文化庁の原則をもねじ曲げる強いあの手この手によって収束させられる助成金をそれでもなお確保しようとするならば激おこ高裁判決文のような力を想定するよりも風にそよぐ天然パーマ


  東京都の演劇を主とした国際芸術祭、フェスティバル・トーキョー14 (以後F/T14) のコンセプト文がふわふわ過ぎると僕のTLで局所的に話題になっています。

 

フェスティバル/トーキョー14 コンセプト

 

 !!!!光をもねじ曲げる強い磁場によって収束させられる多様性をそれでもなお確保しようとするならば、その磁場をも破壊するブラックホールのような力を想定するよりも風にそよぐ葦のような柔構造を思い描いてみたい!!!!

 

 はい、のっけから飛ばしていますね。光をもねじ曲げる強い磁場、すごく強そうです。相対性理論のミクロな世界にまで行くと磁場が中性子に影響を与えるとか与えないとかなので、第五の力だよ!よりは相対的な妥当性をそこはかとなく感じなくもなかったりもするかもしれませんが、なにしろ強そうなので意気込みは十分に伝わってきます。きっと面接試験とかではこういうのが重要なファクタなのでしょう。本当に「有望な新卒なんてどこからも採用することはできない」と諦めかけたときにこそ、「御社にはわたしのような人材が必要なのではないか」という地の底からのうなり声が聞こえるはずであると言いたい。

 

 固有名詞を避けてはいますが、明らかに美味しんぼの件を指示して、風評被害という名の同調圧力により表現が敗北し真実は隠されてしまったみたいな周回遅れの知見を示すだけならばともかく、その後漫画は敗北したけどアートがまだ存在している!!!!というナチュラルなアート大上段ポーズがいかにもアートミンっぽくてとてもふわふわアート怪文書です。筆者の市村作知雄さんという方、いったいどういう方かというと、2006年4月に横浜大倉山記念館の館長として業務開始すると同時に背任行為で横浜市から公金を詐取し、2009年には横浜地裁で異例の付言を加えた有罪判決を受け実質の館長職解任命令を下される判決文の解釈の問題として従わず居座るなど、まぁ色々と折り紙つきの方でうん……って感じではあります。おかげさまで昭和59年以来大倉山記念館を拠点に26年間にわたり若手音楽家に演奏の機会を提供してきた水曜コンサートは指定管理者の任期終了と時を同じくしてその歴史に幕を閉じることとなりました。

 

 だから今こそ、「東京高裁の判決文の力」が必要とされている。

 

 このふわふわアート怪文書に対して、世のあらゆるふわふわアート怪文書を問答無用で「ヤバイ!」「アツイ!」「間違いない!」と圧倒的語彙感で褒め称えるアクロバットを本職としている方たちから今回は何故か嘲笑の声が上がっています。

 

 

 偽札アートでおなじみの黒瀬くん率いるカオスラウンジはF/T11への参加経験もあり、ずいぶんなゴロニャン具合だったのにえらい手のひらクルーするなぁと思ったら、3年につき1回分しか助成金を支出しないという文化庁の枠組みをも掻い潜り、ある時はフェスティバルの名前を変えて連続申請したり、あの手この手を使って助成金をゲットしてきては気前よく寄生させてくれるF/T13までの総合ディレクター相馬千秋さん謎の解任をされて以降初の、新体制でのF/Tになるわけですね。寄生先にうま味がなくなったら律儀に砂を掛けてからすっぱい葡萄をするゲンロンケンポーの正しい作法はつつがなく継承されているようです。

 

 さて、ふわふわアート怪文書の常であるように、今回のこれもまたずいぶんと目が滑る文章でとても目が滑るので目が滑って論旨を掴みづらいのですが、というかコンセプトという表題がついた文章でいまいちなにがコンセプトなのか見えてこないというのはもうその時点で問題であろうとは思うのですが、僕とてエミュとはいえふわふわアートポエマーの端くれ、頑張ってツルツルと文章を解釈してみたところ、結論に相当しそうな部分はこれは確かに黒瀬くんたちは気に入らないかもしれないなぁという感じではありました。

 

 以下、ふわふわアートコンセプトを平叙文に翻訳した大まかな概要です。

 

<収束する多様性

・真実は多様性の担保によってしか存在できない。故に、表現の多様性は守られなければならない。
・そこにはアートの力が必要!(謎
・そのためにF/Tは保守的でない、より良い組織を目指す!
・周囲と自らの立ち位置を自覚することだけが、今の時代を照らす光となる

 

多様性と少数者>

現代アート多様性によって担保されている。
多様性の担保は平和を齎す
・奇抜なだけでは、現代社会ではありふれたものの一つでしかなく、アートとは言えなくなって来た
多様性が担保された現代では、アーティストは社会のインサイダーとして成立することが必要
現代アートが、単に奇抜なものとして埋もれていくか、社会のインサイダーにあっても成立し新しいアーティスト像へ変遷していくか、これから見定めることになる

 
  この文章の中でF/T14のコンセプトに相当するのは「多様性が認められる現代社会においては社会のアウトサイダーとして奇抜であろうとするだけでは結局は多様性の一部に過ぎずアーティストとは呼べない。社会のインサイダーにあっても成立する新しいアーティスト像へ変遷していく必要がある」という部分であろうかと推察されます。反体制反権力ぶって、頑張って奇抜であろう個性的であろうと頑張った結果、みんな似たり寄ったりの無個性なグズグズメンヘラアートに帰着する現状を批判するとともに、F/T13までの方針から刷新し、質実剛健な新生F/T14を宣言しているものと解釈できますね。参加アーティストとして助成金アートに寄生することを許されないばかりか安直な反体制主義を痛烈に批判されたとあってはそれは黒瀬くん、面白くないでしょう。

 

 ではここでF/T13以前の参加アーティストたちの輝かしい軌跡を振り返ってみましょう。

 

 バナナ学園純情乙女組:公演中に役者が観客の女性相手に強制わいせつ

 カオスラウンジ:F/T11において届出なしでキャバクラの模擬店

 PortB:三日三晩色んなところでお茶飲んでウロウロして喋るだけの演劇

 

 なんというか、もう完全に社会に反抗してさえいれば一端のアーティストって感じの安直な強い磁場しか感じ取れませんし、国際的な舞台芸術フェスティバル、と銘打つには?となるような演目が目白押しですが、俺が演劇と言ったら全ては演劇なのだてきに演劇の定義を拡張しまくった現代演劇という概念を便利に使って公金でやりたいことをやりたいようにやっているだけとしか思えないのはきっと僕が芸術を解さないつまらない凡人だからでしょう。とはいえ、新体制となったF/T14がそういった相馬千秋さんが率いたグズグズの過去と決別し、社会のインサイダーにあっても成立する新しいアーティスト像を求めるのもむべなるかなというものです。ちなみに前総合プロデューサーの相馬千秋さんが現在どういったプロジェクトに関わっているかといいますと、一週間みんなでお泊り会して2か月後にポエムの発表会するだけっぽいような、なんだかよく分からないことを相も変わらずやっているようで、このへんの一挙一動も風にそよぐ天然パーマのような粘着構造を思い描きねっとりとヲチしていきたい。

 

 地元のNPOが地道に育ててきた水曜コンサートという場を散々ひっかきまわし、東京高裁敗訴サイバンカンリニンサン激おこ判決文までいったアートネットワークジャパンと市村作知雄さんを相も変わらず重用しているあたりは非常に気になって気になるポイントではありますが、体制を刷新して挑む新生FF14、この現在に新しいアーティスト像を描くことにエネルギーを注ぐか、また着任と同時に即背任行為で公金を不正取得する流れの方が速いか、ここしばらくは楽しみながら眺めていたいような気分であると共に、ともあれカルタゴは滅ぼされるべきだと考えます。

 

謝辞

 相も変わらずなクソエントリをこんなところまで読み進めてくれた読者諸兄とはよりよい関係が築けていると思っている。きっと相思相愛であるに違いない。