これでもう迷わない!ポストスーパーフラット「黒瀬陽平校長ゲンロンアートスクール&こども教室合同成果展」を100倍楽しむためのステイトメントガイド
ふわふわアート怪文書コレクターの大澤めぐみです。
2014年8月30日からの三日間、東浩紀さんが経営する五反田のゲンロンカフェにおいて、黒瀬さんの提唱する新概念ポストスーパーフラットをテーマとした展示会「黒瀬陽平校長ゲンロンアートスクール&こども教室合同成果展2014」が開催されます。それに先立ち黒瀬陽平さんによる展示会のステイトメント『「ポストスーパーフラット」から「ポストフクシマ」へ』が公開されましたが、黒瀬さんの独特な言語感覚で書かれたこの文章は、彼の文章に慣れていない方には少し分かりにくいものとなっていると思われますので、これを現代アートなどに馴染みのない一般の方向けに平易に解説すると共に、今回の展示の見どころを紹介していきたいと思います。
まずポストスーパーフラットと言われても、そもそものスーパーフラットがなんなのかよく分からないのではなかなか難しいでしょうから、軽くこれの解説をしましょう。とはいえ、言葉じたいはとても有名なので一般の方でも耳にしたことぐらいはあるかもしれませんね。芸術家 村上隆さんの提唱した概念で、村上さん自身の著作の中でも定義が二転三転しているため、これこそがスーパーフラットだと端的に説明するのは難しいのですが、原意としては「多重平面による奥行表現」を指す語です。シューティングゲームをやる人なら、サンダーフォースの多重スクロールによる奥行表現をイメージしてもらうと分かり易いかもしれません。平面的に描かれたレイヤーを複数重ねることで奥行を表現する技法です。村上さんはこれを導線に「故にアニメ・マンガなどの表現はART足り得る」を論証し、一般にARTとして認知されていなかったアニメ・漫画などの表現をARTの中に位置付けました。
ものすごく雑で投げやりに説明すると「西洋の透視図法に対し、日本独自の多重平面による奥行表現が西洋のマーケットでウケた。故に浮世絵とかそういうのはART足り得た。アニメ・漫画も同様の多重平面による奥行表現という文脈を踏襲している。故にアニメ・漫画はART足り得る」という道筋です。最終的にアニメ・漫画に至る、既にARTと認知されているものによる導線を引くことで、アニメ・漫画表現にARTの中での居場所を作ったわけです。美術史という数直線上にアニメ・漫画をピン留めした、というのが一番大きな意義です。スーパーフラットという導線によって、従来ARTと見做されていなかったアニメ・漫画・ゲームといったものは美術史上のここに位置するよ、と座標が示されたわけです。
先にも述べたようにスーパーフラットの原意は「多重平面による奥行表現」ですが、一般にスーパーフラットと言えば、最終的に「故にアニメ・漫画はART足り得るのです」に至る論証、導線そのものを指す語として運用されています。
さて、そのスーパーフラットの村上隆さんとカオスラウンジと言えば 、村上隆さんがカオスラウンジを拾い上げ
さて、、、、みなさん、カオスラウンジフェス、ボスキャラの登場です。黒瀬陽平。黒瀬陽平でございます。今週の木曜日から。新作を引っさげて、ステイトメントを引っさげて、ぴんだちでの初興行!!ハイ!初興行なのでございます。ご期待ください。
— takashi murakami (@takashipom) 2010, 6月 27
直後に村上さんの門下のMr.の作品をカオスラウンジにパクられ
http://bit.ly/gP79Qv ←これが荒川なにがしかの作品と言うのだそうだが、過去のMrの作品とそっくりなのだが、その辺の説明等、どうなっているのだろうか? これ見て!→ http://bit.ly/esT0Lp @rhythmsift
— takashi murakami (@takashipom) 2011, 1月 17
何故かカオスラウンジがヨソからパクったことの尻を拭く羽目になり
@hazuma ついにといいますか、、、。。。カオスは私も片棒担ぎましたし、責任を感じておるわけです。いやほんとに。
— takashi murakami (@takashipom) 2011, 6月 18
突っ込んだら砂をかけられ血圧も上がり
何をいうか!黒瀬陽平!!!何をいう!詭弁と欺瞞の塊め! ( #2_5_d live at http://ustre.am/ydDJ)
— takashi murakami (@takashipom) 2011, 6月 16
逆恨みされ
端的に言うと、今の状況のまま気にせずカオス*ラウンジを続けていると村上隆に完全に潰されるんですよね。彼には本当にそれだけの力がある。
— 梅ラボ (@umelabo) 2011, 6月 23
宣戦布告され
はっきり言って僕は村上隆のやり方が気に入りません。今回の騒動での動きもそうだし、前々から色々思うところはあった。でも作品はすごいし、とか技術的に、とか自分とは対話してくれるとか色々理由をつけて妥協して、関係性の逃げ道を残していたように思う。それももう終りにします。
— 梅ラボ (@umelabo) 2011, 6月 23
かと思えばゴロニャンされたり
「Murakami – Ego展」感想 http://t.co/ENe2tz7s
— 梅ラボ (@umelabo) 2012, 7月 25
その一方で村上隆さんのほうはカオスラウンジに見切りをつけて、彼らに求めていた仕事を自分で引き継いだり
ちなみにですが、僕はカオスラウンジの代弁者ではありません。今、おこなっている「AKA:悪夢のどりかむ」展がカオスラウンジの流れに抵触している、という文面を書いております手前、僕への質問者にお応えしているだけです。 http://t.co/9crjEbTE
— takashi murakami (@takashipom) 2012, 6月 21
今度は謎に「君も村上隆を超えてみないか!?(他力本願)」と当て馬扱いされたり
あっ 動画第二弾アップされてる!!RT@hazuma ところでそろそろこれ宣伝しようかと思います。4/30〆切。すでにけっこう申し込みあります。ポストスーパーフラット・アートスクール「きみも村上隆を超えてみないか?」 校長:黒瀬陽平 http://t.co/OvKk9j99Kg
— 黒瀬陽平 (@kaichoo) 2014, 4月 22
村上隆をも敵に回した稀代の批評家!なんて看板に使われたり
公開されました。記事タイトルはアレですが内容はマジメですw →RT@CINRANET 村上隆すらも敵に回した希代の批評家・黒瀬陽平が語る日本アート / 現代美術グループ、カオス*ラウンジ代表が愛憎半ばに同世代のアートを語る http://t.co/2RiMZOhd3B …
— 黒瀬陽平 (@kaichoo) 2014, 7月 30
とまぁ、僕個人としては決して村上隆さんに好感情を抱いているわけではないのですが、流石にこの扱いには「ざまぁw」を超えて普通に不憫になってしまいます。
さて、ここ数か月の黒瀬さんの動向はどうやらポストスーパーフラットという概念をブチ上げることによりスーパーフラットを超克して積年の目の上のたんこぶ(逆恨み)村上隆をいよいよ超えてみせる!!と息巻いているようなのですが、肝心のそのポストスーパーフラットという概念が語感以外に一切不明という状態だったので、いまいち何をするんだかどうやるんだかピンとこないというのが実際のところでした。
ところが今回のステイトメントにおいて、ようやく謎のベールに包まれていたポストスーパーフラットが定義されたので、その意図が見えてきた感じがあります。
ポストスーパーフラットとは、スーパーフラットが依拠していた文脈を相対化する視点のことである。
とは、で始まり、である、で〆られているので、この一文がポストスーパーフラットの簡潔な定義文であると解釈できます。とはいえ、独特の言語感覚を持つ黒瀬さんの文章は、ふわふわアート怪文書に耐性のない一般の方にはパッと見ではなんのことだかつかみみづらいことでしょう。しかし、如何に修飾関係が混乱した文であっても、諦めず丁寧にひとつずつ整理しながら読んで行けばちゃんと読解できるものです。中学高校の現国の長文読解の授業のつもりで丁寧にやってみましょう。
文意がつかみづらい長文に出くわした場合は、まず概要をつかむために修飾語をすべて取り除くのがセオリーです。
ポストスーパーフラットとは視点である。
この時点ですこしハテナがつきますね。先述のとおり、スーパーフラットとは最終的にアニメ・漫画に至る導線のことですから、導線と視点、線と点、超えるとか超えないとかの話をするには比較のためのグレードが揃っていないように感じられます。 しかしまずは読解です。疑問はさておき読み進めていきましょう。 ポストスーパーフラットとは特定の表現技法や美術的スタイルのことではなく、視点である、というのは分かりました。ではどのような視点か。
スーパーフラットが依拠していた文脈を相対化する視点のことである。
スーパーフラットとは導線、つまり文脈そのものを指す語として一般に運用されていますので、「スーパーフラットが依拠していた文脈」というセンテンスはすなわち「スーパーフラット」と扱って構いません。
ポストスーパーフラットとは、スーパーフラットを相対化する視点のことである。
だいぶシンプルになってきました。 では次に、相対化とはどういう意味でしょうか。よく使われる語彙ではありますが、なんの為に相対化するのかというと、それは位置付けを確認するためです。航海術の交差方位法などをイメージして頂けると分かりやすいと思います。「俺の村」という語だけでは客観的にその村がどこにあるのだか一切確定しませんが、「俺の村は東京から300キロ離れている」「俺の村は大阪の北東にある」と、他の地点との関係性を吟味することで、その位置づけを把握することができ、地点を追加していくことで精度を高めることができます。「あなたは優しい」という言明は、あなたは普遍的に絶対的に優しいという意味ではなく、わたしより優しいとか、他の人に比べて優しいという意味です。位置でも属性でも評価でも、他者との相対的関係性においてしかそれを確認することはできません。自分では自分は見えないので、外部の視点が必要となるわけです。
ポストスーパーフラットとはスーパーフラットの位置を確認するための外部の視点のことである。
かなり文意が通りましたね。スーパーフラットは美術史の数直線上にアニメ・漫画をピン留しましたが、それをさらに他の地点からも観測することにより、三次元空間的にスーパーフラットの位置をピン留めしようとする試みだと考えられます。あれ、スーパーフラットを超克するんじゃなかったの?それじゃむしろスーパーフラット研究じゃない?というような疑問も浮かびますが、ポストスーパーフラットという語は黒瀬さんしか使っていない、黒瀬さんが定義した独自用語なので、自然言語的にポストスーパーフラットとはこういう意味だ、という議論はあまり意味がありません。別にラベルに書かれた文字がポストスーパーフラットでもスーパーフラット研究でもクロックムッシュでも、ある概念をある語と紐づけ、その場において一貫してそのように扱うのであれば支障はありません。
以上が黒瀬さんによるポストスーパーフラットの定義文を自然言語的に解釈した場合の定義となります。
次に、ではスーパーフラットを観測し、その位置を確定するために具体的に何をするのかが気になります。
「悪い場所」(椹木野衣)や「スーパーフラット」(村上隆)という、既存の美術批評のパースペクティブを乗り越え、「情報社会」や「震災後」といった現在進行形の問題に取り組む、という大きな目標を掲げた。
セオリー通りに修飾語を取り除きます。
「情報社会」や「震災後」の問題に取り組むのが目標。
つまり、今回の展示のテーマですね。情報社会や震災後というのはスーパーフラットとは関係がありません。先にも述べた通り、観測により位置を確定させるためには、複数の「外部の」地点から観測し、その相互の関係性を明らかにすることが必要なので、比較対象となる作品群のテーマがスーパーフラットと関係がないのは必然です。
受講生たちは、スーパーフラットという枠組みに留まらない文化的文脈を多数持ち込んだ。
というのも、同様の理由で、スーパーフラットの位置づけを確たるものにするために、スーパーフラットに関係しない外部の観測地点を増やしたということです。今回の展示では、こども絵画教室の作品展との抱き合わせとなっていることも重要な点です。スーパーフラットというのは村上隆さんが提唱したものではありますが、日本美術の根底に脈々と受け継がれている表現技法とその文脈のことなので、日本人であり、日本的感覚の中で暮らし、日本で美術を学んだ以上は、意図的に避けでもしない限りは自然とスーパーフラット的になってしまう、という類のものなので、まだ美術教育を受けていないこどもの作品というのは「スーパーフラットの外部」という視点を確保するために非常に有効に機能するであろうことが期待されます。
まず、展覧会場全体は「浄土式庭園」に見立てられている(梅田裕《羊の東西》)。わたしたちは、此岸から彼岸を拝む「橋(エレベーター)」を渡って、「現代における救済の場」としての浄土庭園に足を踏み入れる。東には太陽が掲げられ(初鹿野雄起《RISING SUN》)、西には「秘仏」を安置した阿弥陀堂が配されている(中山いくみ《ポストスーパーフラット祭壇画》)。そして、「宴」の場である砂利敷のフロアでは天女=アイドルが舞い(古村雪《会いに行け アイドル(2035年)》、あたまがぐあんぐあん《アイハラ! idle Harassment!》)、聖衆が遊戯に興じ(遠野よあけ《悪くない場所RPG》)、河原者が物売りをしている(巣窟明《路上生活者〜ON THE DOURO》)……
このなんかごちゃごちゃした文章はとりあえず「色んな作品があるよ」みたいな感じで概ね大丈夫です。
平安から鎌倉時代にその頂点を迎え、禅宗の流行とともに「枯山水」にとってかわられた浄土式庭園を召喚し、現代アートの空間として見立てることは、スーパーフラットにおいても禅や「無常感」「侘び寂び」などが参照されがちだった日本美術のイメージを、それ以前に遡ることによって拡張し、日本美術史を独自に再編集してゆくだろう。そして、釈迦入滅後56億7千万年後に訪れる弥勒の救済を待つ場としての庭園と、ウラン238の半減期45億年という時間軸の中で「復興」を為そうとする私たちの現在が重ね合わされる。
はい、要するに「スーパーフラットの文脈に連なるものを意図的に回避したよ」ってこと、スーパーフラットと全然関係ないよ、という感じで全然オッケー。
「スーパーフラットを外部の複数のスポットから観測して、それぞれの関係性を明らかにすることによりスーパーフラットの居場所、アウトラインを確定させる」ことを目的とし、「スーパーフラットと関係ない」「複数のスポット」を用意した。>>>それら複数の地点とスーパーフラットとの関係性を明示することにより、スーパーフラットの位置づけを確定する!!!<<< ここまでは完全に文意が通りました。
つまりこここそが今回の展示の見どころとなります。
ポストスーパーフラットという視座のもと持ち込んだ多様な文化的文脈は、スーパーフラットを相対化する。
と、あたかも地点さえ容易すれば自ずとスーパーフラットとの関係性が明示されるかのような言い回しになっていますが、その部分、展示されたそれぞれの作品とスーパーフラットとの関係性を明示することこそがキュレーターである黒瀬さんの仕事ですから、押しつけがましくあからさまに解説するのではなく、黒子のように立ち回ることで、あたかもそれらの作品群とスーパーフラットとの関係性が自ずと明示されたかのように観客には認識されますよ、という意味の、黒瀬さんのキュレーターの矜持がそうさせた言い回しでしょう。
地点を用意したから各々勝手にそこからスーパーフラットとの関係性を考えてね、というのでしたら、そもそもやっていることは「スーパーフラットと関係ない色んな作品の展示」ってだけですから、コンセプトにポストスーパーフラットと銘打つ意味がありません。この世に存在するあらゆるスーパーフラットと無関係な作品/展示、スーパーフラットの補集合は、ポストスーパーフラットと呼ぶにふさわしいということになってしまいます。
スーパーフラットと全然関係ない色んな作品を集めた展示会が、複数の地点からの相対化によってスーパーフラットをピン留めする事業になるための要件は「それぞれの地点(作品)とスーパーフラットとの関係性の明示」です。
三日間という非常に短い開催期間となっておりますが、お近くに寄られた際にはぜひ五反田のゲンロンカフェに足を運んで頂いて、この部分の黒瀬さんの仕事に注目して展示会を楽しんで頂けたらと思います。
※ふわふわアート怪文書コレクターとしての力が及ばず『と同時に、私たちの目先をより広範な歴史へと向かわせる。ポストスーパーフラットの視座によって拡張された現代アートは、「ポストフクシマ」の現在を思考するために起動するのである。』という部分は何を言っているのか一切分かりませんでした。お詫び申し上げると共に、どなたか読解に成功した方がいらっしゃいましたら、後学のため @kinky12x08 までリプライにてお知らせ頂けますと助かります