あの頃の君は不死のゾンビたちとの泥沼の殴り合いの中にこそ喜びを見出していたはずじゃなかったのか
止めよう、気力が尽きた
— しんかい36(山川賢一) (@shinkai35) 2014, 8月 15
しんかい36こと山川賢一さん(怨念暗黒流剣術免許皆伝)の心が折れてしまったので代打で出ます。サラサラヘアーの本物川こと大澤めぐみ(元オチスレのアイドル/怨念暗黒流剣術見習い)です。怨念ゲージを溜めてリミットブレイク技を発動しよう!
東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編
以前にtogetterとYoutubeで公開された、山川賢一の「動ポモのどこがクソなのか大会」の再編集版とでも言うべきエントリです。基本的に批判の内容は同じなのですが、ポイントを絞り、かなりざっくりとダイエットしてすっきりした感があります。乱舞系の九頭龍閃から一撃必殺系の天翔龍閃への進化といった体ですが、怨念と憎悪にまみれたコッテコテでドロドロの怨念暗黒流剣術のファンである僕にはちょっとスッキリとしてそれでいてベタつかないのが物足りない感じだったりもします。怨念と憎悪に呑まれることなくそれを超克した先にある、究極の神速剣はたしかに威力は上がるかもしれませんが、怨念暗黒流の魅力はその威力のみにあるのではないと強く主張したい。モテたいとか受け入れられたいとか、そういうのは全部雑念なので、もっと心を無にして、ありのままの自分の怨念と憎悪に正面から向き合ってほしい。
しかし一撃必殺系なので要旨は簡単ですね。用語の用法がそれぞれの場面でスライドしている。グラデーション論法。今回の指摘はこれだけです。これでなにが問題なのかと言うと、それぞれの用語が指示する範囲が違うのだから、その通りに適用すれば全てを満たす適用範囲が極めて限られてしまうので、データベース消費理論はオタク一般に適用できる理論ではなくなる。社会論への接続可能性が失われる。要するにデータベース消費理論の有意性が失われる、ということになります。
これに対して、以前の動ポモのどこがクソなのか大会にも出演していたコロンブスさんから反論のエントリが出ています。
「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」を読んで
グラデーション論法って言うほうがグラデーション論法!っていう、馬鹿って言うほうが馬鹿案件なのですが、まあそれはいいとして、山川さんのエントリのグラデーション論法を指摘する!というワンアイデアが先行してしまっていて、守るべき本丸がおろそかになるどころか、むしろ積極的に破壊してしまっています。
要旨としては、東はデータベース消費理論は全てのオタクに適用できるなんて言っていないのに、山川さんは勝手に全てのオタクに適用できないから無効って言っている!グラデーション論法!!みたいな感じなのですが、データベース消費理論がオタク全てに適用できるものではないというのが真だとして、ではその割合がどうなのか、という話になってきます。データベース消費理論が社会論として成立するぐらいに広い範囲に観測できる法則であると主張するのならば、全てに適用できないのであっても依然山川さんの指摘は有効なままですし、山川さんの指摘を無効化できるまでに適用範囲を絞ればデータベース消費理論は法則と呼べるほどのものではなく、極めて限られた人の様態を示しただけのものにすぎない、ということになります。つまり、山川さんの指摘を追認する形になってしまうのですね。データベース消費理論は法則と呼べるほどに適用範囲の広いものではない、という点で両者は合意できているので、グラデーション論法って言っているほうがグラデーション論法を使っているんだ!とかそういう泥沼の戦いはどうぞ好きにやってもらいたい。そういう地獄のような殴り合いが見たいんだ僕は。
エヴァに逢うては原作の物語とは無関係にイラストや設定を消費し、ノベルゲームに逢うては類型的で抽象的な物語を消費するという、すべての要件に見事合致する極少数の奇特な人がデータベース消費理論の適用対象であり、その対象を書籍内の独自用法としてオタクと定義すれば、少なくとも表面上の無矛盾性は担保されます。なにしろ世界は広いので、すべての要件を満たす人もどこかには存在するでしょう。
以上のことからデータベース消費理論は無矛盾であり、限定的に現実に妥当する理論であるということが分かって頂けたかと思います。
でっていう。
そんなポストモダン・ジャパンの行方なんかよりも浅田彰に学ぶ10オンスグローブ級の美しい日本語表現
本物川こと大澤めぐみがお送りしております、大反響のふわふわアート怪文書ブログ。どれぐらい大反響かと言いますと、実兄から感想もなにもない「読んだよ」というただ読んだ旨だけを伝えるメールが届くくらいに前代未聞の大反響っぷりで今後のブログ運営が危ぶまれるところでもありますが、明鏡止水の如き不退転の覚悟で淡々と進行していきたいと思います。
以前のエントリで取り上げた浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」、黒瀬くんのターンを受けての浅田さんの再応答となる第三ラウンドが公開されました。
浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第3ラウンド]1
とても美しい日本語で記述されていて、いろいろな学びがある内容となっています。
>矢代幸雄の「前面性」という概念を借りて、仏像などを含む日本の宗教美術を特徴づけるというのは、やや大雑把に過ぎるとはいえ、ある程度まで納得できる見方だと思います。ただ、僕の疑問は、「日本の仏像や神像について、おおむね正面性が強いということは言えるとしても、『二次元的である』とまで言い切れるか、あるいはまた、キャラクターは二次元でなければいけない、言い換えれば三次元的なキャラクターはキャラクターたり得ない、と言い切れるか」というものでした。黒瀬さんの返答を踏まえてもなお、この疑問は残ります。
とても美しい日本語表現ですね。普段の僕の口調だと、「ああ、まぁそれが正しいかどうかは別として、君が言いたいことは分かったけど、それ全然僕の質問の答えにはなってないよね?質問の意味が理解できなかった?もう一回言おうか?」みたいな感じになると思います。要するに「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」です。同じことを言うにしても表現を工夫するだけでここまで美しくなるものかとハッとさせられると共に、日本語という言語が持つ詩的ポテンシャルの高さを改めて認識しました。オブラートどころか言葉の拳を10オンスグローブで包むが如しです。一般に、ボクシンググローブというのは拳の保護を目的として使われているようですが、グローブが大きくなればなるほど打撃が即KOに結びつかず、選手がファイティングポーズを取り続ける限りは試合は続行されるため加撃され続けることとなり却って危険性を高める、という議論もあるようです。僕としましては黒瀬さんには是非とも固い決意で何度でも立ち上がりファイティングポーズを取ってもらいたいと、こう思う次第であります。
>アニミズムや多神教の世界、とくに日本では、現世と来世、俗なる空間と聖なる空間は連続しており、ひとつの絵画空間の中にあっけらかんと共存し得る、という見方は、やはり大雑把すぎるものの、比較文化論的な第一次近似としては理解できます。(中略)ただ、僕が問題にしていたのは、久松知子の《日本の美術を埋葬する》を、生者と死者が共存するプレモダンな日本的空間と称するものに回収する見方が、本当に適切なのか、ということでした。
はい、とても美しい「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」パンチのコンビネーションですね。黒瀬くんが繰り出すトリッキーで小刻みなパンチをその場から一歩も動くことなく全て避け(それを避けると呼ぶかという議論はまた別にあり得ましょうが)何度でも同じところに同じパンチを打ち込むだけという愚直とも思える挙動。まさに学長の風格。これも普段の僕の口調にすると「うん、まぁそれが合ってるかどうかっていうと微妙な感じはするけど、とりあえずお前が言いたいことは分かった。でもそれ俺の質問に対する答えになってないよね?ひょっとして全然意味分かってない?もう一回言おうか?」みたいな感じになるでしょう。
以上です。
はい。実は今回の浅田彰さんの応答、挨拶や相槌に相当する部分を除くと、実質的に前回の黒瀬くんのエントリに対応しているのはこの部分だけになります。黒瀬くんの7000文字を超えるエントリに対して、実質「でも俺そんなこと聞いてるわけじゃないんだよね」と言っているだけなんですね。黒瀬さん、浅田さんの疑義を全てスルーしてひたすら全然関係ない話をしていただけなので、当然と言えば当然なのですが。
>黒瀬さんの『Little Akihabara Market』展のテクストが単なる思い付きではなく、それなりに広く深い思考に裏打ちされていることがあらためてよくわかったし、そのことが多くの読者に伝わるとすれば、この意見交換には十分な意味があったと言うべきでしょう。
目の前に相手が居るのにリングの上でシャドーボクシングに興じる黒瀬さんの挙動に対しても、黒瀬さんのシャドーボクシングスキルを観衆に知らしめるという価値まで否定し切ることは難しいでしょう。何度直撃を食らって血まみれで昏倒しようとも、何度でも立ち上がり飽くまでシャドーボクシングに徹する姿勢には鬼気迫るものがあり、ここは僕も完全に浅田さんの言に首肯せざるを得ません。心の奥底からじんわりと暖まるような実に美しい日本語表現で学ぶところが多いですね。
さて、前回の黒瀬くんのエントリに対する応答は「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」パンチ一本で粉砕した浅田さんですが、流石にそれだけでは間が持たないと判断したのか、後半ではさらに別の追撃を仕掛けていきます。ゲンロン通信という東浩紀の友の会の会報に掲載された、黒瀬さんの「『当事者性』の美学」というテキストに対する言及で、残念ながら僕は元のテキストを持っていないので浅田さんの引用からその内容を伺い知ることしかできないのですが。
!!!!直接の被災者ではないカオス*ラウンジ」は「自らの炎上の『当事者性』を介することで震災について考えた!!!!
すごいですね。
知っている人は知っている、知らない人は覚えてね、ただのゆるふわアート学生のオフ会みたいなものに過ぎなかった黒瀬さん率いるカオスラウンジは、梅沢和木さんのキメこな丸パクリ騒動で大炎上し一躍有名になったわけですが、その炎上の経緯っていうのは「パクったら怒られたから逆ギレしたら大炎上して、結果的に他の悪さも芋づる式に出てきてさらに延焼」っていう、ほとんど「万引きを自分からツイッターで自慢してたら怒られたから逆ギレしたら大炎上した」っていうような、いわゆるバカッター丸出しのテンプレパターン自業自得因果応報諸以外のなんとも言いようがないようなものです。未曾有の天災である東日本大震災の被災者に対して「俺たちも被災者の気持ちはよく分かるよ。ネットで炎上したことあるからね」って言っているわけで、そりゃあ普通に「は?」ってなるだろうという話です。
>「当事者性」を本気で重視するのなら、東日本大震災とカオス*ラウンジの「炎上」を、またそれぞれの「当事者性」を重ねるとか、「原発麻雀」をプレイすることで東京電力の「当事者性」を身に帯びるとかいうのは、いくらなんでも軽率に過ぎるのではないでしょうか
「は?」の一言で済む話をここまで美しい日本語表現にしてしまう浅田さんの変幻自在のゲンロンボクシングスキルは流石と言わざるを得ません。僕もスラスラとこんな美しい日本語を話せるように日々精進していきたいと決意を新たにしたところであります。
文化庁の原則をもねじ曲げる強いあの手この手によって収束させられる助成金をそれでもなお確保しようとするならば激おこ高裁判決文のような力を想定するよりも風にそよぐ天然パーマ
東京都の演劇を主とした国際芸術祭、フェスティバル・トーキョー14 (以後F/T14) のコンセプト文がふわふわ過ぎると僕のTLで局所的に話題になっています。
!!!!光をもねじ曲げる強い磁場によって収束させられる多様性をそれでもなお確保しようとするならば、その磁場をも破壊するブラックホールのような力を想定するよりも風にそよぐ葦のような柔構造を思い描いてみたい!!!!
はい、のっけから飛ばしていますね。光をもねじ曲げる強い磁場、すごく強そうです。相対性理論のミクロな世界にまで行くと磁場が中性子に影響を与えるとか与えないとかなので、第五の力だよ!よりは相対的な妥当性をそこはかとなく感じなくもなかったりもするかもしれませんが、なにしろ強そうなので意気込みは十分に伝わってきます。きっと面接試験とかではこういうのが重要なファクタなのでしょう。本当に「有望な新卒なんてどこからも採用することはできない」と諦めかけたときにこそ、「御社にはわたしのような人材が必要なのではないか」という地の底からのうなり声が聞こえるはずであると言いたい。
固有名詞を避けてはいますが、明らかに美味しんぼの件を指示して、風評被害という名の同調圧力により表現が敗北し真実は隠されてしまったみたいな周回遅れの知見を示すだけならばともかく、その後漫画は敗北したけどアートがまだ存在している!!!!というナチュラルなアート大上段ポーズがいかにもアートミンっぽくてとてもふわふわアート怪文書です。筆者の市村作知雄さんという方、いったいどういう方かというと、2006年4月に横浜大倉山記念館の館長として業務開始すると同時に背任行為で横浜市から公金を詐取し、2009年には横浜地裁で異例の付言を加えた有罪判決を受け実質の館長職解任命令を下されるも判決文の解釈の問題として従わず居座るなど、まぁ色々と折り紙つきの方でうん……って感じではあります。おかげさまで昭和59年以来大倉山記念館を拠点に26年間にわたり若手音楽家に演奏の機会を提供してきた水曜コンサートは指定管理者の任期終了と時を同じくしてその歴史に幕を閉じることとなりました。
だから今こそ、「東京高裁の判決文の力」が必要とされている。
このふわふわアート怪文書に対して、世のあらゆるふわふわアート怪文書を問答無用で「ヤバイ!」「アツイ!」「間違いない!」と圧倒的語彙感で褒め称えるアクロバットを本職としている方たちから今回は何故か嘲笑の声が上がっています。
こんな文章が東京を代表する芸術祭の宣言なら、ぼくはもう行政に関わらなくていいや。意味不明。RT @liang_da 酔っぱらいの書いたような文章だし…。RT @rewktk フェスティバル/トーキョー14のコンセプトが理解できない http://t.co/WKKa60DsXf
— 東浩紀 hiroki azuma (@hazuma) 2014, 7月 16
市村さんは思想を掲げて人をひっぱっていくようなタイプの方ではなく、裏方でプロジェクトを支えるプロフェッショナル。ぼくもFTに参加した時にお世話になったから、こういう風な市村さんの文章を見るのはつらい。
— 黒瀬陽平 (@kaichoo) 2014, 7月 17
偽札アートでおなじみの黒瀬くん率いるカオスラウンジはF/T11への参加経験もあり、ずいぶんなゴロニャン具合だったのにえらい手のひらクルーするなぁと思ったら、3年につき1回分しか助成金を支出しないという文化庁の枠組みをも掻い潜り、ある時はフェスティバルの名前を変えて連続申請したり、あの手この手を使って助成金をゲットしてきては気前よく寄生させてくれるF/T13までの総合ディレクター相馬千秋さんが謎の解任をされて以降初の、新体制でのF/Tになるわけですね。寄生先にうま味がなくなったら律儀に砂を掛けてからすっぱい葡萄をするゲンロンケンポーの正しい作法はつつがなく継承されているようです。
さて、ふわふわアート怪文書の常であるように、今回のこれもまたずいぶんと目が滑る文章でとても目が滑るので目が滑って論旨を掴みづらいのですが、というかコンセプトという表題がついた文章でいまいちなにがコンセプトなのか見えてこないというのはもうその時点で問題であろうとは思うのですが、僕とてエミュとはいえふわふわアートポエマーの端くれ、頑張ってツルツルと文章を解釈してみたところ、結論に相当しそうな部分はこれは確かに黒瀬くんたちは気に入らないかもしれないなぁという感じではありました。
以下、ふわふわアートコンセプトを平叙文に翻訳した大まかな概要です。
<収束する多様性>
・真実は多様性の担保によってしか存在できない。故に、表現の多様性は守られなければならない。
・そこにはアートの力が必要!(謎
・そのためにF/Tは保守的でない、より良い組織を目指す!
・周囲と自らの立ち位置を自覚することだけが、今の時代を照らす光となる
<多様性と少数者>
・現代アートは多様性によって担保されている。
・多様性の担保は平和を齎す
・奇抜なだけでは、現代社会ではありふれたものの一つでしかなく、アートとは言えなくなって来た
・多様性が担保された現代では、アーティストは社会のインサイダーとして成立することが必要
・現代アートが、単に奇抜なものとして埋もれていくか、社会のインサイダーにあっても成立し新しいアーティスト像へ変遷していくか、これから見定めることになる
この文章の中でF/T14のコンセプトに相当するのは「多様性が認められる現代社会においては社会のアウトサイダーとして奇抜であろうとするだけでは結局は多様性の一部に過ぎずアーティストとは呼べない。社会のインサイダーにあっても成立する新しいアーティスト像へ変遷していく必要がある」という部分であろうかと推察されます。反体制反権力ぶって、頑張って奇抜であろう個性的であろうと頑張った結果、みんな似たり寄ったりの無個性なグズグズメンヘラアートに帰着する現状を批判するとともに、F/T13までの方針から刷新し、質実剛健な新生F/T14を宣言しているものと解釈できますね。参加アーティストとして助成金アートに寄生することを許されないばかりか安直な反体制主義を痛烈に批判されたとあってはそれは黒瀬くん、面白くないでしょう。
ではここでF/T13以前の参加アーティストたちの輝かしい軌跡を振り返ってみましょう。
バナナ学園純情乙女組:公演中に役者が観客の女性相手に強制わいせつ
カオスラウンジ:F/T11において届出なしでキャバクラの模擬店
PortB:三日三晩色んなところでお茶飲んでウロウロして喋るだけの演劇
なんというか、もう完全に社会に反抗してさえいれば一端のアーティストって感じの安直な強い磁場しか感じ取れませんし、国際的な舞台芸術フェスティバル、と銘打つには?となるような演目が目白押しですが、俺が演劇と言ったら全ては演劇なのだてきに演劇の定義を拡張しまくった現代演劇という概念を便利に使って公金でやりたいことをやりたいようにやっているだけとしか思えないのはきっと僕が芸術を解さないつまらない凡人だからでしょう。とはいえ、新体制となったF/T14がそういった相馬千秋さんが率いたグズグズの過去と決別し、社会のインサイダーにあっても成立する新しいアーティスト像を求めるのもむべなるかなというものです。ちなみに前総合プロデューサーの相馬千秋さんが現在どういったプロジェクトに関わっているかといいますと、一週間みんなでお泊り会して2か月後にポエムの発表会するだけっぽいような、なんだかよく分からないことを相も変わらずやっているようで、このへんの一挙一動も風にそよぐ天然パーマのような粘着構造を思い描きねっとりとヲチしていきたい。
地元のNPOが地道に育ててきた水曜コンサートという場を散々ひっかきまわし、東京高裁敗訴サイバンカンリニンサン激おこ判決文までいったアートネットワークジャパンと市村作知雄さんを相も変わらず重用しているあたりは非常に気になって気になるポイントではありますが、体制を刷新して挑む新生FF14、この現在に新しいアーティスト像を描くことにエネルギーを注ぐか、また着任と同時に即背任行為で公金を不正取得する流れの方が速いか、ここしばらくは楽しみながら眺めていたいような気分であると共に、ともあれカルタゴは滅ぼされるべきだと考えます。
謝辞
相も変わらずなクソエントリをこんなところまで読み進めてくれた読者諸兄とはよりよい関係が築けていると思っている。きっと相思相愛であるに違いない。
通称なし子さんの果てしなき自分改造計画とかよりもほろ苦い青春の1ページ的ノスタルジィと今さら蒸し返す伝説のあーちゃん(仮称)まんこくさい事件
ここ数日、3Dプリンターで自らの女性器を造形できるデータを頒布したとして、わいせつ電磁的記録頒布の容疑で東京都在住の五十嵐恵(通称ろくでなし子)さんが逮捕された件で、各方面から名立たるクソコテがここぞとばかりに大集結しスーパークソコテ大戦の様相を呈していて、僕のTLはまんこまんこで溢れ返っております。
本件に関しては各界から名立たるクソコテが当の通称なし子さんすらを置き去りにして猥褻だ否芸術だまんこはいいけどロリはダメとは何事だと、血で血を洗うスーパーまんこ戦争を繰り広げているので今さらそこに参戦するなんていうのはちょっとご遠慮させて頂きたい感ありあり系。なので僕はスーパークソコテ大戦に置いてけぼり食らってる通称なし子さんの主張そのもののほうにフォーカスを合わせてみようかなぁなんて思ったりした次第。ていうか、血で血を洗うスーパーまんこ戦争ってちょっと表現としてリアルすぎてさすがになんかヤですね。
さて、本来の話題の中心であるはずの通称まん子さんですが、自分のまんこの形が変なんじゃないかっていう悩みを拗らせすぎて、病院に相談に行ったうえ、実際に整形手術をしたそうです(うろ覚え)。このことがキッカケで「自分が自分のまんこの形が変なんじゃないかって思い詰めたのは、他人のまんこの形を見る機会がなかったせいだ!誰も教えてくれないから正常な形とか知らなかったもの!みんなもっとオープンにまんこを見せ合おう!」みたいな主義主張を持ち始めたようなのですが、待って。
そのエピソード、童貞が童貞過ぎて初見でアナルセックスしそうになったり、思春期に乳首がパンパンに張って「俺はこのまま女の子になってしまうんじゃないだろうか……?」っていう不安を拗らせて病院で見てもらい「それはチクツーです。男の子はわりとなります」って言われて300円払って帰ってくるみたいな類の、わりと誰にでもあるほろ苦い青春の1ページ的ノスタルジィですよね?
思い詰める前にヤホー知恵袋あたりで「乳首がパンパンに張ってしまったのですが女の子になってしまうんでしょうか?」って質問すれば即刻ベストアンサーしてもらえますし、「乳首 痛い」で検索するだけでもだいたい分かるでしょう。「わたしのまんこの形はおかしいのでしょうか?」も質問さえすれば「個体差があるので気にしなくていいです」てきなベストアンサーが即刻ついたものと思います。「まんこが神格化されていたり猥褻物と扱われていることが性教育を阻害している!」という主張はちょっとスーパージャンプ感が否めませんし、冒頭でも申し上げました通り、もう僕のTLはここ数日まんこまんこで賑わっておりますから、今の日本社会は抑圧されていてまんこについてオープンに語り合えない!っていうのはもう杞憂だと反証されちゃっているように感じます。むしろもうしばらくまんこの話題はいいよ。
要するに処女を拗らせすぎて変な勘違いした人が、拗らせ処女から一転、今度は逆方向に全振りして、もっとサバサバと下ネタも言えるような芸風に自分改造しよう!みたいな計画に、「みんなももっとオープンにまんこについて語ろう!」って周囲を巻き込んでいるだけなんじゃないかと思います。心配しなくてもサバサバ下ネタ言いたい人は元からそういう芸風でやってますし、奥ゆかしい感じで自分をプロデュースしたい人はそんな気楽にまんこまんこ言いません。あなたがこうあるべし!なんて張り切らなくても、ちゃんとみんななりたい自分になっているのではないでしょうか。
ところで僕の地元には伝説として語り継がれているあーちゃん(仮称:現在23歳)まんこくさい事件というのがあるのですが、当時18歳だったネアカで下ネタもサバサバ言えちゃう系のあーちゃん(仮称)が、柄にもなく随分と深刻な顔で「ねぇちょっとお願いしたいことがあるんだけど」と僕たちに相談してきたところから始まります。
「あのさ、わたしまんこ超くさいんだけど」
「は?」
「ここ数日まんこがくさいの」
「はぁ」
「ねぇ、ちょっと嗅いでみてくれない?」
「は!?」
「たぶんくさいと思うんだけど自分じゃ分からないから嗅いでみて」
「ヤだよ!くさいんでしょ!?」
「だからくさいと思うんだけどくさいかくさくないか分からないから嗅いでみてって!」
「ヤだよ!たとえくさくなかったとしても嗅ぎたくないよ!」
「後生だから!後生だから!!」
そんなやりとりが派手にあったのち、とある子が「じゃあわたし嗅いでみてもいいよ」という話になって、あーちゃん(仮称)とその子がちょっと裏に。
「おぅえええええ!!!」
「そんなに!?そんなにくさい!?!?」
「くさい!超くさい!!」
「病気!?病気かな!?」
「わかんないけど絶対に正常じゃない!!!!!」
そこまでリアクションされるとやおら気になり始めるその他大勢。ああ抗いがたし怖いもの見たさ。結局みんな順繰りにあーちゃん(仮称)のまんこの匂いを嗅ぐ流れに。
「くさい!」
「超くさい!!!!」
「ていうかもうこの距離感であり得ない!くさい!!!!!」
と、とりあえず満場一致であーちゃん(仮称)のまんこはくさいという合意が取れ、これはもう病院に行くしかないということにはなったのですが、なにしろこの大騒ぎですので、すでにあーちゃん(仮称)のまんこがくさいという事実は千里を走り、もはや知らぬ人は居ない状態です。
さて、その後まんこがくさいあーちゃん(仮称)は思い詰めた顔で婦人科に行き、問診票に「まんこくさい」と書いて診察室へ。例のオートまんぐり返し台に乗せられて御開帳されたまんこに先生がズボっと手を突っ込むと中から赤黒くて超くさい謎の巨大な物体が!!!!!ギャーッ!っとなったあーちゃん(仮称)、命に関わる深刻な病魔が知らぬ間にまんこの中で成長していたのかと焦ります!
「先生!これは一体……!?」
「これね、タンポン」
「……は?」
「タンポン」
「タンポン……?」
「タンポン。入れたまんま忘れてたでしょ」
そう、あーちゃん(仮称)はすでにタンポンを入れていることをすっかり忘れて、その上からさらにもう一本タンポンを入れてしまったために、一本目が奥まで入って抜けなくなって、それが腐って異臭を放っていたのでした。すでにまんこくさいで大騒ぎしてしまったあーちゃん(仮称)、もちろんみんなにこの結果を報告しないわけにはいきません。これが後々にまで語り継がれる伝説となったあーちゃん(仮称)まんこくさい事件のあらましです。
まんこくさい事件で伝説となったあーちゃん(仮称)その後も地元のメンバーで集まるとことあるごとにその事で弄られ、成人式の二次会でさらに爆発的に伝説が広まったわけですが、まんこくさいで散々弄られた結果、少々のことでは動じないタフネスを身に着けたあーちゃん(仮称)、今では都内でスーツ着てバリバリ仕事をしています。
「だから若いときには恥をかいておくものなんだよ」
とはあーちゃん(仮称)の言ですが、それはそれでまた納得のいかない結論ではある。
いかにして黒瀬陽平のテキストが学術的価値を認められうるかについて真摯に耳を傾ける向かって左30度
浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第2ラウンド]2
このエントリーは黒瀬陽平さんによる上記のエントリーにインスパイアされマスターピースをアプロプリエーションしてシミレーショニズム的手法で真摯に取り組むべく忸怩たる思いではてなブログに登録をした次第の本物川こと大澤めぐみがお届けしております。初エントリども……
件のエントリーでありますが、久松作品の読解をきっかけに、リアリズムから一足飛びにプレモダンへ移行しようとする黒瀬陽平のクールベ解釈に対して「有名人群像であれば《オルナンの埋葬》よりも《画家のアトリエ》が重要だろう」という浅田の指摘について黒瀬陽平は理解している旨から始まるわけですが、この点についてまず耳を傾ける必要があるでしょう。しかしながら言うまでもなく、人間の耳は犬猫などとは違い独立して稼働するような構造をしておりませんので、耳を傾けるためには首から上の頭部全体を傾けるしかなく、これは様態としては要するに首を傾げていることになるわけですが、とはいえ、向かって左方向30度程度の傾斜にはなんらかの意図を読み取らずにはいられないのが人間の本性というものです。そんな話だっただろうかと思われる向きもあるかもしれませんが、そう言いたいのはむしろ僕のほうだと声を大にして主張するまでは行かなくとも舌打ちしてボソッと呟く程度にはささやかな抵抗を試みてみる所存で望むべきだと考えます。
さて、非常に目が滑る、つまり文章と視線との摩擦係数が極めて小さい黒瀬陽平のエントリーですが、冒頭を要約すると
「死と再生のテーマの是非で食い違ったのは、浅田と黒瀬の死生観が食い違っているから」
「西洋の死生観はプロテスタント以降、復活が特異なものである。一方日本の死生観にはそれは無い。」
「浅田の解釈は正当クールベ解釈的には正しいが、久松がわざわざそんな時代遅れのことするわけもないので、正当クールベ解釈に基づく批判は生産的じゃない。黒瀬の言う死生観に基づいて考察するほうが生産的だ」
といったようなものであろうと解釈しました。しかしながら、なにしろ僕の視線もカーリングストーンのように軽やかに滑って行きましたので解釈の妥当性については定かではありません。とはいえ、そこまで大きく的を外してもいないのではないかという自己評価にはある程度の妥当性が存在するものと願ってやまない今日この頃、止まない雨はない、みたいなありきたりな慰めの言葉をかけられても、今降っている雨こそが問題なのでそんな問題ではないと積極的に煽っていきましょう。そもそもその読解が誤解であるという指摘も真摯に受け止める覚悟ではありますが、人間どこかでは断定しないとなかなか話が前に進みませんので、ここでは仮にこの読解が真であることを前提に話を進めていきたいと思います。話が進んでいないぞという指摘に関しても謙虚に受け止めて流しつつ、まずは「西洋の死生観はプロテスタント以降、復活が特異なものである。一方日本の死生観にはそれは無い。」という前提に耳を傾けてみましょう。この場合、耳を傾けるというのはこのエントリーで独自に定義されたテクニカルタームです。
言うまでもなく、キリスト教の教義の中心概念となるのは「永遠の命」です。キリスト教を信仰することによって得られる救いとは他でもなく、死後の復活とその後の永遠の命だからです。つまりは漠然とした不安に対して安心を売っているわけで、生命保険が商材として成立するのと同じ理屈です。これこそが旧約聖書(とキリスト教徒が読んでいるもの)を聖典とするユダヤ教と、新約聖書を含む一群を聖典と定めるキリスト教の差異です。旧約聖書にはそもそも死後の世界に関する言及というのが一切存在しないので、復活がキリストの特権であるとかそんな小理屈を捏ねるまでもなく、死んだら終わり、死んだらそれまで、塵に過ぎないお前はまた塵に帰るだけ、という死生観となっています。また「プロテスタント・キリスト教以前には、様々な呪術的信仰が存在していた。そこには日本の仏教・神道的な死生観と共通するものが数多く見つかる」と言及されていることから、上記エントリーで使われている「西洋」や「キリスト教的死生観」というタームは「プロテスタント・キリスト教以降」と解釈すべきであろうと考えられますので、ここでカトリックとプロテスタントの差異についても触れておきたいと思いますが、端的に申し上げますと聖典として認める範囲が異なります。あまり一般的なタームではありませんが「アプクリファ」とか「第二旧約聖書」とか「インターテスタメント」呼ばれる一群はプロテスタントにおいては聖典として認められていません。やっかいなことに、プロテスタントはこれを聖典として認めない立場でありますから、聖典ではないということを明確に示すためにこれを「旧約外典」などと呼びますが、カトリックにおいてはなんのエクスキューズもなく普通に旧約聖書の中に含まれているのです。つまり「旧約聖書」という語を使うにしても、それがプロテスタントにおける旧約聖書であるのかカトリックにおける旧約聖書であるのかによって、その語が指示する範囲が異なっていまうわけです。したがって、この語によって担われているコンセプトの再現性、あるいは翻訳可能性についても今後は考えてゆかねばならないなどと使命感を抱いたところで、そもそもキリスト教徒が全人口の1%未満でしかない我が国においては、真紅の二次創作絵がドロワーズではなくショーツを履いていた場合などに感じる憤りと似たような種類のものであり、つまりこれは非常に由々しき問題であると認識を新たにすると共に、徹底抗戦を固く心に誓ったところであります。滅びの風よ、吹け。
もしかしたら、ここで問題にするべきは「ドロワーズとショーツ」というテーマを持ち出すことについての是非ではなく、僕とみなさんの想定している「ドロワーズとショーツ」の神話の違いについて、なのかもしれませんが、話を戻しましょう。旧約聖書の中に聖典として認められない一群がある、という話は既にしましたが、ではなぜそのようなことになったかというと、ヨーロッパで広まった聖書は主にラテン語で記述されていたわけですが、ヘブライ語から直接にドイツ語への翻訳をしたマルティン・ルターが翻訳の作業において、既に広まっているラテン語の聖書にはヘブライ語の聖書にはない箇所があることに気付いたのです。つまり、旧約聖書にはラテン語に翻訳されるあたりの段階で書き足された部分があったということです。聖書はその中で「あなた方は、わたしが命じている言葉に付け加えてはならず、それから取り去ってもならない」と規定されていますので、書き加えられた箇所は除かれなければならないと考えるのは当然の帰結と言えると思うかもしれませんが、そのことに気付いたルターが即座にそれを取り去ったかというとそういうこともなく、ただし、あちこちに分散して書き加えられていた箇所をひとまとめにして旧約聖書の末尾に置くことにしました。このルターの翻訳が広く採用されたために、書き加えられた箇所は第二旧約聖書というひとまとまりの文書として認識されるようになっていったのです。さて、果たしてこれで話は戻ったのかという一抹の不安を払しょくできない節は否定しきれないこともありませんが、ここで気になってくるのは「キリスト教的な歴史的一回性によって死生観が統合された経験を持たない日本ではどうか」という言明です。これは少し操作すると「西洋の広い地域ではキリスト教的な歴史的一回性によって死生観が統合されている」という言明となり、これが自明の前提として扱われているのですがここもまた首を傾げざるを得ません。間違えました。耳を傾けてみましょう。
黒瀬陽平的史観では「プロテスタント・キリスト教以前は日本の仏教・神道的な死生観と共通するものが数多く見つかるが、プロテスタント・キリスト教以降は生と死は明確に断絶するようになり、原則的に「死と再生」の神話は認めらなくなった」ということになっているようですが、もはや言うまでもなく、カトリックとプロテスタントの差異はそんなところにあるのではなく、前述の通り聖典と認める聖書の範囲であり、またプロテスタントという語そのものが宗教改革によってカトリックから分離した「諸宗派」を指す語であって、大きく分けるだけでも福音派とリベラルに二分することができ、プロテスタントという一大勢力が西洋世界の宗教を統一したわけでもなんでもありませんし、プロテスタント・キリスト教が西洋全体の死生観に与えた有意な影響があるわけでもなく、プロテスタント・キリスト教以降という区分で西洋世界全体を語るのであれば、それはただ「16世紀頃」という大まかな時代を指すだけのアンカーでしかありません。16世紀頃の西洋といえば、まさに近代化の起こりですね。生と死が明確に断絶するようになった、という変化の原因を求めるのであれば、そちらを採用するほうが自然な流れというものではないかと考えるわけですが、そもそも考えるという行為自体が自然な流れに刃向う行為、動物的本能に対する人間の知性による反逆なわけで、そうは言ってもやはり人間は考える葦たるべしなのだから、まあたぶん近代化が原因でしょう。
もちろん、ヨーロッパの近代化はプロテスタント革命によって強力な後押しを得たものだ、という見解には僕も首肯するものですが、僕たちの議論において重要なのは先にも述べた通り、プロテスタント・キリスト教がなにかしら死生観に関する新しい解釈を持っていた故に、16世紀以降、生者と死者の世界が断絶したのではなく、ただ近代化の結果としてそうなったのではないかということだろうと思うのです。なにしろ、僕たちの居るこの世界は現に生と死が明確に断絶しているのですから、いずれ人はその世界の真実を当然のこととして受け入れざるを得ません。貴方がどのような死生観を持とうとも貴方は死ぬし生まれ変わらないし復活もしないし地球は太陽の周囲を公転し宇宙は膨張を続けています。さあ、アセンションによってパラダイムの地平を超えるのです。
そもそもの話、16世紀以降の西洋の文化芸術において死者の復活が封じ手となっているかと言えばこれも甚だ疑問であるし、これは黒瀬陽平の言明ではなく引用された文章へのツッコミになるうえ原本を読んでいないのでアレなのですが「しかしこの点で日本の宗教の特異な点は、死者の霊魂のあの世での浄化を、生者がこの世から援助できるということであろう」なんて清々しく断言されてしまうと、パンを踏んだ娘って西洋的世界観ではかなり特殊なプロットに相当するのだろうか?聖ブランダンの航海は?ホレおばさんは?などと一瞬で様々な疑問が走馬灯のように駆け巡る悲喜こもごもの様相を呈してきたところで世俗の聖典をつらつらと読み返してたら「英雄的な行為はキリスト教神話において受難を耐え忍ぶという形を取るが、世俗文学はいかなる教義上の禁制によっても縛られないので、主人公はキリスト教の物語において対応している神的存在と同じように救い主の役割も引き受けることができる」みたいなことが書いてあるじゃありませんか。というか、そもそもの論点は生者と死者の距離感が遠いか近いかという話であって、西洋が断絶しているのはキリスト教の教義によって死者が復活できないからだ、みたいなことを言われても、キリスト教においてもキリストの特権となっているのはメシアとしての復活、つまり人間ではなく永遠に生きる存在として復活することであって、死んだ人間がそのまま生前の人間として復活する、死という病気が治る(故にその後も普通に人間として生き天寿を全うして人として死ぬ)、というレベルの復活であればそこいらの聖人でもわりと気軽に起こしていいレベルの奇跡でしかありません。それに、日本の場合はむしろ復活なんかするまでもなく死んだままで幽霊として出てくればそれで済むみたいなところがあって、むしろそれこそが「あまりにもぬけぬけと繋がった生と死の空間」と評される様態なのではないかという気がしてきたりもしました。お彼岸にご先祖様は生き返って生者として帰ってくるのではなく、死んだままでざっくばらんにフラッと返ってきますし、生者と死者の距離が近い世界観ではそもそも復活する必要もないわけで、宗教の教義によって復活できない縛りがたとえ事実であったとしても、それは生者と死者の距離感とは無関係のファクターではないかと彼岸への想いを馳せたところで話は振り出しに戻りこそすれ、一歩も進んでいないのではないかという指摘も真摯に受け止めるとは言ったものの、受け止めたからといって改善するとは限らない、むしろ受け止めるところまでは頑張ったのだからもうそれで勘弁してくれ、改善策とか再発防止策など知ったことか、というのが「真摯に受け止める」という語の実際の運用のされ方であろうかと思います。
そういえばこれは、黒瀬陽平のエントリーについての話でした。後半の要約としては
「矢代に拠れば日本の仏像は前面性芸術である」
「矢代の見解を鵜呑みにするのは危険だが、前面性、平面性が日本の神仏の世界と紐つけられているということは言える」
といった感じではないかと視線で華麗な四輪ドリフトを決めつつコーナリング出口では速やかにトップスピードに乗りざっくりと解釈したわけですが、長々と日本美術の前面性について語っていたはずなのに、最後に唐突になんの論証も挟まず、前面性と平面性がイコールで結ばれていて、前面性と平面性というのは「すなわち」の一語ですんなりとイコールで結んでしまっていい概念であろうかと疑問を呈すれば13人の怒れるドイツ人がビールジョッキ片手にハラショーと開廷しそうな気配がなきにしもあらず、心ここにあらずんば虎児を得ず。そもそも虎児なんて得たところでなんに使うんでしょうか。飼うのか?
また曼荼羅に代表される神仏の世界は二次元的に把握される世界観である、といったような言明も見受けられるのですが、曼荼羅が二次元的に把握される世界観というのは、数式は全て奥行のないテキストでシーケンシャルに記述されているのだから二次元的に把握される世界観だと言っているようなものではないかという気がするのです。曼荼羅を定義するのは、複数の要素がある法則に依って配置されている、という部分なので、ただ画面を画面として視覚的に捉えるものではなく、数式のように脳内でレンダリングされることを前提とした記述ですし、レンダリングされたそれは大抵は三次元以上の構成になっています。法曼荼羅などはその側面をさらに先鋭化させたもので、これはもはや絵画というよりは魔方陣のように、ある種の式として読み解く前提のものと言ってしまって構わないでしょう。
以上のような言説を踏まえると、僕は曼荼羅の専門家ではないから適当なことをフカしておいていやそれは違うみたいなことを誰かに突っ込まれてもむろんリプライ&ブロックアウェイする所存ではありますが、とはいえ、前面性、あるいは黒瀬陽平の中では自明の前提としてそれとイコールで結ばれる平面性や二次元性を論じるにあたって、よりにもよって曼荼羅をその代表格として引いてくるのは隙が多いのではないか、ということは言えるのではないでしょうか。
さて、ここまでずっと黒瀬陽平のエントリーを受けてなんとなく思いついたことを適当に書き連ねることで字数を稼ぐという手法を実践してきてみていたのですが、こんなしょうもないクソエントリーを頑張ってここまで読んでくれた酔狂な読者の方でも、もういい加減に最初がそもそもが何の話であったのかお忘れのことかと思います。つまりはこれこそが黒瀬陽平の手口であって、そもそも何の話なのかよく分からないのだから批判しようにも批判のしようがないという、弱肉強食のゲンロン界で生き抜くために、強者に取って喰われることがないよう牙を研ぎ強くなるという指向性ではなく、肉がマズければ喰われないといった方向性での生存戦略なのではないかと推測します。しかしながら、話がつぎつぎと逸れていき、的外れなところで興奮し、自身の認識内で並列すると無根拠にイコールで結ばれ、勘違いを前提に話を進め、そもそもの本題がなんであったのかを忘れてしまう、というか本題なんか最初からない、ただ連想を積み重ねているだけ、という生成りの人間の思考回路の様態をテキストという汎用性の高いメディアで観測することが可能である、という点においては学術的価値も認められる可能性がなにげにあったりなかったりするかもしれません。どっとはらい。