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現代口語訳版「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」その1

アンチ・エビデンス
──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い

千葉雅也(哲学・表象文化論)

 

 本稿は現代の日本人にはもはやあまりなじみのない失われた言語である古代ポストモダン語で書かれた千葉雅也さんの「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」を現代口語訳に翻訳したものである。完全な翻訳というのはいかなる言語からどのような言語に変換するものであれ原理的にはまったく不可能ではあるのだが、そのエッセンスを外すことがないように最大限留意した。千葉雅也の思想のその片鱗だけでも、広く一般の方に馴染んでいただくことの一助となれば幸いである。

 

 以下本文

 

 ストリートカルチャーというのはたいていの場合、学術的に事実資料として参照可能なぐらいの強度で記録されていたりはしないので、検証しようとしても当時を知る人の記憶頼みになるのだけれど、人間の記憶というのは薄れるし過剰に美化されていたりしてあんまり当てになるものではない。でもストリートカルチャーのそういう、ちゃんとした記録には残らず時間とともに薄れていってしまうっていうところが、むしろ最近のギスギスした文化状況に抵抗する鍵になるよ、っていう感じで肯定的にとらえてみようと思う。最近の日本ってなにか言っては根拠だ根拠だっていちいち口うるさいよね。

 

 1. エビデンシャリズム批判

 とりあえず、なんでもかんでも記録に残しておかないといけない、なにかあったときにちゃんと事情を説明できるように記録に残しておかないといけない、っていうのをめっちゃ口やかましくいちいち言ってくるのを「エビデンシャリズム」って呼ぶことにします。アレってなんだかんだ理由付けはしてくるけど要するにただ口やかましく言いたいだけだと思うんだよね。あ、別に実証主義的な、健全な議論をするには根拠が必要だとかそういう話とはまた別ね。そういうのじゃなくて、書式の細かいところにうるさい人とか、どうでもいいような細かいところにまでいちいち根拠根拠言ってくる口やかましい人っていうのが居るじゃん。ああいう感じのやつね。あいつら客観性があるものじゃないと根拠として認めないとか言って、体験者の証言でもちょいちょい言うことが変わったり別の解釈もできちゃったりすると、それだけで「そんなんじゃダメだ」って言ってくるしマジ細かいよね。ああいう人の言うことを無暗に疑うのって人間としてどうかと思う。

 

 それでさ、インターネットって基本なにやっても証拠が残るじゃん。それを政治批判とかビジネスとか福祉とかに活用しようって人も居るんだけど、まあ悪いやつばっかりじゃなくて良いことのために使われたりもするみたいだけど、そういうのも含めてエビデンシャリズムね。そういう何喋っても自動的に証拠が残っちゃう最近のインターネット環境のおかげで、細かいことにいちいち文句つけたいマンが暇つぶしのマインスイーパーみたいなノリでいちいち人の言うことに「それ間違えてますよ」とか「それ別に根拠ないですよね」とか気軽にリプ飛ばしてこれるわけ。でもなにが細かいところでなにが主張の根幹に関わる大事なことかなんて、そんなのどうやっても不確かなことなわけじゃん?お前にとっては大事かもしれないけれども俺にとってはそこんところはどうでもいい細かいことかもしれないわけよ。でもそういうのを許してくれないわけ。めっちゃ細かいことまで言ってくるんだよマジで。

 

 そういうのマジめんどくさい。

 

 企業でも行政でも大学でも、社会のどこに行っても「責任の明確化」とか言って四角四面にやってるけどさ、そういう「お前にとっては大事かもしれないけど俺にとっては細かいどうでもいいことなんだよ」っていう理屈もちょっとは考えてみてほしいんだよね。そこんとこ考えないのは、それ、堕落だよ。もうちょっと我慢して考えてみてほしいなぁ。

 

 たぶんアレだよね、ちゃんとやってないとなんかあったときに後からグチャグチャ言われるからそれでああやって四角四面にやってんだよね。人間なんだからもっとケースバイケースでさ、柔軟にやってもらいたいよねそこんとこ。ちゃんと決まり通りに形式的にやってれば責任は回避できるかもしれないけどさぁ、やっぱ人間なんだから義理とか人情とかそういう人間的な判断をやめたらいかんよ。ちょっと潔癖症すぎるよね。社会の歯車になってロボットみたいに仕事してれば楽なのかもしれないけどさ。そういうエビデンシャリズムの蔓延って要するに責任逃れだと思うんだよ。四角四面に形式通りっていうのは単に自分が責任を追及されたくないっていう我儘だよね。

 

 人生やっぱ一期一会だしさ、記憶が薄れたり美化されたり、あと忘れちゃったりとかさ、そういうのも含めて人生じゃん。もっと人と人の偶然の出会いを大切にしていきたいよねやっぱり。

 

 やっぱ実際のところ、絶対に正しい判断なんか絶対にできないわけじゃん。判断っていうのは、どれだけ考えたところで結局はその場その場の気まぐれなのよ。だからお前が大事だって思うことが俺にとってはどうでもいい細かいことだったりするわけ。そういうのをちゃんと考えないでさー、根拠があるからこれが正しいんだとかそういうのって幻想だと思うよ。根拠だって思ってることだって本当の本当に絶対正しいかどうかなんて本当のところは分かんないんだから、お前の思ってる安心も安全も幻想なわけよ。

 

 俺がどうでもいいって言ってるのは、お前らみたいに本当の本当に絶対に正しいのかどうかなんて誰にも分からない根拠を前提にして正しいって判断するのよりも、もっとちゃんと考えた結果なわけ。

 

 勘違いしてほしくないんだけど、別に科学的な議論に根拠がいらないとかそういう話をしてるんじゃないよ。さっき言ったみたいな、たんにケチつけたいから細かいこといちいち口出ししてくる口うるさい人らのことね。ああいう人らはもうちょっといいかげんになったほうが色々といいと思うよって話。

 

 どんくらいいいかげんになったほうがいいかっていう量の話はまたちょっと難しいんだけど。

 

 反知性主義の人らがわざと科学的な根拠を無視したりとか、科学的な根拠もないのに科学的なふりしたりとか、そういうのをやっていいって言ってるわけじゃないよ。整理すると「他人にケチつけたいだけで、いちいち細かいことばっかり言ってるような人はもうちょっといいかげんになったほうがよい」「どれぐらいいいかげんになったほうがいいのかっていう量の話はちょっと難しい」ってこと。逆に言うと、ぜんぶがぜんぶ根拠根拠言うんじゃなくて、ここは根拠がいるけどここんところはまあある程度いいかげんでもいいよとかそういう判断をケースバイケースでやっていこうよってこと。人間だもんね。反知性主義の人らはそこんところのケースバイケースの判断がうまくないからダメってこと。でも世の中が反知性主義者だらけになるのと同じぐらい世の中ぜんぶがぜんぶ根拠根拠言うようになったら、それはそれで最悪じゃん。やっぱ人間だもんな。

 

 社会に生きてる限りあっちに行ってもこっちに行っても、どこでも根拠根拠ってケチつけたいがためだけに細かいことまでいちいち言ってくる人ばっかりの状況を変えるには、人間っていうのはそもそも忘れる生き物だっていうこと「も」受け入れて、いちいち細かいこと言ってないでケースバイケースで柔軟にやっていこうって方針でいくしかないと思うんだよ。やっぱ人間だもんな。

 

 まあエビデンシャリズムの話はこれぐらいにしといて、次はその実践として、曖昧だし薄れてるかもしれないし過剰に美化されてたりするかもしれない自分の昔の記憶を根拠にストリートカルチャーのことを書いてみるってことをやってみるね。