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ゼロアカ流無敵インターネットバリトゥーダーと概念的ギリ10万歳のツイッター時間からの乖離。あるいはエンドレスブロック崩し

 

 

 もとはと言えばこのちょっと間合いを間違えましたねすいませんでしたで済むような軽い失言から始まったゼロアカ流無敵インターネットバリトゥードおじさんの俺TUEEE節に愛想よくお付き合いをしておりましたら最終的に何故だか僕が「社会批評には根拠と客観性と論理的整合性が求められる」を論証するという流れになりました。詳しい経緯を知りたいという奇矯なかたはこちらのツゲッターをご確認下さい。無敵おじさんが駄々を捏ねているだけなので特に面白くはないです。

 

 

 

 

 はい、大人げないですね。

 僕の「批評家であるならば主観や自身の感性のみに依拠した言明ではなく客観的で根拠のある論理的な言明を心がけては(大意)」というような要請に対する応答ですが、それに対して「馬鹿って言うほうが馬鹿なんです~~」レベルの表層的な脊髄反射で「じゃあその根拠は????」ってやってる感がアリアリですごい馬鹿っぽいです。全ての論理はその根拠は?その根拠は?と問いを掘り下げていくと無限後退か無根拠のドグマか循環定義に陥るように原理的になっています。これをナントカのトリレンマとか言います。「じゃあその根拠は????」って馬鹿みたいに繰り返して最終的にたどり着いた地点で「はい根拠なし!根拠ないですよソレ!根拠のないことを言わないで下さい~~~~!!!!」って言って勝利宣言するのは原理的にどんなクソバカにでも脊髄反射だけで必ず達成できる無敵バリトゥード術なんですね。脊髄反射クソバカの称号と引き換えに手にできるヘンテコなHNの概念アカウントとの論争における勝利になんの意味があるのかはさっぱり分かりませんがきっと馬鹿には馬鹿なりの価値観があるのでしょう。

 実際のところ僕が要請する「知の営みに参画するものであるならば、客観的で根拠のある論理的な言明を心がけるべきである」というのは「知の営みに参画するもの」が共通して了解しているだけのドグマに過ぎないので根拠を求めることはできません。であるからこそ「知の営みに参画するものであるならば」という前提条件が付帯するわけです。サッカーをやりたいならサッカーのルールに従うべきだというだけの話で別にラグビーをやるなという話ではありません。しかし、サッカーのプレイ中に突然ボールを抱えて走り出したらまあだいたいは反則を取られるでしょう。プレイする前に「俺はボールを抱えて走り出しても良いというルールでサッカーをしたい」という要請をしてみるのはアリと言えばアリかもしれません。それをサッカーと呼ぶかは別として。

 

 If you tried to doubt everything you would not get as far as doubting anything. The game of doubting itself presupposes certainty. Ludwig Wittgenstein / On Certainty #115.

  

 全てを疑おうとするものは疑うところまで行き着くこともできない。疑いのゲームはそれ自身が確実性を前提としている。

 

 「なぜ知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならないのか」これは疑いであり探究です。それも「知的営みに参画するもの」が無根拠に乗っかっている足場に対する疑義なわけです。しかし、疑うというのはただただ「なぜ?」「なぜ?」と疑問符をつければそれで済むというものではありません。やみくもにハンマーを振り回して壁と言わず床と言わず全てを破壊し尽してしまえば足場を失った自分自身は自由落下していくだけです。通常、一部の尊師を除いて人間は空中浮遊できません。じゃあどこかの誰かが勝手に決めた無根拠の足場に無抵抗に乗っかるしかないのかというと別にそんなことは全然なくてひょいと隣の足場に自分が移動すれば元居た足場を壊すことも普通にできます。

 

That is to say, the questions that we raise and our doubts depend on the fact that some propositions are exempt from doubt, are as it were like hinges on which those turn.

That is to say, it belongs to the logic of our scientific investigations that certain things are in deed not doubted.

But it isn't that the situation is like this: We just can't investigate everything, and for that reason we are forced to rest content with assumption. If I want the door to turn, the hinges must stay put.  Ludwig Wittgenstein / On Certainty #341 #342 #343 

 

 わたしたちが問い、疑うには、ある命題が疑いを免れ、問いや疑いを動かす蝶番の役割をしていなければならない。

 つまり、確実なものとは科学的探究の論理において事実上疑われないもののことである。

 しかしそれは、私たちは全てを探究することができないのでたんに仮定するだけで満足すべきだ、ということではない。扉を開けたければ蝶番は固定されていなければならない。

 

 ウィトゲンシュタインは蝶番という比喩を用いていますが、僕個人としてはこれを畳返しと理解するのをオススメしています。ビッチリ畳の敷き詰められた8畳間。自分が乗っている畳はなにしろ自分が乗っているのでひっくり返すことが出来ません。これで「うわーこんなん畳全部返せなんて無理やわー無理ゲーやわーだって自分の乗ってる畳はひっくり返されへんもん~~」ってギブアップしちゃう人は有体に言ってちょっと馬鹿でしょう。普通にまず自分の乗っていない畳を返して、それからそっちの畳に移動して今まで乗っていた畳をひっくり返せばいいだけです。「すべてを同時に疑うことはできないが、すべてのもののうち任意のものはなんでも疑うことができる」ということです。畳に寝転がったまま「なんで?なんで?」ってブーたれてないでまずは起き上がって自分の身体を動かして自分で畳をひっくり返すべきでしょう。要するに疑うなと言っているのではなく疑いたいならズボラをせずに自分で疑えと言いたいだけだと言いたい。疑うというのは、疑うという論理的行為、疑うという実践であって……そう、ちょっと笑っちゃうけど、論理とは何かと疑うという論理的行為というのもあるんですよ。なんでだろうね~~って言いながら畳の上でゴロゴロしているだけならそれは疑いという名のただの自堕落です。いいから働きなさい精神的クソニート。

 

 We are quite sure of it' does not mean just that every single person is certain of it, but that we belong to a community which is bound together by science and education. Ludwig Wittgenstein / On Certainty #298

 

 わたしたちにとって絶対に確かであるとは、ひとりひとりがそれを確信するということだけでなく、科学と教育によって結ばれたひとつの共同体にわたしたちが属しているということだ。

 

 先述の通り「知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの「知的営みに参画するもの」の共同体において了解されている暗黙のルールに過ぎず、そこに根拠を求めることはできません。「客観的で根拠のある論理的な言明をする人」が一般に知的であると了承されているというだけのことです。なので「俺は客観的で根拠のある論理的な言明などしない!」も別にそれはそれで勝手にしてくれればいいのですが、たぶん知的な人であるとは思ってもらえないのではないかと推測します。もちろん、他人から知的であると思ってもらえなくても知的コミュニティからパージされてもそれですぐに死ぬなんてことはありませんしなんぞかんぞお金を稼ぐ手段というのもありますし悪そうなヤツはだいたい友達で大親友の彼女のツレのパスタがうまくて握りしめたこの絆がロックプライドてきライジングサンなサムシングで仲間たち親たちファンたちに感謝しながら進むこの荒れたオフロードをタフに生き抜いていくのもなかなか悪くはないとは思います。各自気持ちでやっていきましょう。

 

ここまでの要旨

知的言明には根拠と客観性と論理性が求められるということを「絶対的に」「普遍的に」真であると論証することは原理的にできない。

根拠と客観性と論理性のある言明のことを知的と呼ぶのであって循環定義になる。

故に言明に「根拠と客観性と論理性」を求めるには「知的営みに参画するものであるならば」という付帯条件がつく。

知のルールという枠組みの内部に居る限りは「それがルールだから」としか言いようがないけれど、知のルールという枠組みの外からなら「根拠と客観性と論理性が求められるかどうか」を検証することはできる。

 

なので次に知のルールとは別の枠組みで「根拠と客観性と論理性が求められる」の妥当性を検証していきます。

 

 

 

 はいはい、少し話が変わりましたね。繰り返しますが「知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの知のコミュニティの暗黙の了解であってそこに根拠はありません。そして、知のコミュニティという枠組みに乗りながらその蝶番を疑うことはできませんが、別の枠組みに移動すれば蝶番を破壊することもできます。つまり、このケースでは知という枠組みから政治力という枠組みに移動することで知の基本ルールに疑問を投げかけようというわけですね。めっちゃひらたくに言いかえますと「世の中理屈じゃねぇんだよオォン!?!?」ということで、はい非常にありきたりなライジングサンなエグザイル節でなかなか気持ちが出ています。例えば僕のような世間知らずの論理馬鹿タイプなどは社会に出てソッコーでまず一度はこの手の壁に頭を打ち付ける羽目になるものなので、藤田さんもきっとなにかその種の嫌なことがあったのでしょう。

 つまり、正しいことを正しいと論理立てて主張するだけで他人を動かせると思っている、という類の勘違いです。ましてや「世の中を正しくしていこう」という欲望のために行動しようとするならば、前提は当然「現状の世の中は正しくない」状態なわけで、正しくない世の中で正しいことを正しいと言い張るだけでは如何ともしがたいのは当然のことなわけで、つまりそこで政治ゲームや権力闘争という知や論理とはまた別の所作、スキルが要求されてくることになるわけですがちょっと待って。別にそれらは背反するスキルではなく普通に干渉することなく追加可能なスキルなのでただ単に普通に既にある「客観的で根拠のある論理的な言明」という知のスキルにさらに政治ゲームのスキルを追加すればいいだけです。影響力さえあれば全てが許される!!!!ってどうしてお前はそう極端なんだ。

 僕たちが生きているのは確かに厳かな知のルールが支配する正確で厳密な正しい世界ではないけれども、しかしそれでも飽くまで知のルールに軸足を置き理想を持ちながら眼前の問題には各自現場で対応していく、というのが知に求められるモラルではないでしょうか。

 

 ともあれここで枠組みは知のルールから権力闘争、利害闘争、政治ゲーム、あるいは藤田さんが繰り返しエクスキューズしておられるツィイタァーバリトゥードルールに移行したわけで、ではこの藤田さんの「影響力さえあれば論↑理↓なんか必要ねぇんだよォン!!!!」を知のルールという枠組みではなくツイタッターバリトゥード的に評価していくとどうなるのか検証してみることにしましょう。

 ツイターバリトゥードというのは要するに自分のブランドを構築するゲーム、固定IDにより継続的に同一性が確認できる自分のアカウントのブランド力を高めていくことで周囲の人間に自分の発言をより尊重させ、耳を傾けさせるように仕向けるというゲームです。つまり、このアカウントのブランド力をツイットーにおける影響力と言い換えることができます。ツイッツーという公開の場での議論において知的フェアネスを貫くというのはとりもなおさず「自分は知的フェアネスを持ち合わせたアカウントなのだ」ということを発信し自身のツイブランド力(影響力)を高めていく行為でもあるわけです。もちろんそれだけが唯一絶対の道筋というわけではなく、例えば実名であることとか博士号を持っていることだとか単著を出していることなどでもオプションてきなブランド力を付加することなどもできますが、一般に一番ローコストで地道で手堅い手法は長期的な収支で考えると馬鹿にできない期待値があるものです。

 さて、こういった枠組みで今回の件を捉えなおしますと「実名、博士、単著、職業批評家」という追加オプションコインを貯め込んだアカウントが「どうして客観的で論理的じゃないといけないんですか~~~???根拠は~~~~~????」と小学生の終わりの会並みのアホ丸出し感で「匿名、変なHN、付加価値一切ナシ」のアカウントに絡んで来てくれるというまさにタレに浸かった全身脱毛済みのカモがネギと鍋とコンロ持参で襲い掛かってきたみたいな状況でもうまじスーパー鴨鍋うまいうまいタイムです。実際うまい。ただそこにいて知的フェアネスに専念するだけでじゃかじゃかコインが移動してくるわけでボーナスゲーム過ぎてこれはもう完全に作業ゲーです。ぶっちゃけ飽きます。

 「影響力さえあれば論理的に破綻している主観てきなポエムでも世界に働きかけることができる」は真でしょうが、その影響力というのは固定のステータス値ではなく使えば消耗するMPみたいなものです。あるいはある程度のラインを超えて高まった影響力は消耗しにくくなる、といったことはありえますし、つまりそれが権威とか呼ばれたりもするわけですが、それですら無限であるわけでもなく、気安く俺TUEEEを乱発していればあっという間に消尽して権威も地に落ちることになるでしょう。ましてや藤田さん程度のささやかな影響力など消尽まであっという間です。君、ついこの間まで全くのゼロだったじゃん?権威ぶって気が大きくなるのなんぼなんでも早すぎるんじゃないでしょうかね?

 

 

 はい、根拠や客観性や論理的整合性、正義や倫理は「あったほうがいい」という点では合意しているので、僕と藤田さんの間ではその重要性をどの程度と評価するのかという価値判断、あるいはリスク評価という点で判断が分かれているわけです。「世間は、どうかな。」というのは要するに「(俺は頭がいいからそれがそれなりに重要だと分かっているけれども世間の普通の人たちはだいたい馬鹿だから)どうかな。」という意味であって、つまり世間の人間は馬鹿ばっかりだから大丈夫って思っている頭いいいつもりの馬鹿なのでしょう。それ(知的フェアネス)だけが判断基準であるなんてことはもちろんありませんが、しかし現実の社会や世間というのは君が思う以上に頭の良い人というのが無限のように存在しているし、当たり前の話ですがツイッターは世界に対して開かれているのでその中で自分自身が最高の知性であり続けることはまず不可能です。世間はどうかなもなにも、たったフォロワー数千人という到達範囲ですらポコポコポコポコ気軽に頭叩かれているのにその程度の論理強度でいざ世間に出たらもっと気安くしかも理不尽にポコポコポコポコ頭を叩かれるに決まっているじゃありませんか。これってただ世の中をナメ腐っているだけのことなんじゃないですかね?確かに世界は厳かな知のルールが支配する正確で厳密な正しい世界ではないけれども君が期待するほど君にとって都合のいい馬鹿ばっかりでもないよ。

 世間はどうかなもなにも現にいまツィッターのタイムラインという世間に自分の主張を投げかけてそこで「根拠は?」「主観じゃね?」「論理的整合性なくね?」とポコポコポコポコ気安く叩かれているのにどこの優しい世間でなら叩かれないで受け入れてもらえると思っているんでしょうか?ツイッターのことを世間だとは思ってないんですかね?アカウントの向う側にはさまざまな種類の一般人がそれぞれに入っているということが信じられない?「影響力があれば全ては許される!!!!!」なんて言われても現に君、影響力なんかないんだからそんなのただのないものねだりだしゴネたってしょうがないんで真面目に下から一段ずつ地道に登っていくしかないでしょう。

 そもそものもともとが「世間の多くの人が黙祷とかやってるのがムカつく」という話だったのに、より多くの世間の人を動かしたほうが正しいみたいな結論になってるの致命的じゃないでしょうか。現に多くの人が黙祷とかやってるんだから黙祷とかやってるのが正しいってことになっちゃってその筋だと一生価値転倒なんか達成できるわけがないですよね?それともとりあえず予約だけしておいて誰かが首尾よく価値転倒してくれた時に、あるいは時代の必然として自然な成り行きで黙祷がマイナな習慣になった時に「ホラ俺が言った通りだった」とかやる作戦なんでしょうか。期待値はあまり高くないように思いますけれど。

 世界は政治ゲームだ!は別にいいんですけれどもそれならそれでまずはちゃんと政治ゲームのスキルを磨いて自分の手腕でサバイブして下さい。マジでゴロゴロぐだぐだしてないでいい加減自分の足で歩きなさい精神的クソニート。

 

 結論:世界が政治ゲーム的であることは知的フェアネスの有効性を棄却しない。知的フェアネスを貫くことは政治ゲームの世界でもかなりの程度有効な手段。特に現状持たざる者である人にとっては自身のブランド力(影響力)を高めるためのほとんど唯一の手段と言っても良い。

 

  

  なんだその歴史観!?(驚愕)

 こんなもん→処女の純潔を論ず(富山洞伏姫の一例の観察) / 北村透谷 が現代のオタクの価値観に影響を与えているわけないでしょう。相関関係と因果関係がごっちゃになってます。北村透谷処女厨だったので処女サイコー!ウヒョー!みたいな文章を書いたんですけど彼はたまたま文学史に名前が残ってしまったのでその処女サイコー!ウヒョー!も文学史に残ってしまったわけでなんとも可哀想な話ではあります。各自黒歴史は適宜焼却処分していけ。まぁ明治大正期の文学者には処女厨が多いのでその当時においても彼が特に特殊な性癖を持った先進的な変態だったというわけではなくむしろ当時の価値観においては平凡なことを書いただけなわけで、んーこれはひょっとしてどっちに転んでも不名誉なんじゃないでしょうか。罪深い。安らかに眠れ。

 明治時代には処女厨の文学者が居た。一方現代の平成の世にも処女厨のオタクが居た。世に処女厨の種は尽きまじ。

 

 

 ああ、うん、そうだね。明治と今を比べてもしょうがないよね。←結論

 

 文字数も8000字を超えてだいぶ雑になってきましたがもうちょっと頑張ってみましょう。お気に入りの画像を貼るんやなw

 

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デジタル画像 フランス百科全書 図版集 <諸科学:人体(解剖)>動脈系(ドレークによる)

 

 どうでしょう、なかなか愛嬌があって単純に図画としてとても素敵だと僕個人としては思うのですが、ところがこれ一応は18世紀当時の最先端の医学的知見に基づいた学術的な資料なんですね。こういった「過ぎ去った過去の知の最高峰」に対して現代の知見、知識を持った僕たちの立場から一方的に生ぬるい視線を投げかけ昔の人は馬鹿ばっかりだったんだねと優越感に浸ることはあまりフェアな態度とは言えませんが、だからといって21世紀のこのご時世において、この図に基づいて医療行為をされてしまっても困ります。なにしろ直接的に命がかかっていますので。はい、なにを申し上げたいかと言いますと「その時代において、その時代に生きる人間として現実的に受ける諸々の制限の中で、その時代における最先端の仕事だったものは現代においてもその当時の最先端の学問として評価を受け歴史に残る」ということと「その手法が現代でも通用する」かどうかは全く別の話だということです。

 現代的な知見と感性を持った僕たちがこの図に感じる独特の奇妙さは、例えば当時の道具の未熟さとか観察機器の欠如などのみに還元できるものではありません。それは細部が描かれていないことではなく、むしろありもしないものまでが過剰に描かれていることに由来します。しかしながら、これは絵画作品ではなく自然科学的資料として描かれたものですから、当時の筆者は自らの知覚に忠実に、見えているものそのものを正しく描き記そうとと試みたはずのものなので、別に筆者自身が特段に科学的知見を持たない詩的で非論理的でイマジネーション豊かでロマンチックな人物だったというわけではきっとないのです。おそらく彼は、当時の彼が属する知のルールにしっかりと軸足を置き、知のモラルに従ってこれを描き記したに違いないでしょう。それを現在の時間軸から「詩的でロマンチックだ」と評することはいささか不誠実ではないかと思います。ましてや「現代的な価値観で見れば詩的でロマンチックなものが古典として認知されているのだから現代に生きる俺も詩的でロマンチックでも構わないはずだ」というのは、まあ別に構いはしないんですけれども、それで将来古典の仲間入りできるとはちょっと思えないですね。なんでだか知りませんけれど藤田さんは未来が自分に味方してくれると確信しているっぽくて、まあたぶん躁なんでしょう。躁なんだと思います。なんかいいことあったんですかね?

 

ある文化のある時点においては、つねにただひとつの《エピステーメー》があるにすぎず、それがあらゆる知の成立条件を規定する。 ミシェル・フーコー 言葉と物

 

 フーコーてきな用法でのエピステーメーというのは、人の思考はその人が生きる時代が持つ思考体系、メタ知識構造に否応なく従ってしまうという不可避の「知の枠組み」のことです。人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたわけですが、しかしそれらはいずれもその時代の知の枠組みの内側にまるごとすっぽり収まってしまう。時代のエピステーメーに規定されているというわけです。もちろんフーコーは「だから神ならぬ人は時代のエピステーメーからは決して逃れられないのだ!」とかそういうことを言いたかったのではなく、それを前提にしてなお希望を語ろうとしていたようですが、藤田さんに関しては不可避の時代エピステーメーを突破することではなく単に逃避することを指向しているだけのようですので今回はあまり関係がないでしょう。肝要なのは「人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたがそれらは時代のエピステーメーに規定されていた」のうち「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきた」のほうであって、それこそが時代のエピステーメーを超えて過去から現在にまで通底する知のモラルであるわけです。現代においては真理の真理性というのは根拠と客観と論理的整合性によって支持されます。

 

 

 

 いやもうマジでそうかなに言ってんだお前?って感じなんですが。主張を単純化しないというのも技のひとつって、それなんのための技でしょうね?主張をしなければ反論されないって言っているのと同じことで、負けないための技でしかないでしょう。なに威勢よく方々に喧嘩売って歩いてるくせに根本的なところがおよび腰なんですか。主張というのは理解されてこそ社会に働きかける意味を持ち得るわけで、理解されないように主張を曖昧にしておくなんていうのは自分から社会に働きかけることを諦めているとしか思えません。せいぜいが世間に理解されない躁ぎみの孤高の批評家を気取るくらいのことしかできないでしょう。それが真理だとは自分でも思っていない、分かりやすく確定してしまえばたちどころに蹴り飛ばされてしまうような主張を理解し難いように批評的な思想的な修辞で粉飾してなんとなくそれっぽく演出し、あとは政治力と影響力(現状ないのでどう調達するのかは謎ですが)でゴリ押して社会に働きかけよう、などというのは大変に「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張する」という根本的な知のモラルに欠けた姿勢だと思います。

 

 

そこで我々が早速お目にかかるのは、哲学史は即ち時間の中で出現し、時間の中で提示された、たくさんの哲学的意見を枚挙すべきだという、哲学史についての極めて通俗的な見解である。控え目に言うときは、こういうものは意見と呼ばれる。しかし、これにもう一つ突っこんだ判断を下しうると考える人々は、哲学の歴史を阿呆の画廊とさえも呼ぶ。 ヘーゲル / 哲学史序論

 

 ヘーゲルはこの阿保の画廊てき哲学史観に対して否定的な態度で阿保の画廊という言葉に言及しているわけですが、それでも時系列に沿ってその時々の思想哲学を雑多に陳列してくだけでは(つまり通常の歴史編纂の手法による哲学史では)歴代の浮世離れした哲学馬鹿たちが犯した数々の誤謬を陳列するだけの阿保の画廊にしかならないという部分には同意しています(であるからこそ哲学は多様性の中でただひとつの真理に向けて前進しているのだ、という独創的な哲学史観で哲学史の再編纂を試みたわけです)。批評史だってまぁ似たようなものでしょう。どれだけ歴代のビッグネームを挙げてところで、どれだけ彼ら彼女らが当時影響力を持っていたか、またそれらがどれだけ今日にまで影響し続けているのかを語ってみたところで、雑多に並べるだけならそれは阿保の画廊です。それが阿保の画廊と知りてなお、失敗作だと分かっていてなおその手法を「影響力が持てるかもしれないから」と正当化するのであれば、歴史から学ぶという根本的な知的姿勢に欠けるものと判断するしかありません。失敗を繰り返さないためではなく失敗を繰り返すために繰り返させるために歴史を参照するのですか?というか、読者の立場からしてみれば失敗作に影響を受けてしまったことこそが繰り返すべきでない失敗なわけですし人は失敗を繰り返さないために歴史を参照するものなのですよ?自分は頭がいいからそれらが失敗作だと知っているけれどもそのことを世間の人は馬鹿だから知らないはずなのでもう一度同じ失敗をしてくれるはずだしその中で頭のいい自分だけは勝ち抜けておいしい目をみれるはずだとでも思ってるんですか?全能感ですか?躁なんですか?

 

 結論:過去の偉人が、その著作が現代の視点から見ると明らかに失敗作であるにも関わらず、その当時においては多大な影響力をもち現在も変わらず偉人という評価を受けているということは、現在において積極的に失敗作を書いても良いのだということを意味しない。

 

 はい、とっくに1万文字を突破していますがここまでが前座です。やっと本題に入ります。

 

 

 はい、ようやく僕がやるべき仕事が少し見えてきましたね。「社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかない」故に「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするもの(批評家)は」「根拠と客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これでアガリです。「批評とは、言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて、社会を変えようとする営みである」は藤田さんのほうから提示してきた前提であるのでこれは今回無根拠に採用します。最初のほうで言いました通りあらゆる論理はなんらかの無根拠の前提を必要としますので、これは批評がそういうものであるという普遍的定義があるということではなく、これを前提する限りにおいてはさすがに藤田さんも自分で言い出したことであるのだからちゃぶ台返しはできないだろうというだけの話で「都合が悪くなると定義論に持ち込んでうやむやにして負けてないアピール」という藤田さんのツイタァーバリトゥード術を封じるための僕のツイッティーバリトゥード術です。なので残る論証までの障壁は「社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかない」だけです。

 僕のこの主張に対する藤田さんの反論は概ね「そんなことはない。影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」の一点に尽きます。これは実際のところ真でしょう。なのでこれを回避するために僕の主張に前提条件を足しましょう。

 「<現に影響力を持たない者が>言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするならば、根拠と客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これを最終的な僕の主張とします。以下「なぜ現に影響力を持たない者が社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかないのか」を説明します。

  

 藤田さんの言う「そんなことはない。影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」は実際のところそうなんですよね。世界は政治ゲーム的であるわけです。現にいま藤田さんに影響力なんかたいしてありもしないのにそれを言っているのがアホっぽいというだけで言明じたいは真です。そして、それこそが社会批評がまさに取り組むべき対象であるわけです。

 藤田さんはちょっとあまり頭がよろしくないようなので見落としていらっしゃるのかもしれませんが「影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」ということは、今まさにこの社会において「影響力があるというただそれだけの理由でふわふわポエムで社会に働きかけている」対象が存在するということです。影響力が現にある、つまり既存の権威です。「既存の権威の発するふわふわポエムには力がある」ということであり、それらはもはや根拠と客観性と論理的整合性に支持されていない過去の権威の残骸で、つまり不合理な言説です。そしてそれが不合理な制度やルールや生活様式が社会に蔓延していることの原因でもあるわけです。現に世界には権威が、強者が既に存在していて、そしてあなたは持たざるものである。その関係性において、そこに論理がなければ、持たざる者の言明は「既存の権威の意向に沿っているか否か」だけで権威によって評価されるということになってしまいます。権威の庇護下にある不合理な言説を権威の外から突き崩すには、それらがもはや根拠と客観性と論理的整合性によって支持されていない惰性に過ぎないということを、根拠と客観性と論理的整合性でもって暴くしかないのです。

 

 ツイブランド力が日々のツイの積み重ねによって高められもすれば消耗もするように、権威というのも原理的になにか過去からつながるもの、積み上げられてきたもの、伝統に関わる概念です。藤田さんの定義に乗れば「批評家言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするもの」ですから「批評家としての権威があれば言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとすることができる」というのは「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするものとしての権威があれば言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えることができる」ということになり「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするものとしての権威は言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えていくことによって得られる」というクッキーを焼くためにクッキーを焼くみたいな話になります。はい、これで合っています。クッキーを焼きましょう。

 

  社会について一般的に論じられるようなことはそう多くはありません。社会批評における問題の多くは過度の一般化に起因しています。タイムラインで話題になるような時事問題というのはそれが例外事象であるからこそ話題にのぼっているわけで、ある例外事象から一般則を導けばそれが早まった一般化になるのは当然です。一般に言えることというのは平凡で凡庸でありきたりなものと相場は決まっているのですが、社会批評というのは兎にも角にも「広く一般的に適用可能で」しかし「新奇性のある斬新なもの」を求める傾向があります。しかし、当然のように「新奇性のある斬新なもの」が「広く一般的に適用可能」となるのは一般そのものが変容するタイミング、つまり時代の節目にしか成立しません。こういった新奇的な一般則を打ち立てるタイプの社会批評というのがそもそもムリゲーなのですが、その要請をなんとか満たそうとしてことあるごとに時代の節目をねつ造しようとするわけです。ポストモダン以降、人間一般が動物化している、とか、震災以後社会全般が断絶した島宇宙化している、などなど。しかし歴史を振り返れば分かる通り、人間の感性一般が変容してしまうような時代の節目というのはそんな数年単位で何度も何度もポンポンポンポンと訪れるものではないでしょう。時代がシフトする間隔がムーアの法則てきに指数関数的に加速してきていると仮定しても、いくらなんでも乱発しすぎです。こういった大きく山をはってギャンブルしてうまくいったら儲けもの。外しちゃったら知らんぷり。言うだけならタダだからとりあえず言ってみよう、みたいな大雑把な社会批評はもうやめにするべきです。

 

 大切なのは、大雑把に社会全体に対して大鉈を振るうのではなく、ひとつひとつの個別具体的な問題点を注視し、不合理な制度、風習、言明などを個別に言語によって批判し、新しい合理的なものを言語によって提案し、それを古い制度と取り換えていくというところまでの気の遠くなるような長い行程を、根気強くひとつずつ堅実に積み重ねていくということです。そういった細やかな実践の積み重ねが後から見れば権威と呼べるような伝統を作り出していくことになるでしょう。抽象的に批評家という権威に訴えてみたところで批評家という肩書きに、とりわけ現代の日本においては、威を借りることのできるような権威が存在しているかどうかは甚だ疑問です。ないものはないのですから、ならば自分でいちから作り上げていくDASH村ルールでやっていくしかないでしょう。権威は結果として出来上がるものであって、便利使いしていい火力ではありません。

 

 【追記】藤田直哉さんからレスポンスがありました

d.hatena.ne.jp