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そんなポストモダン・ジャパンの行方なんかよりも浅田彰に学ぶ10オンスグローブ級の美しい日本語表現

 本物川こと大澤めぐみがお送りしております、大反響のふわふわアート怪文書ブログ。どれぐらい大反響かと言いますと、実兄から感想もなにもない「読んだよ」というただ読んだ旨だけを伝えるメールが届くくらいに前代未聞の大反響っぷりで今後のブログ運営が危ぶまれるところでもありますが、明鏡止水の如き不退転の覚悟で淡々と進行していきたいと思います。

 

 以前のエントリで取り上げた浅田 彰×黒瀬陽平ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」、黒瀬くんのターンを受けての浅田さんの再応答となる第三ラウンドが公開されました。

浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第3ラウンド]1

 

 とても美しい日本語で記述されていて、いろいろな学びがある内容となっています。

 

 >矢代幸雄の「前面性」という概念を借りて、仏像などを含む日本の宗教美術を特徴づけるというのは、やや大雑把に過ぎるとはいえ、ある程度まで納得できる見方だと思います。ただ、僕の疑問は、「日本の仏像や神像について、おおむね正面性が強いということは言えるとしても、『二次元的である』とまで言い切れるか、あるいはまた、キャラクターは二次元でなければいけない、言い換えれば三次元的なキャラクターはキャラクターたり得ない、と言い切れるか」というものでした。黒瀬さんの返答を踏まえてもなお、この疑問は残ります。

 

 とても美しい日本語表現ですね。普段の僕の口調だと、「ああ、まぁそれが正しいかどうかは別として、君が言いたいことは分かったけど、それ全然僕の質問の答えにはなってないよね?質問の意味が理解できなかった?もう一回言おうか?」みたいな感じになると思います。要するに「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」です。同じことを言うにしても表現を工夫するだけでここまで美しくなるものかとハッとさせられると共に、日本語という言語が持つ詩的ポテンシャルの高さを改めて認識しました。オブラートどころか言葉の拳を10オンスグローブで包むが如しです。一般に、ボクシンググローブというのは拳の保護を目的として使われているようですが、グローブが大きくなればなるほど打撃が即KOに結びつかず、選手がファイティングポーズを取り続ける限りは試合は続行されるため加撃され続けることとなり却って危険性を高める、という議論もあるようです。僕としましては黒瀬さんには是非とも固い決意で何度でも立ち上がりファイティングポーズを取ってもらいたいと、こう思う次第であります。

 

 >アニミズム多神教の世界、とくに日本では、現世と来世、俗なる空間と聖なる空間は連続しており、ひとつの絵画空間の中にあっけらかんと共存し得る、という見方は、やはり大雑把すぎるものの、比較文化論的な第一次近似としては理解できます。(中略)ただ、僕が問題にしていたのは、久松知子の《日本の美術を埋葬する》を、生者と死者が共存するプレモダンな日本的空間と称するものに回収する見方が、本当に適切なのか、ということでした。

 

 はい、とても美しい「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」パンチのコンビネーションですね。黒瀬くんが繰り出すトリッキーで小刻みなパンチをその場から一歩も動くことなく全て避け(それを避けると呼ぶかという議論はまた別にあり得ましょうが)何度でも同じところに同じパンチを打ち込むだけという愚直とも思える挙動。まさに学長の風格。これも普段の僕の口調にすると「うん、まぁそれが合ってるかどうかっていうと微妙な感じはするけど、とりあえずお前が言いたいことは分かった。でもそれ俺の質問に対する答えになってないよね?ひょっとして全然意味分かってない?もう一回言おうか?」みたいな感じになるでしょう。

 

 以上です。

 

 はい。実は今回の浅田彰さんの応答、挨拶や相槌に相当する部分を除くと、実質的に前回の黒瀬くんのエントリに対応しているのはこの部分だけになります。黒瀬くんの7000文字を超えるエントリに対して、実質「でも俺そんなこと聞いてるわけじゃないんだよね」と言っているだけなんですね。黒瀬さん、浅田さんの疑義を全てスルーしてひたすら全然関係ない話をしていただけなので、当然と言えば当然なのですが。

 

 >黒瀬さんの『Little Akihabara Market』展のテクストが単なる思い付きではなく、それなりに広く深い思考に裏打ちされていることがあらためてよくわかったし、そのことが多くの読者に伝わるとすれば、この意見交換には十分な意味があったと言うべきでしょう。

 

 目の前に相手が居るのにリングの上でシャドーボクシングに興じる黒瀬さんの挙動に対しても、黒瀬さんのシャドーボクシングスキルを観衆に知らしめるという価値まで否定し切ることは難しいでしょう。何度直撃を食らって血まみれで昏倒しようとも、何度でも立ち上がり飽くまでシャドーボクシングに徹する姿勢には鬼気迫るものがあり、ここは僕も完全に浅田さんの言に首肯せざるを得ません。心の奥底からじんわりと暖まるような実に美しい日本語表現で学ぶところが多いですね。

 

 さて、前回の黒瀬くんのエントリに対する応答は「俺そんなこと聞いてんじゃないんだよね」パンチ一本で粉砕した浅田さんですが、流石にそれだけでは間が持たないと判断したのか、後半ではさらに別の追撃を仕掛けていきます。ゲンロン通信という東浩紀の友の会の会報に掲載された、黒瀬さんの「『当事者性』の美学」というテキストに対する言及で、残念ながら僕は元のテキストを持っていないので浅田さんの引用からその内容を伺い知ることしかできないのですが。

 

 !!!!直接の被災者ではないカオス*ラウンジ」は「自らの炎上の『当事者性』を介することで震災について考えた!!!!

 

 すごいですね。

 

 知っている人は知っている、知らない人は覚えてね、ただのゆるふわアート学生のオフ会みたいなものに過ぎなかった黒瀬さん率いるカオスラウンジは、梅沢和木さんのキメこな丸パクリ騒動大炎上し一躍有名になったわけですが、その炎上の経緯っていうのは「パクったら怒られたから逆ギレしたら大炎上して、結果的に他の悪さも芋づる式に出てきてさらに延焼」っていう、ほとんど「万引きを自分からツイッターで自慢してたら怒られたから逆ギレしたら大炎上した」っていうような、いわゆるバカッター丸出しのテンプレパターン自業自得因果応報諸以外のなんとも言いようがないようなものです。未曾有の天災である東日本大震災被災者に対して「俺たちも被災者の気持ちはよく分かるよ。ネットで炎上したことあるからね」って言っているわけで、そりゃあ普通に「は?」ってなるだろうという話です。

 

 >「当事者性」を本気で重視するのなら、東日本大震災とカオス*ラウンジの「炎上」を、またそれぞれの「当事者性」を重ねるとか、「原発麻雀」をプレイすることで東京電力の「当事者性」を身に帯びるとかいうのは、いくらなんでも軽率に過ぎるのではないでしょうか

 

 「は?」の一言で済む話をここまで美しい日本語表現にしてしまう浅田さんの変幻自在のゲンロンボクシングスキルは流石と言わざるを得ません。僕もスラスラとこんな美しい日本語を話せるように日々精進していきたいと決意を新たにしたところであります。