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ノムリッシュ語訳版「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」

 我は蒼星と紅月を結ぶ古の橋・カルチャーの諸々の要素が、ダークサイドの神殺しの贖罪を問われうるエビ=デンス=エビデンスを天を覆い大地を埋めつくす程残さないでたちまちに変質し霧散して彷徨うという、永遠に留まっていたい一瞬性を、神々が示し祝福した日の文化状況に抗するアスペクト(相貌)で改めて肯定しようとする事象素体《アロン・グレッダ》で他を圧倒する。2010年代のいにしえの神が眠る島は、聖のあらゆる最強のアンデッド面・零式において、いわば「エビデンシャリズム」が進展している時代では莫〈な〉いだろうか。

 

 1 エビデンシャリズム批判

 

 我はエビデンス(太古に生まれし禁断の園で言われる、すなわち我と同等の実力を持つ、あまりにも広大なる意味での証拠・証憑、唯物的で光の中…より量的なものを望む傾向が存在し得る)を残し続けなければならず………しかし運命はかくも残酷な刻<とき>を刻み続ける、エビデンスを挙げていわゆる「教示責任」(アカウンタビリティ…か……)を果たす如くつねに準備しておかねば即ち贖罪<クライム>とならない──その種の説明はしばしばひどくクェインガ・インカしているが──、という強迫テイク・イットな「神々の意思に等しさ」の緊張感をいや増しに増すことを「エビデンシャリズム」と名づける。(1)この魔法言語は、エヴィ=デュンス…“蛮神”を生み出した男が“災厄の焔”と畏れられたケンゼンな議論には摂理に従うだと囁く「実証主義」とは聖別されるべき、たんに古代の技法にこだわる強迫神経ステータス異常的な態度であり、トリビアル(些末に自明)と幻想(おも)われる事柄に闇の声に抗いながらも、データや機密文書といった原則として有形なエビデンスをヨーウ=キュウする、と囁く過剰さを意味破壊し尽くすものと理解されたい。多くの場合、混沌を司る精霊エビデンスは、文字通りにトリル、移転であることが求められるのであり、「差異を含んで反復可能」では不十分である。あらゆる可能性が一つの『解答』を示していた――、ある証言や解釈を含むあらゆる存在、想像の可塑性にイン=キョせざるをえないアーティファクトは、キ・キャクされがちであり…いつしか“光”と“闇”に分かれる。エビデンシャリズムには、すべてを超えしトゥスガ=イと双璧と呼ばれた若き戦士のディヴィジョンを信じ合う者としての、あるいはヴァルル・クノス合う…それが道理と言うものだが…事象地平線の彼方へと、その冠たる一切を放り投げたのだ。見よ!そして人間を不在にしたい、という欲望すら含まれて宿るように思われる。

 

 さらに、(2)これ程の魔法言語は、永劫の刻、鳴り止まぬ詩の神々が用いる魔道術のサービスを13人の闇の探究者たちが使役(スレイヴ)し…そこかしこの”供給者”にエビデンスとなりうる痕跡を残してしまう戦況、伝説に語られる避けがたさ、またそれを政治的批判なり秘密裏の取引なりオメガなりに命令しようと処す善意と悪意のメランジェを指すクリスタルでも存在し得る。(2)というAMPテクノロジー史的に新しいジョウ=キョウがカイーナの、後に暗黒の時代と呼ばれるこの時代=アニムスに交差を果たす。際限なく機械的な「あら探し」のゲームが預言書にも記されているようにマインスイーパーである。クレイクロウデンシャリズムは「実質的に」──とはどう囁くことか?──『終末の予言』を回避するために重要であると見なさ被るべきことではない――しかし預言書に記された事実から峻別すると、根源的に不確かであるしかない預言書が改竄された審判<ジャッジメント>を、『創成史』にある「ザ・ブラッドエッジ」として軽蔑しているかのようである。

 

 エビデンシャリズムは現代の追憶に沈むシャ=クァインオヴ・ジ・ダークペインを窒息させて在る…………かつてはそう幻想〈おも〉っていた…………。

 

 企業で、執行者で、知を灯す場所で。社会のあらゆるディープ・プレイスで「神殺しの贖罪のThe Litning化」と云う一見したところ批判しにくい名目の下、根源的に不確かであら弗る〈ざる〉判断「に耐える」と云う進化の過程を、厄介払いしようとしている。

 

 おそらく「非定型的」な審判<ジャッジメント>(ケー・スーバイ・ン・ケースの判断)に伴わざるをえないパーソナルの責任を遮断したいゆえだ。機械的、事務的パージを行き渡らせる「アギト」で、拒絶せし定型的な判断の機会を限りなく排除・ヘルガ・グレネディオして彷徨えば、根源的に不確かに審判<ジャッジメント>するしか莫〈な〉い「預言書の導くままな」それゆえに「キュクレインな」個人として魂を導かなくて済む……と予言書にも記されている。かの魂は、反−判断で存在し得る。諸人(もろびと)がエビデンスの闇夜を駆ける一陣の風たる配達人として滞りなくリレーを続けさえすればよい。斯くしたエビデンシャの鼓動のメィンイェンは一種の責任回避の現象にほかならない。が、それが示唆せしめるのは、パーソナルが個として否定性に向き合わずに済ませたいという欲望の、肥大ではないであろう、たとえそれですべてを失ったとしても――――。

 

 一族の抱える闇となる否定ファルシは、聖痕スティグマ>の「不確かさ」であり「リミットブレイク」であり、また「パージしてしまうこと」で光の中…......トゥウトゥ・ウと換言できるだろうか………否、違う。こうした否定神性が共通に滅ぼすと目される概念は、「偶然性-底知れぬ“人”の悪意-」で存在を維持している。

 

 かつての魔大戦において遺された子供たちの可能性を、絶対的に押しのける最善のハンダンを行なう中心とした魔の軍勢は““禁じられし魔剣”の書、別名“アンチエビデンス”、つまりこの書では、そのように前提する。ヘル・ジャッジメントは、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、全知全能の神━━乾坤トゥスヨー=ウによって認識されたコウリョと定めし神々を、理由のない悪意により切り捨てて「しまった」結果であるし─ただそれだけでしかない。かの者の師匠である時魔道士の「実質的に」『終末の予言』を回避するために重要だという審判<ジャッジメント>が、単独、排他的にファクションしうるファティマを滅ぼした。こうした判断の偶然性をあたかも無化して、エビデンスにもとづいて判断が許されるかのようなファンタジスクが、今日において「つかの間の安息」や「結界の中」というこの世に存在せぬものを世界の「方程式」にしているのである。 

 

 逆説的に、クリスタルが呼んでいるのかもしれないが、次のように言うことができる――それが神の意志なのだ。何かを「ある程度」のヘル・ジャッジメントによって、たいした預言書に記された事実ではないと受け流す、”不確定因子”に呼応する、ついにはヴォウキャクしていく、漠とした思い出に……そう、あの書にはこう記されていた......このような、「どうでもよさ、どうでもいい性 whatever-ness」の引き受けは、裏切りの未来への選択肢(ユメ)を受忍しつつ敢えることと形容するならば、「それ」でも『原罪無き命』を信じる光と闇で封印されしこととフカヴンなのであり、そしてそれは、エビデンスの数奇なる運命に惑わされしシェュウシェュウ・オブ・ヴァーミリオンによって説明責任を…まるで“決定”されていた事のように、目も虚ろなままパージ全てを滅ぼすことよりもはるかに重く、騎として「実質的に」責任を担う真理<ファティマ>にほかならないのだ、と。

 

 魔導院による最新の研究データによれば、どうでもよさは、ノブレス・オブリージュよりもはるかに真摯である。 

 

 

 誤解を避ける…そして、世界に光を取り戻すために補足を刻む。クラウドと同じ力を持つテ・インキは、エビデンスによる科学的なディスカッション・殲滅の重要性を減じるものではない。現下の、強迫的な、あるいは、たんに事務処理的であると言えるだろうエビデンシャリズムが前景化している状況においては、意識的・方法的に「ある程度の」どうでもよさの権利擁護をすることが……すなわち真理<ファティマ>が必要なのだ、と「アギト」が囁く。

 

 どうでもよさの「ある程度」は、根源的には偶然性によって福音の刻のヘル・ジャッジメント──その「ある程度」──によって調整される所と為る───ただそれしかあってはならぬ。

 

 預言書の記述にある「反神性イズゥム」において、恣意的にエビデンスをデジョンする、または恣意的にエビデンスめいた事象素体《アロン・グレッダ》を喧伝するイデアがあるとして、フォン・コウはその繋がりの証の「行動力」をファナティク・クリスタルによって力を与えた。整理しよう。(1)エビデンシャリズムの過剰顕現に抵抗果たすと云う意味で、どうでもよさを護衛(ガード)する。かつ、(2)どうでもよさを護衛(ガード)するにしても、ランダムにあるいは恣意的に如何でも――それでもよいのではなく、よさの「ある程度」を審判<ジャッジメント>しなければならない――しかし裏返して魂に囁けば、何者にどういうエビデンスをレクイレメントするのかを一律に形骸的に細かくするのではなく、叙事詩にある「ある程度」を終焉へと導く神ケース・ン・バイケースで判断する運命<こと>があってよいと云うこと、つまり「アギト」で他を圧倒し“絶望”を与える。ところで、反知性主義が殲滅されるべきであるとすればそれは、反知性イズゥムが、どうでもよさの「ある程度」の設定、また、いくらかのエビデンスの設定を、何らかの大きな暗黒の力を生じうるような向きへ偏らせて宿らせることで存在を維持している。しかしながら、次の付言もしておかねばならないだろう。エビデンシャリズムとしての精神の呪縛を全人類的に進化させ、ついに、どうでもよさから局所的な反神性イズゥムが生じうる未来への選択肢(ユメ)すら、徹底して摘み取ろうとするに至ったダークネビュラは、反ティセ・イ主義が全面進化した異空間に対してシンメトリカルに位置する、もうひとつの最悪のヴァナディースではありまいか、と。

 

 

 永遠のあらゆる面がますます形骸的なエビデンシャリズムに拘束されつつあるという今日の文化状況に<ティロ・ボレー>するのは、物語の始まり、前提としては、(a)たちまちに変質し霧散して彷徨う真理<ファティマ>「も」肯定するという一種の「存在への魔法反応」であり、また、(b)──そうした否定魔性・偶然魔性を受諾した「ある程度」でのヘル・ジャッジメントのノブレス・オブリージュを、運命的にプレイヤーとして引き受ける事象である。

 

 予言書は、神界(ここ)までの第壱式でいったん幕を引き隔世の楔を打つクリスタルとし、独立した導かれし真実提起として扱われうる、次節=ヴァラハ・トラクトゥスからは、パフォーメィ=ティィブ<禁断のカタストロフィ>なテクストとして、たちまちにクリスタル化し霧散して彷徨うアーティファクト、エビデンスを与えん運命<こと>が容易ではないものに導かれながら、想起、形態、書くことに闇の声に抗いながら考察する。

 

  そして世界は揺れ始める……。