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あの頃の君は不死のゾンビたちとの泥沼の殴り合いの中にこそ喜びを見出していたはずじゃなかったのか

 

 しんかい36こと山川賢一さん(怨念暗黒流剣術免許皆伝)の心が折れてしまったので代打で出ます。サラサラヘアーの本物川こと大澤めぐみ(元オチスレのアイドル/怨念暗黒流剣術見習い)です。怨念ゲージを溜めてリミットブレイク技を発動しよう!

 

 東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編

 

 以前にtogetterYoutubeで公開された、山川賢一の「動ポモのどこがクソなのか大会」の再編集版とでも言うべきエントリです。基本的に批判の内容は同じなのですが、ポイントを絞り、かなりざっくりとダイエットしてすっきりした感があります。乱舞系の九頭龍閃から一撃必殺系の天翔龍閃への進化といった体ですが、怨念と憎悪にまみれたコッテコテでドロドロの怨念暗黒流剣術のファンである僕にはちょっとスッキリとしてそれでいてベタつかないのが物足りない感じだったりもします。怨念と憎悪に呑まれることなくそれを超克した先にある、究極の神速剣はたしかに威力は上がるかもしれませんが、怨念暗黒流の魅力はその威力のみにあるのではないと強く主張したい。モテたいとか受け入れられたいとか、そういうのは全部雑念なので、もっと心を無にして、ありのままの自分の怨念と憎悪に正面から向き合ってほしい。

 

 しかし一撃必殺系なので要旨は簡単ですね。用語の用法がそれぞれの場面でスライドしている。グラデーション論法。今回の指摘はこれだけです。これでなにが問題なのかと言うと、それぞれの用語が指示する範囲が違うのだから、その通りに適用すれば全てを満たす適用範囲が極めて限られてしまうので、データベース消費理論はオタク一般に適用できる理論ではなくなる。社会論への接続可能性が失われる。要するにデータベース消費理論の有意性が失われる、ということになります。

 

 これに対して、以前の動ポモのどこがクソなのか大会にも出演していたコロンブスさんから反論のエントリが出ています。

 

 「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」を読んで

 

 グラデーション論法って言うほうがグラデーション論法!っていう、馬鹿って言うほうが馬鹿案件なのですが、まあそれはいいとして、山川さんのエントリのグラデーション論法を指摘する!というワンアイデアが先行してしまっていて、守るべき本丸がおろそかになるどころか、むしろ積極的に破壊してしまっています。

 

 要旨としては、東はデータベース消費理論は全てのオタクに適用できるなんて言っていないのに、山川さんは勝手に全てのオタクに適用できないから無効って言っている!グラデーション論法!!みたいな感じなのですが、データベース消費理論がオタク全てに適用できるものではないというのが真だとして、ではその割合がどうなのか、という話になってきます。データベース消費理論が社会論として成立するぐらいに広い範囲に観測できる法則であると主張するのならば、全てに適用できないのであっても依然山川さんの指摘は有効なままですし、山川さんの指摘を無効化できるまでに適用範囲を絞ればデータベース消費理論は法則と呼べるほどのものではなく、極めて限られた人の様態を示しただけのものにすぎない、ということになります。つまり、山川さんの指摘を追認する形になってしまうのですね。データベース消費理論は法則と呼べるほどに適用範囲の広いものではない、という点で両者は合意できているので、グラデーション論法って言っているほうがグラデーション論法を使っているんだ!とかそういう泥沼の戦いはどうぞ好きにやってもらいたい。そういう地獄のような殴り合いが見たいんだ僕は。

 

 エヴァに逢うては原作の物語とは無関係にイラストや設定を消費し、ノベルゲームに逢うては類型的で抽象的な物語を消費するという、すべての要件に見事合致する極少数の奇特な人がデータベース消費理論の適用対象であり、その対象を書籍内の独自用法としてオタクと定義すれば、少なくとも表面上の無矛盾性は担保されます。なにしろ世界は広いので、すべての要件を満たす人もどこかには存在するでしょう。

 

 以上のことからデータベース消費理論は無矛盾であり、限定的に現実に妥当する理論であるということが分かって頂けたかと思います。

 

 でっていう。