千秋さんが率いたグズグズの過去と決別し、社会のインサイダーにあっても成立する新しいアーティスト像を求めるのもむべなるかなというものです。ちなみに前総合プロデューサーの相馬千秋さんが現在どういったプロジェクトに関わっているかといいますと、一週間みんなでお泊り会して2か月後にポエムの発表会するだけっぽいような、なんだかよく分からないことを相も変わらずやっているようで、このへんの一挙一動も風にそよぐ天然パーマのような粘着構造を思い描きねっとりとヲチしていきたい。

 

 地元のNPOが地道に育ててきた水曜コンサートという場を散々ひっかきまわし、東京高裁敗訴サイバンカンリニンサン激おこ判決文までいったアートネットワークジャパンと市村作知雄さんを相も変わらず重用しているあたりは非常に気になって気になるポイントではありますが、体制を刷新して挑む新生FF14、この現在に新しいアーティスト像を描くことにエネルギーを注ぐか、また着任と同時に即背任行為で公金を不正取得する流れの方が速いか、ここしばらくは楽しみながら眺めていたいような気分であると共に、ともあれカルタゴは滅ぼされるべきだと考えます。

 

謝辞

 相も変わらずなクソエントリをこんなところまで読み進めてくれた読者諸兄とはよりよい関係が築けていると思っている。きっと相思相愛であるに違いない。

通称なし子さんの果てしなき自分改造計画とかよりもほろ苦い青春の1ページ的ノスタルジィと今さら蒸し返す伝説のあーちゃん(仮称)まんこくさい事件

 ここ数日、3Dプリンターで自らの女性器を造形できるデータを頒布したとして、わいせつ電磁的記録頒布の容疑で東京都在住の五十嵐恵(通称ろくでなし子)さんが逮捕された件で、各方面から名立たるクソコテがここぞとばかりに大集結しスーパークソコテ大戦の様相を呈していて、僕のTLはまんこまんこで溢れ返っております。

 

 本件に関しては各界から名立たるクソコテが当の通称なし子さんすらを置き去りにして猥褻だ否芸術だまんこはいいけどロリはダメとは何事だと、血で血を洗うスーパーまんこ戦争を繰り広げているので今さらそこに参戦するなんていうのはちょっとご遠慮させて頂きたい感ありあり系。なので僕はスーパークソコテ大戦に置いてけぼり食らってる通称なし子さんの主張そのもののほうにフォーカスを合わせてみようかなぁなんて思ったりした次第。ていうか、血で血を洗うスーパーまんこ戦争ってちょっと表現としてリアルすぎてさすがになんかヤですね。

 

 さて、本来の話題の中心であるはずの通称まん子さんですが、自分のまんこの形が変なんじゃないかっていう悩みを拗らせすぎて、病院に相談に行ったうえ、実際に整形手術をしたそうです(うろ覚え)。このことがキッカケで「自分が自分のまんこの形が変なんじゃないかって思い詰めたのは、他人のまんこの形を見る機会がなかったせいだ!誰も教えてくれないから正常な形とか知らなかったもの!みんなもっとオープンにまんこを見せ合おう!」みたいな主義主張を持ち始めたようなのですが、待って。

 

 そのエピソード、童貞が童貞過ぎて初見でアナルセックスしそうになったり、思春期に乳首がパンパンに張って「俺はこのまま女の子になってしまうんじゃないだろうか……?」っていう不安を拗らせて病院で見てもらい「それはチクツーです。男の子はわりとなります」って言われて300円払って帰ってくるみたいな類の、わりと誰にでもあるほろ苦い青春の1ページ的ノスタルジィですよね?

 

 

 思い詰める前にヤホー知恵袋あたりで「乳首がパンパンに張ってしまったのですが女の子になってしまうんでしょうか?」って質問すれば即刻ベストアンサーしてもらえますし、「乳首 痛い」で検索するだけでもだいたい分かるでしょう。「わたしのまんこの形はおかしいのでしょうか?」も質問さえすれば「個体差があるので気にしなくていいです」てきなベストアンサーが即刻ついたものと思います。「まんこが神格化されていたり猥褻物と扱われていることが性教育を阻害している!」という主張はちょっとスーパージャンプ感が否めませんし、冒頭でも申し上げました通り、もう僕のTLはここ数日まんこまんこで賑わっておりますから、今の日本社会は抑圧されていてまんこについてオープンに語り合えない!っていうのはもう杞憂だと反証されちゃっているように感じます。むしろもうしばらくまんこの話題はいいよ。

 

 要するに処女を拗らせすぎて変な勘違いした人が、拗らせ処女から一転、今度は逆方向に全振りして、もっとサバサバと下ネタも言えるような芸風に自分改造しよう!みたいな計画に、「みんなももっとオープンにまんこについて語ろう!」って周囲を巻き込んでいるだけなんじゃないかと思います。心配しなくてもサバサバ下ネタ言いたい人は元からそういう芸風でやってますし、奥ゆかしい感じで自分をプロデュースしたい人はそんな気楽にまんこまんこ言いません。あなたがこうあるべし!なんて張り切らなくても、ちゃんとみんななりたい自分になっているのではないでしょうか。

 

 ところで僕の地元には伝説として語り継がれているあーちゃん(仮称:現在23歳)まんこくさい事件というのがあるのですが、当時18歳だったネアカで下ネタもサバサバ言えちゃう系のあーちゃん(仮称)が、柄にもなく随分と深刻な顔で「ねぇちょっとお願いしたいことがあるんだけど」と僕たちに相談してきたところから始まります。

 

 「あのさ、わたしまんこ超くさいんだけど」

 「は?」

 「ここ数日まんこがくさいの」

 「はぁ」

 「ねぇ、ちょっと嗅いでみてくれない?」

 「は!?」

 「たぶんくさいと思うんだけど自分じゃ分からないから嗅いでみて」

 「ヤだよ!くさいんでしょ!?」

 「だからくさいと思うんだけどくさいかくさくないか分からないから嗅いでみてって!」

 「ヤだよ!たとえくさくなかったとしても嗅ぎたくないよ!」

 「後生だから!後生だから!!」

 

 そんなやりとりが派手にあったのち、とある子が「じゃあわたし嗅いでみてもいいよ」という話になって、あーちゃん(仮称)とその子がちょっと裏に。

 

 「おぅえええええ!!!」

 「そんなに!?そんなにくさい!?!?」

 「くさい!超くさい!!」

 「病気!?病気かな!?」

 「わかんないけど絶対に正常じゃない!!!!!」

 

 そこまでリアクションされるとやおら気になり始めるその他大勢。ああ抗いがたし怖いもの見たさ。結局みんな順繰りにあーちゃん(仮称)のまんこの匂いを嗅ぐ流れに。

 

 「くさい!」

 「超くさい!!!!」

 「ていうかもうこの距離感であり得ない!くさい!!!!!」

 

 と、とりあえず満場一致であーちゃん(仮称)のまんこはくさいという合意が取れ、これはもう病院に行くしかないということにはなったのですが、なにしろこの大騒ぎですので、すでにあーちゃん(仮称)のまんこがくさいという事実は千里を走り、もはや知らぬ人は居ない状態です。

 さて、その後まんこがくさいあーちゃん(仮称)は思い詰めた顔で婦人科に行き、問診票に「まんこくさい」と書いて診察室へ。例のオートまんぐり返し台に乗せられて御開帳されたまんこに先生がズボっと手を突っ込むと中から赤黒くて超くさい謎の巨大な物体が!!!!!ギャーッ!っとなったあーちゃん(仮称)、命に関わる深刻な病魔が知らぬ間にまんこの中で成長していたのかと焦ります!

 

 「先生!これは一体……!?」

 「これね、タンポン」

 「……は?」

 「タンポン」

 「タンポン……?」

 「タンポン。入れたまんま忘れてたでしょ」

 

 そう、あーちゃん(仮称)はすでにタンポンを入れていることをすっかり忘れて、その上からさらにもう一本タンポンを入れてしまったために、一本目が奥まで入って抜けなくなって、それが腐って異臭を放っていたのでした。すでにまんこくさいで大騒ぎしてしまったあーちゃん(仮称)、もちろんみんなにこの結果を報告しないわけにはいきません。これが後々にまで語り継がれる伝説となったあーちゃん(仮称)まんこくさい事件のあらましです。

 

 まんこくさい事件で伝説となったあーちゃん(仮称)その後も地元のメンバーで集まるとことあるごとにその事で弄られ、成人式の二次会でさらに爆発的に伝説が広まったわけですが、まんこくさいで散々弄られた結果、少々のことでは動じないタフネスを身に着けたあーちゃん(仮称)、今では都内でスーツ着てバリバリ仕事をしています。

 

 「だから若いときには恥をかいておくものなんだよ」

 とはあーちゃん(仮称)の言ですが、それはそれでまた納得のいかない結論ではある。

いかにして黒瀬陽平のテキストが学術的価値を認められうるかについて真摯に耳を傾ける向かって左30度

浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第2ラウンド]2

 

 このエントリーは黒瀬陽平さんによる上記のエントリーにインスパイアされマスターピースをアプロプリエーションしてシミレーショニズム的手法で真摯に取り組むべく忸怩たる思いではてなブログに登録をした次第の本物川こと大澤めぐみがお届けしております。初エントリども……

 

 件のエントリーでありますが、久松作品の読解をきっかけに、リアリズムから一足飛びにプレモダンへ移行しようとする黒瀬陽平クールベ解釈に対して「有名人群像であれば《オルナンの埋葬》よりも《画家のアトリエ》が重要だろう」という浅田の指摘について黒瀬陽平は理解している旨から始まるわけですが、この点についてまず耳を傾ける必要があるでしょう。しかしながら言うまでもなく、人間の耳は犬猫などとは違い独立して稼働するような構造をしておりませんので、耳を傾けるためには首から上の頭部全体を傾けるしかなく、これは様態としては要するに首を傾げていることになるわけですが、とはいえ、向かって左方向30度程度の傾斜にはなんらかの意図を読み取らずにはいられないのが人間の本性というものです。そんな話だっただろうかと思われる向きもあるかもしれませんが、そう言いたいのはむしろ僕のほうだと声を大にして主張するまでは行かなくとも舌打ちしてボソッと呟く程度にはささやかな抵抗を試みてみる所存で望むべきだと考えます。

 

 さて、非常に目が滑る、つまり文章と視線との摩擦係数が極めて小さい黒瀬陽平のエントリーですが、冒頭を要約すると

 「死と再生のテーマの是非で食い違ったのは、浅田と黒瀬の死生観が食い違っているから」

 「西洋の死生観はプロテスタント以降、復活が特異なものである。一方日本の死生観にはそれは無い。」

 「浅田の解釈は正当クールベ解釈的には正しいが、久松がわざわざそんな時代遅れのことするわけもないので、正当クールベ解釈に基づく批判は生産的じゃない。黒瀬の言う死生観に基づいて考察するほうが生産的だ」

 といったようなものであろうと解釈しました。しかしながら、なにしろ僕の視線もカーリングストーンのように軽やかに滑って行きましたので解釈の妥当性については定かではありません。とはいえ、そこまで大きく的を外してもいないのではないかという自己評価にはある程度の妥当性が存在するものと願ってやまない今日この頃、止まない雨はない、みたいなありきたりな慰めの言葉をかけられても、今降っている雨こそが問題なのでそんな問題ではないと積極的に煽っていきましょう。そもそもその読解が誤解であるという指摘も真摯に受け止める覚悟ではありますが、人間どこかでは断定しないとなかなか話が前に進みませんので、ここでは仮にこの読解が真であることを前提に話を進めていきたいと思います。話が進んでいないぞという指摘に関しても謙虚に受け止めて流しつつ、まずは「西洋の死生観はプロテスタント以降、復活が特異なものである。一方日本の死生観にはそれは無い。」という前提に耳を傾けてみましょう。この場合、耳を傾けるというのはこのエントリーで独自に定義されたテクニカルタームです。

 

 言うまでもなく、キリスト教の教義の中心概念となるのは「永遠の命」です。キリスト教を信仰することによって得られる救いとは他でもなく、死後の復活とその後の永遠の命だからです。つまりは漠然とした不安に対して安心を売っているわけで、生命保険が商材として成立するのと同じ理屈です。これこそが旧約聖書(とキリスト教徒が読んでいるもの)を聖典とするユダヤ教と、新約聖書を含む一群を聖典と定めるキリスト教の差異です。旧約聖書にはそもそも死後の世界に関する言及というのが一切存在しないので、復活がキリストの特権であるとかそんな小理屈を捏ねるまでもなく、死んだら終わり、死んだらそれまで、塵に過ぎないお前はまた塵に帰るだけ、という死生観となっています。また「プロテスタントキリスト教以前には、様々な呪術的信仰が存在していた。そこには日本の仏教・神道的な死生観と共通するものが数多く見つかる」と言及されていることから、上記エントリーで使われている「西洋」や「キリスト教的死生観」というタームは「プロテスタントキリスト教以降」と解釈すべきであろうと考えられますので、ここでカトリックプロテスタントの差異についても触れておきたいと思いますが、端的に申し上げますと聖典として認める範囲が異なります。あまり一般的なタームではありませんが「アプクリファ」とか「第二旧約聖書」とか「インターテスタメント」呼ばれる一群はプロテスタントにおいては聖典として認められていません。やっかいなことに、プロテスタントはこれを聖典として認めない立場でありますから、聖典ではないということを明確に示すためにこれを「旧約外典」などと呼びますが、カトリックにおいてはなんのエクスキューズもなく普通に旧約聖書の中に含まれているのです。つまり「旧約聖書」という語を使うにしても、それがプロテスタントにおける旧約聖書であるのかカトリックにおける旧約聖書であるのかによって、その語が指示する範囲が異なっていまうわけです。したがって、この語によって担われているコンセプトの再現性、あるいは翻訳可能性についても今後は考えてゆかねばならないなどと使命感を抱いたところで、そもそもキリスト教徒が全人口の1%未満でしかない我が国においては、真紅の二次創作絵がドロワーズではなくショーツを履いていた場合などに感じる憤りと似たような種類のものであり、つまりこれは非常に由々しき問題であると認識を新たにすると共に、徹底抗戦を固く心に誓ったところであります。滅びの風よ、吹け。

 

 もしかしたら、ここで問題にするべきは「ドロワーズとショーツ」というテーマを持ち出すことについての是非ではなく、僕とみなさんの想定している「ドロワーズとショーツ」の神話の違いについて、なのかもしれませんが、話を戻しましょう。旧約聖書の中に聖典として認められない一群がある、という話は既にしましたが、ではなぜそのようなことになったかというと、ヨーロッパで広まった聖書は主にラテン語で記述されていたわけですが、ヘブライ語から直接にドイツ語への翻訳をしたマルティン・ルターが翻訳の作業において、既に広まっているラテン語の聖書にはヘブライ語の聖書にはない箇所があることに気付いたのです。つまり、旧約聖書にはラテン語に翻訳されるあたりの段階で書き足された部分があったということです。聖書はその中で「あなた方は、わたしが命じている言葉に付け加えてはならず、それから取り去ってもならない」と規定されていますので、書き加えられた箇所は除かれなければならないと考えるのは当然の帰結と言えると思うかもしれませんが、そのことに気付いたルターが即座にそれを取り去ったかというとそういうこともなく、ただし、あちこちに分散して書き加えられていた箇所をひとまとめにして旧約聖書の末尾に置くことにしました。このルターの翻訳が広く採用されたために、書き加えられた箇所は第二旧約聖書というひとまとまりの文書として認識されるようになっていったのです。さて、果たしてこれで話は戻ったのかという一抹の不安を払しょくできない節は否定しきれないこともありませんが、ここで気になってくるのは「キリスト教的な歴史的一回性によって死生観が統合された経験を持たない日本ではどうか」という言明です。これは少し操作すると「西洋の広い地域ではキリスト教的な歴史的一回性によって死生観が統合されている」という言明となり、これが自明の前提として扱われているのですがここもまた首を傾げざるを得ません。間違えました。耳を傾けてみましょう。

 

 黒瀬陽平史観では「プロテスタントキリスト教以前は日本の仏教・神道的な死生観と共通するものが数多く見つかるが、プロテスタントキリスト教以降は生と死は明確に断絶するようになり、原則的に「死と再生」の神話は認めらなくなった」ということになっているようですが、もはや言うまでもなく、カトリックプロテスタントの差異はそんなところにあるのではなく、前述の通り聖典と認める聖書の範囲であり、またプロテスタントという語そのものが宗教改革によってカトリックから分離した「諸宗派」を指す語であって、大きく分けるだけでも福音派とリベラルに二分することができ、プロテスタントという一大勢力が西洋世界の宗教を統一したわけでもなんでもありませんし、プロテスタントキリスト教が西洋全体の死生観に与えた有意な影響があるわけでもなく、プロテスタントキリスト教以降という区分で西洋世界全体を語るのであれば、それはただ「16世紀頃」という大まかな時代を指すだけのアンカーでしかありません。16世紀頃の西洋といえば、まさに近代化の起こりですね。生と死が明確に断絶するようになった、という変化の原因を求めるのであれば、そちらを採用するほうが自然な流れというものではないかと考えるわけですが、そもそも考えるという行為自体が自然な流れに刃向う行為、動物的本能に対する人間の知性による反逆なわけで、そうは言ってもやはり人間は考える葦たるべしなのだから、まあたぶん近代化が原因でしょう。

 もちろん、ヨーロッパの近代化はプロテスタント革命によって強力な後押しを得たものだ、という見解には僕も首肯するものですが、僕たちの議論において重要なのは先にも述べた通り、プロテスタントキリスト教がなにかしら死生観に関する新しい解釈を持っていた故に、16世紀以降、生者と死者の世界が断絶したのではなく、ただ近代化の結果としてそうなったのではないかということだろうと思うのです。なにしろ、僕たちの居るこの世界は現に生と死が明確に断絶しているのですから、いずれ人はその世界の真実を当然のこととして受け入れざるを得ません。貴方がどのような死生観を持とうとも貴方は死ぬし生まれ変わらないし復活もしないし地球は太陽の周囲を公転し宇宙は膨張を続けています。さあ、アセンションによってパラダイムの地平を超えるのです。

 

 そもそもの話、16世紀以降の西洋の文化芸術において死者の復活が封じ手となっているかと言えばこれも甚だ疑問であるし、これは黒瀬陽平の言明ではなく引用された文章へのツッコミになるうえ原本を読んでいないのでアレなのですが「しかしこの点で日本の宗教の特異な点は、死者の霊魂のあの世での浄化を、生者がこの世から援助できるということであろう」なんて清々しく断言されてしまうと、パンを踏んだ娘って西洋的世界観ではかなり特殊なプロットに相当するのだろうか?聖ブランダンの航海は?ホレおばさんは?などと一瞬で様々な疑問が走馬灯のように駆け巡る悲喜こもごもの様相を呈してきたところで世俗の聖典をつらつらと読み返してたら「英雄的な行為はキリスト教神話において受難を耐え忍ぶという形を取るが、世俗文学はいかなる教義上の禁制によっても縛られないので、主人公はキリスト教の物語において対応している神的存在と同じように救い主の役割も引き受けることができる」みたいなことが書いてあるじゃありませんか。というか、そもそもの論点は生者と死者の距離感が遠いか近いかという話であって、西洋が断絶しているのはキリスト教の教義によって死者が復活できないからだ、みたいなことを言われても、キリスト教においてもキリストの特権となっているのはメシアとしての復活、つまり人間ではなく永遠に生きる存在として復活することであって、死んだ人間がそのまま生前の人間として復活する、死という病気が治る(故にその後も普通に人間として生き天寿を全うして人として死ぬ)、というレベルの復活であればそこいらの聖人でもわりと気軽に起こしていいレベルの奇跡でしかありません。それに、日本の場合はむしろ復活なんかするまでもなく死んだままで幽霊として出てくればそれで済むみたいなところがあって、むしろそれこそが「あまりにもぬけぬけと繋がった生と死の空間」と評される様態なのではないかという気がしてきたりもしました。お彼岸にご先祖様は生き返って生者として帰ってくるのではなく、死んだままでざっくばらんにフラッと返ってきますし、生者と死者の距離が近い世界観ではそもそも復活する必要もないわけで、宗教の教義によって復活できない縛りがたとえ事実であったとしても、それは生者と死者の距離感とは無関係のファクターではないかと彼岸への想いを馳せたところで話は振り出しに戻りこそすれ、一歩も進んでいないのではないかという指摘も真摯に受け止めるとは言ったものの、受け止めたからといって改善するとは限らない、むしろ受け止めるところまでは頑張ったのだからもうそれで勘弁してくれ、改善策とか再発防止策など知ったことか、というのが「真摯に受け止める」という語の実際の運用のされ方であろうかと思います。

 

 そういえばこれは、黒瀬陽平のエントリーについての話でした。後半の要約としては

 「矢代に拠れば日本の仏像は前面性芸術である」

 「矢代の見解を鵜呑みにするのは危険だが、前面性、平面性が日本の神仏の世界と紐つけられているということは言える」

 といった感じではないかと視線で華麗な四輪ドリフトを決めつつコーナリング出口では速やかにトップスピードに乗りざっくりと解釈したわけですが、長々と日本美術の前面性について語っていたはずなのに、最後に唐突になんの論証も挟まず、前面性と平面性がイコールで結ばれていて、前面性と平面性というのは「すなわち」の一語ですんなりとイコールで結んでしまっていい概念であろうかと疑問を呈すれば13人の怒れるドイツ人がビールジョッキ片手にハラショーと開廷しそうな気配がなきにしもあらず、心ここにあらずんば虎児を得ず。そもそも虎児なんて得たところでなんに使うんでしょうか。飼うのか?

 また曼荼羅に代表される神仏の世界は二次元的に把握される世界観である、といったような言明も見受けられるのですが、曼荼羅が二次元的に把握される世界観というのは、数式は全て奥行のないテキストでシーケンシャルに記述されているのだから二次元的に把握される世界観だと言っているようなものではないかという気がするのです。曼荼羅を定義するのは、複数の要素がある法則に依って配置されている、という部分なので、ただ画面を画面として視覚的に捉えるものではなく、数式のように脳内でレンダリングされることを前提とした記述ですし、レンダリングされたそれは大抵は三次元以上の構成になっています。法曼荼羅などはその側面をさらに先鋭化させたもので、これはもはや絵画というよりは魔方陣のように、ある種の式として読み解く前提のものと言ってしまって構わないでしょう。

 

 以上のような言説を踏まえると、僕は曼荼羅の専門家ではないから適当なことをフカしておいていやそれは違うみたいなことを誰かに突っ込まれてもむろんリプライ&ブロックアウェイする所存ではありますが、とはいえ、前面性、あるいは黒瀬陽平の中では自明の前提としてそれとイコールで結ばれる平面性や二次元性を論じるにあたって、よりにもよって曼荼羅をその代表格として引いてくるのは隙が多いのではないか、ということは言えるのではないでしょうか。

 

 さて、ここまでずっと黒瀬陽平のエントリーを受けてなんとなく思いついたことを適当に書き連ねることで字数を稼ぐという手法を実践してきてみていたのですが、こんなしょうもないクソエントリーを頑張ってここまで読んでくれた酔狂な読者の方でも、もういい加減に最初がそもそもが何の話であったのかお忘れのことかと思います。つまりはこれこそが黒瀬陽平の手口であって、そもそも何の話なのかよく分からないのだから批判しようにも批判のしようがないという、弱肉強食のゲンロン界で生き抜くために、強者に取って喰われることがないよう牙を研ぎ強くなるという指向性ではなく、肉がマズければ喰われないといった方向性での生存戦略なのではないかと推測します。しかしながら、話がつぎつぎと逸れていき、的外れなところで興奮し、自身の認識内で並列すると無根拠にイコールで結ばれ、勘違いを前提に話を進め、そもそもの本題がなんであったのかを忘れてしまう、というか本題なんか最初からない、ただ連想を積み重ねているだけ、という生成りの人間の思考回路の様態をテキストという汎用性の高いメディアで観測することが可能である、という点においては学術的価値も認められる可能性がなにげにあったりなかったりするかもしれません。どっとはらい