YATTA!すごい日本の葉っぱ隊vs全裸巨乳青識亜論のどろんこパンツレスリングと死なないゾンビのケツにぶち込む銀の弾丸

 ここは表現王の治める表現王国

 

 表現王の定めた「表現は自由です。ただしパンツをはくこと」という法律に基づいて、みんな自由に表現活動をしていました。

 まれに攻めてモロ出しで走り回る者などもおりましたが、モロ出しは速やかに逮捕されますし、みんな遵法精神というものがありますから、たいていはちゃんと法律を守って最低限パンツははいていたのです。

 しかし、ひとりの男がある疑問を持ちました。

 ちょっと待てよ。葉っぱはパンツに含まれるのか?

 葉っぱはパンツではありません。しかしパンツといっても大きいのや小さいの、形だってボクサーパンツからブリーフから紐パンまで色々あるだろう。これらのパンツすべてに共通する、パンツをパンツたらしめている要件とは、つまりちんぽを隠せているかどうかではないのか。葉っぱはパンツではないがちんぽは隠せる。モロ出しではない。これはもはや概念的にはパンツをはいていると言ってしまってもよいのではないか。

 そして男はパンツを脱ぎ捨て葉っぱ一枚で走り回りました。ぶっちゃけみんな、それはちょっとどうだろうかとは思っていたのですが、いちおーちんぽは隠しているのでモロ出しというわけではありませんし、なにより葉っぱ一枚で走り回っても男が一向に逮捕される気配もないので、やはりこれはもはや概念的にはパンツをはいていると言えるのではないかと考えはじめました。

 なるべくならパンツははいていたくない、という人たちもある程度おりましたので、そうなってくるとそういう人たちも次々にパンツを脱ぎ捨てて葉っぱ一枚でちんぽだけを隠して自由に表現活動を謳歌するようになっていったのです。葉っぱ隊の誕生です。

 葉っぱ一枚でちんぽだけを隠して自由に表現活動にいそしむ葉っぱ隊員たちでしたが、ある日、そこを表現王のバカ息子がフラっと通りかかり言いました。

 おいおい、そこのお前。お前はパンツをはいてないじゃないか。ただしパンツをはくことという法律を知らんのか。ホレ逮捕な。

 そして一人の葉っぱ隊員が突然に逮捕されてしまったのです。

 葉っぱ隊員たちは驚きました。なにしろ葉っぱ一枚とはいえちんぽは隠しているのです。これはもはや概念的にはパンツをはいていると言えるので、ただしパンツをはくことという法律には違反していないはずだからです。

 いやいやいや、誰が葉っぱはオーケイだって言ったよ。パンツをはくことって法律なのにパンツをはいてないんだから、お前たち葉っぱ隊員は本来なら全員犯罪者だろ。

 しかしそれも解せません。なぜなら他の大半の葉っぱ隊員たちは未だに逮捕されていないからです。なんだったら逮捕された葉っぱ隊員よりも、もっとずっと小さい葉っぱで辛うじてちんぽの先っちょだけを隠している、まあ実際それほぼほぼモロ出しだよね?みたいな葉っぱ隊員だって他にも居るのにです。

 お前たち葉っぱ隊員は本来なら全員犯罪者だが、たまたま通りかかったところにコイツが目についたから逮捕した。お前らだって別にセーフってわけじゃあないんだから、せいぜい俺に目をつけられないように色々と気を付けるんだな。

 これはいけません。なぜなら、法律というのは同じ基準で一律に適用されるということが重要だからです。自分で作った法律にでさえ自分自身もまた縛られるということが、無茶な法律ができてしまうことを抑止することになっているのです。こういう法律があるにはあるけれども、それで実際に逮捕するかどうかは俺の気分次第な。まあ気を付けな、というのが通ってしまうのであれば、極端に言うと「空気吸ったら死刑な」という法律を作って、あとは適当に気に食わないやつを捕まえては「おうお前いま空気吸ったろ。死刑な」って言って回ることもできてしまうわけです。そして、このように取り締まる側が自由にその対象を選べてしまう法律は、取り締まる側に絶大な権力を与えることになり、これは腐敗の原因となります。だって、機嫌を損ねると気分次第で逮捕できちゃうんですから。なるべく機嫌を損ねないように振る舞うことになりますが、この場合、振る舞いというのはもっぱらソデノシタのことです。

 とりあえず、葉っぱ隊は「ちょっと大きめの葉っぱにしたほうがいいのではないか」「さすがにその葉っぱは攻めすぎじゃね」「やはり葉っぱは一枚ではなく三枚にしよう」などと、安全そうな葉っぱについて話し合ったりしていますが、この葉っぱならセーフですという明示的な基準があるわけでもなく、大きな葉っぱをつけていても「いやお前パンツはいてないじゃん」と、いつ突然に逮捕されてしまってもおかしくはない状態に置かれています。

 そこに突然、表現の自由~~~!!!!(ウェカトゥザロックンローナー♪ウェカトゥザロックンローファー♪)と闖入してくる黒髪セーラー巨乳青識亜論!!!!

 きっと何者にもなれないお前たち葉っぱ隊に告げる!パンツをはく必要はない!モロ出しは自由だ!!!!(キラキラファーンとスカートが消え去る)

 表現の自由はなにものにも優先する至上の自由なのだ!ただし以下など不要!パンツをはかせようとすることは表現の自由の侵害だ!断固戦うのだ!(キラキラファーンとセーラー服が消え去る)

 しかし、葉っぱ隊は逮捕上等で法律をブッちぎって好き勝手にやりたい人たちではなく、法律の範囲内で安心してなるべくパンツをはきたくないだけなので、えー?えー?ええ~~~~????と、ポカーン状態です。

 お前たち葉っぱ隊の仲間が逮捕されたことはそもそもが不当なのだ!なぜなら人にはモロ出しの自由が保証されているからだ!パンツも葉っぱも関係ない!モロ出しまでオーケイ!!!!(キラキラファーンと靴下ローファーが消える)

 いや、モロ出しはダメっしょ。昔から法律でモロ出しはダメってことになってるし。

 なにを言っている!お前たちも葉っぱ一枚つけているだけだろう!そんなもんギリギリちんぽを隠しているだけでほとんどモロ出しと同じようなものだろ!現にお前らの仲間は逮捕されたではないか!!!!(キラキラファーン)

 いや、我々は葉っぱをつけているからモロ出しではないし、我々の大半は逮捕されていないので葉っぱでちんぽを隠すのが違法ということでもないらしい。我々は安心して葉っぱ一枚になるために、この葉っぱはセーフでこれより小さい葉っぱはアウトという基準をちゃんと知りたいだけなのだ。

 なんだと!なにを腑抜けたことを言っている!表現の自由をなんと心得るのだ!ちんぽをモロ出しにせずしてなにが表現の自由か!さあ!その葉っぱを取り去れ!そして不当に拘留されている聖戦士モロまん子を助け出すために立ち上がるのだ!立てよ同志たちよ!!!!(キラキラファーン)

 いや、だからモロまん子さんはモロ出しじゃないッスか?モロはダメっしょそらさすがに。普通に法律違反だし。僕たち葉っぱついてるんでモロ出しじゃないし合法なんで。

 ええい話の分からんやつらめ!貴様それでも表現規制反対軍か!お前たちが安寧を得るにはモロ出しによる武力革命しかない!よーし、その半端な根性を叩き直してやるぞパンツレスリングで勝負だ!!!!

 ルールは簡単パンツ取られたら負け。

 いや、パンツレスリングもなにも、アンタとっくに全裸じゃないッスか。

 説明しよう!パンツレスリングはパンツを取られたら負けなので最初からパンツを脱いでいれば決して負けることはないのだ!!!!

 ふふふ、どうしたかかってこないのか?ならばこちらから行くぞ!とう!!!!(ロック♪ロック♪ロック♪ロッコーバージャパーン♪)デデッデッデ デッデッデデ↑

 

 キチガイかな?

 

 以上、まえがきでした。

 

 さて、表現規制反対を掲げて聖剣表現の自由一本で全裸ファイトを繰り広げる全裸巨乳青識亜論さんが、175条猥褻規制は違憲により全廃を求める、以外の態度を取るものは表現規制反対派にあらず、という狂信的原理主義者みたいな規範命題をブチ上げたことが僕の中で話題となっております。

 

 まえがきが長くなってしまったので手早く結論からいきましょう。

 僕は表現の自由を掲げる青識亜論その人こそが、表現の自由を盾に現に法律に違反する問題行動を無理筋に擁護するということを軽率に繰り返すことで、表現の自由という概念が持つ価値、権威を棄損し、表現者やアーティストといった人種はやはり一般人とは異なった社会通念や順法意識というものがない特権意識を持ったアウトローの集団なのだといった誤解を広め、表現者と一般社会との相互理解を阻害し、モラルや道徳や治安といった安全で安心できる生活の基盤を破壊するものなのではないかという懸念を抱かせ、ひいては表現規制反対、あるいは撤廃などを求める議論や政治活動をも停滞させかねない、まさに自由な表現の敵であると考えます。

 

 まずはモロ出しの自由と一般社会です。

 モロ出しをしたい人間にとってはモロ出せることにメリットがありましょうが、一般には多くの人がモロ出しの欲求というのを持っていないので、モロ出しを容認するメリットがありません。モロ出しによってしか表現しえない人間の事情を理解する優しさも、現実的な落としどころも、無理に持つ必要はありませんし、モロ出しは問答無用で一律に逮捕される社会のほうが安心できるのです。それを「表現の自由という崇高な理念を理解できない前近代的価値観だ」と言って否定されても、テメー何様?としかなりませんし、だいたい「表現の自由という理念に対する無理解」と「表現の自由を盾に無法を行うアウトローの否定」をいっしょくたにして「お前は表現の自由を理解しない蛮族だ!」と断罪されても、はぁそうですかという話です。かえって態度の硬化をまねくだけでしょう。

 道徳やモラルで表現が縛られる必要などない!表現は超越的に自由なのだ!と、あれも表現の自由、これも表現の自由とパンツもはかずに好き勝手にやっていくのは、多くの先人達の芸術や創作や議論や政治的折衝によって少しずつ引き上げられてきた自由の前線を無碍に扱い足蹴にする行為です。

 モロまん子さんのように、まずモロ出しし、法的な問題も感情的な問題も倫理的な問題もブッパして、それを容認することで連鎖的に起こりうると想定可能な諸々の社会的な問題に対して十分に説得的な理論や理屈も用意できないままに、なし崩してきにモロ出しを認めさせようとすれば、より一般社会からの反発を強める結果にもなるでしょう。

 いやしかし表現は自由なのだ、自由とは痛みと軋轢が伴うものなのだからモロ出しが自由に流通したりそれによって治安が悪化したりするのは成熟した社会が受け入れるべきコストなのだ、と聖剣表現の自由の一振りで全てを解決してしまおうと楽をすれば楽をしただけ、既に先人達によって表現の自由という概念にチャージされている権威は削られ、やがて失墜していくこととなるでしょう。

 表現規制を撤廃し表現の自由の範囲を拡大すると、それを盾に問題行動を起こす輩が跋扈するかもしれない。表現であると主張されたら何でも許さなければならないのかもしれない。といった誤解が広まることは、むしろ「だからこそやはり表現にも一定の規制が必要である」という論調を強めるように思えます。

  僕もモロ出しは表現ではないからそこに自由などない!などと言うつもりはありませんが、現行法下において現に法律をブッチぎってモロ出しをする以上は、法律に抵触する部分では「それが表現であるか。表現として価値があるかどうか」とは別の話として問題になります。法は一律に適用されることこそが重要なのです。

 

 次に青識亜論という個人についてです。

 彼(ないし概念的彼女)にとって、議論における勝利というのは「相手のスタンスを変えさせること」、つまり、相手に自分の意見の誤りを認めさせ訂正させることであるようです。(根拠)

 議論に負けないためならば「175条全廃を求めないのですか?じゃあ175条は合憲だと考えているんですね?」(←詭弁:誤った二分法)とか、現にいま違法であり妥当に逮捕されているものを自分が適法であり不当だと主張しているのに「なぜ違法なのですか?ちゃんと筋の通った説明をして下さい」(←挙証責任の転嫁)などといった、インターネットバリトゥード特有の、たんに論破されないためだけのフットワークを使います。

 彼(ないし概念的彼女)の言う「よく分かりません」というのは「分かっちゃいるけど俺はお前がキッチリ詰んでくるまで決して認めないからせいぜい頑張って詰めることだな」という意味なので、これはたんに挙証コスト積み上げムーブであり、まともに取り合う必要はありません。黙れ、お前の宿題をやれ、で終わる話です。

 本来ならば、現状からの改革を訴える青識亜論こそが一般社会に対して説得的に根気強く説明を重ねていかなければならない立場であるのに、なぜか勝手にチャンピオンコーナーに立って向かってくるチャレンジャーをインターネットバリトゥードでぬるぬるかわし続けるという状況になっています。

 こういった相手との議論は基本的に無駄なので、あとは右に左に振り回しておちょくって遊ぶぐらいしか使い道がないのですが、本人は丁寧な言葉づかいとひたすらリプライを返し続ける並外れたバイタリティで誠実な議論を演出し、理不尽な挙証コストの転嫁に応じず話を切り上げると「どうしてでしょう?」と、飽くまで相手が対話を打ち切ったのであり自分は誠実に話をしようとしたのだというポーズを取るので非常に性質が悪いです。

 また、表現の自由を徹底的に擁護するという理念を掲げ、モロまん子さんをはじめ靖国全裸マンなども(宗教法人の敷地内であるという理由で限定的に取り下げたようですが)擁護すると言っていますが、これも実体としては馬鹿に爆弾を括りつけて175条に自爆特攻させて違憲ワンチャンあったら嬉しいなっていう、ただの極めて下衆で下劣な戦術でしかありませんし、アウトでも別に自分にダメージがあるわけじゃないからいいもんねーと思っているのかもしれませんが、その過程で発生する諸々の社会とのコンフリクトによるマイナスを計上しない短期的で短絡的な収支しか見ておらず、総合的に見れば決して表現の自由に資するものではないと感じます。

 

 説得的な対話を重ね、一般的な社会通念との乖離を丁寧にひとつずつ、すこしずつ距離を詰めていくという延々と続く地味で地道な作業を放棄し、対話を試みた相手にことごとく対話を諦めさせ、相手は不誠実で論理的一貫性のない感情的なバカだったのだという印象操作をすることにばかり腐心し、議論にも人にも、表現の自由という概念に対してさえも誠実に向き合うことのできない青識亜論は、各コミュニティ間の争いを煽り、表現の自由を求める議論を停滞させ、先人が築き上げ押し上げてきた前線を足蹴にする、まさに自由な表現の敵であると言えましょう。

 

以上です。