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第二回本物川小説大賞クリスマス大会、大賞は大村中さんの「でも、女装を着けて」に決定しました!!

本物川小説大賞

 平成27年12月ころから12月25日にかけて開催された第二回本物川小説大賞クリスマス大会は、選考の結果、大賞1本、金賞1本、銀賞2本が以下のように決定しましたのでご報告いたします。

 

 大賞 大村中 「でも、女装を着けて

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twitter.com

 

 受賞者のコメント

「まずこれ大賞とかあったんだ!?」が連絡を受けた際の素直な感想でした。次に大賞という名誉な賞をいただけたことに対する感動が徐々に沸き上がり、今はまだ実感がもてていないのが正直なところです。
 こういった形で評価されるのは慣れていないため、今現在もむず痒さでいっぱいですが、この評価を真摯に受け止め今後の創作活動に励んでいきたいと思います。
 また本物川氏からイラストをいただけるそうで、本音を言えばこれが一番嬉しいです。イラストの利用に関しては後で本物川氏に確認しますが、可能であれば同人活動での書籍化の際に表紙(または挿絵)として使用できれば、と考えております。
最後に、このような賞を賜り本当にありがたいかぎりです。このような機会を与えてくださった本当川氏に、心よりの感謝を。ありがとうございました。

 

 大賞を受賞した大村中さんには副賞として本物川の描いたイラスト贈呈です。好きに使っていいんで勝手に出版して下さい。

 

 金賞 karedo 「ボゥ・アンド・スクレイプ -執事喫茶の悪魔たち-

 銀賞 ポンチャックマスター後藤 「魔弾

 銀賞 しふぉん 「蒐集癖

 

 というわけで真冬の素人黒歴史小説甲子園 第二回本物川小説大賞、陰湿な大激戦を制したのは大村中さんの「でも、女装を着けて」でした。おめでとうございます!

 

 選考の透明性を確保するために、以下、闇の評議会による選考過程のログを公開しておきます。

 

 みなさん、新年あけましておめでとうございます。昨年末の本物川小説冬の陣クリスマス大会の大賞を決定するために召集されました闇の評議会、議長の謎の概念です。

 謎のたぬきです。

 謎のねこです。

 第一回本物川小説大賞は外部に審査員をお願いして籠原スナヲさんに決定して頂いたのですが、実際にお願いしてみて「あ、これは相当な労力やぞ」ってことが判明して、そんな気軽にお願いするものじゃないなということになりまして、次からは自分たちでどうにかしようという話になり、今回、大賞選出のための闇の評議会を招集することとあいなりました。まあ三人居るのでそれなりの中立性は確保できるのではないかと思います。次回以降もおおむね同様の制度で運用していくことを検討しておりますので、まあ色々とあるでしょうがひとつご了承いただきたいということで。よろしくお願いします。

 よろしくお願いします。

 よろしくお願いします。

 

 さて、それではひとまず全作品を投稿された時系列順に一通り紹介していこうと思います。


 まずは起爆装置精神的全裸修行です。

 毎度毎度、TLの流れと大澤さんのノリで曖昧に始まる本物川小説大賞ですが、今回の冬の陣が始まるきっかけとなった投稿ですね。同級生の男で抜く、という普通ならなかなか経験したことがないようなアレのはずなんだけど、不思議と共感を呼ぶ謎のパワーがある掌編に仕上がっています。

 まあなんというか純文学っぽい掌編をさらっとお出ししてくる辺り、起爆君の文才に正直嫉妬を感じる部分が無くもないですな。心情描写が巧みで同じ書き手としては歯噛みしながら読んだ作品ですわい。

 同級生の男でオナニーするというテーマのインパクトと、それを妙なリアルさで書けている点が秀逸でした。ぼくの評価の中では、大賞候補まであと一歩の作品です。他のトップ層の作品と比べると若干短く、大きな展開に欠ける点が、一歩及ばなかったポイントですね。とはいえ、このコンパクトさでこれだけの印象を残せたのは見事でした。

 リズム感の良い文体も気持ちが良くポンポン読めますし、連作短編の形式で連載中の作品になりますので今後にも期待したいですね。

 

 はい、次に起爆装置のクリスマス小説に触発されて大澤さんが書いたクリスマス掌編クリスマスフラットホワイトファイアーワークスです。このへんから曖昧に小説大賞が始まりました。謎の概念は謎の概念なのでノーコメントです。

 これは誰かに語り掛けている感じの文体で、相変わらずの高い文章力をもって、かつての冴えない思い出をありありと伝えているのが実に良いと思った作品です。クリスマス小説としても、クリスマス=恋愛というセオリーをはずしてクリスマスの冴えない思い出という点を綴ったあたりも僕は評価できるかなと思いました。

 この作品では、現実にはなさそう、いやでもありそうかも、と思えるような微妙な体験が、特別なクリスマスとして語られているわけですね。華やかな体験ではないのだけれど、こんな体験をしてみたかったと思わせる点が強いです。一人称による単純な構成ではここまでの効果は出なかったはずなので、主人公が過去を振り返る形を選んだ点も、構成力として高く評価できます。

 

 はい。つぎは前回の本物川小説大賞の覇者、DRたぬきHoly Shit Christmas。ここで大澤ひきいるキラキラ軍とたぬき率いる怨念軍で小説バトルしようみたいな曖昧な話になってきました。曖昧ですね。
 本物川小説大賞覇者らしい安定してちゃんと書き物として成立している感じで、手堅いという印象。今回の小説大賞でもひとつの基準になるものと思います。

 この作品については謎のたぬきなのでノーコメントでお願いします

 「クリスマスに怨念を感じるグループのテロ」というなかなか難しいテーマから、うまく話をまとめており、骨折も少なくスムーズに読める作品でした。
読者を裏切る急展開のようなものがうまく組み込めると、大賞候補に入ってくる内容になるのではないかと思います。

 

 はい。つぎはどこもさんの聖人の誕生。先日連載が終了した聖戦士マリオンのスピンオフ作品になっています。
 話としてはただただシリアナをほじっているだけなのですが、インフレ具合がそのままギャグになっていて勢いで笑わされてしまいます。単発の短編でなく別の本編のスピンオフという性質上一般性に欠けるところがちょっと難ですが、本作を楽しめた人は本編の聖戦士マリオンも読んでみると良いでしょう。

 これはあれですね、聖性というものを穢すためにはどうすればいいのか→肛門を犯せばいいという斜め上の発想にまず驚いた作品ですね。独特の速度を感じさせる文体でスルスルと読めます。最初は思わず描写で笑ってしまったが後半に読み進めるにつれてエロさが比例して上がっていくのは必見ですね。クリスマス要素は薄いのでそこだけは残念かなと思います。

 「あまりの穢れなさによりケツの穴に入れたディルドが浄化され消えてしまう」といった強烈な飛躍が持ち味のどこも氏。独特な世界観が本作でも発揮されており、一見の価値ありです。ただし、『聖戦士マリオン』の外伝ということで、やはり本編を読まないと理解しにくい点も多く、独立した作品として見るにはちょっと無理がありそうです。

 やはり単発で完結している短編のほうが射程が長いという部分はありますね。

 んむ。

 

 つぎは不死身探偵クリスマスクロスオーバーステップ。キラキラレズ小説ですね。

 書きたくて書いたという感じがあって好感が持てます。お話としての捻りやオチは特にないのでダラダラと雰囲気で読む感じになりますが、この路線で行くのであれば牽引していくためのポエティックな表現などをもっと高めてほしい感じはあります。

 雰囲気物に厳しい概念

 別にそういうわけでは……(笑

 映画鑑賞から、相手が寝てしまった後の肉体に触っている部分が特に不死身さんの描きたい部分で、情欲を感じますね。疾走するかのように改行なく書き続けている辺りが特に。しかし寸止めなのがらしいといえばらしい。クリスマスに二人で過ごすという小説でもあるのでクリスマス小説としての必然性もあるかなと思います。

 恋人同士という体裁があっても実際に体を重ねるには勇気が要る……という初々しい心境がよく描けていると感じました。キャラクターそれぞれの反応も自然で、よくキャラクターがイメージできているのがわかります。ただ、テーマとしては同性愛であることや、片方がハーフであることの特殊性が発揮される部分はあまり描かれておらず、やや消化不良の感がありました。もしかすると、普通の男の子と女の子の話にしたほうが、より完成度の高い作品になったかもしれません。

 おそらくそこはただの作者の性癖でしょう(笑

 書きたいものを書いた!良い言葉だ。

 

 つぎは大澤さんの二作目、来栖と増田。くるすとますだでクリスマスだ。はい。

 羽が生えてる女の子とバスケ部の男の子のたわいないお話ですね。羽についてどう思ってるのかと言う話を転がしていったらいつの間にか一緒にクリスマスを過ごそうという事に。羽は進んで見せるものでも無かったけど、ひそかな私の好きな所というのが良いですね。暗喩的な何かなのかなと思ったりしました。

 「ひそかに愛している自分の美点を人に見せることへの恐れと期待」という難しいテーマを、暗喩によって表現したところに、この作品の妙味がありますね。「羽」というオブジェクトを選んだことで、隠喩によってテーマがうまく受け止められており、直接的な表現よりも自然に共感できます。クリスマスという必然性はやや薄い気もしますが、掌編であればこのくらいのつながりで十分という印象もあり、評価はやや迷うところです。

 

 つぎは左安倍虎さんの闇を照らす瞳。話の展開としては定石通りのベタベタ恋愛ものながら主人公とヒロインのキャラ設定でちょっと新奇性を演出している感じ。短編ではなかなか難しいところもあるのですが、もっとキャラ造形のオリジナリティで読者を引き込めればより魅力的な作品に仕上がりそうです。

 中二病を演じている男子と女子の恋愛もの。結論から言えば末永く爆発してほしいですね。中二病的言い回しもしっかりしていて短いながらもこの話の基幹になっている部分も良いと思います。クリスマス要素は薄め。

 いわゆる典型的な中二病同士の恋というテーマ設定が独特でおもしろいですね。ただ、作中ではどちらもそれほど深刻な中二病とは思えず、特に女の子のほうは中二病ではなくただ男に話を合わせているだけのようにも見えます。それはそれでリアルなのだけれど、二人とももっと深刻な中二病として設定したほうが、作品の印象としてはもっと強力なものになったかもしれないと感じました。

 

 つぎは掘木環クリスマスローズぷっちょってなんだよ。

 序盤から読者を引き込む勢いと妙な文体の魅力はあるので、オチをブン投げずに丁寧に着地させれば意外とバケたのではないかという気もします。こういうのもあってこその本物川小説大賞って感じなので次回以降にも期待したいですね。

 キラキラ小説が続いた中の怨念小説。クリスマスにキラキラ小説を書こうとして書けなくて煩悶するおじさんの話。クリスマスに独り身で小説を書こうとして書けない侘しさがあるけどオチが投げっぱなしなのがちょっと残念ですかね。

 ぼくこの作品10点満点中7点つけてるんですよね。全作品中でもわりと上位。

 ザワザワ……。

 ふぁっ!?

 まあ単純におもしろかったんですけど、特筆すべきは文章力の高さです。読んでみればわかると思いますが、一文が簡潔でとても読みやすく、テンポがよいのです。オチでガンダムローズを組み立てる流れはやや唐突でしたが、それにしてもなんだかよくわからないおかしみがあります。個人的には非常に好印象なんですが、こんな作品をあまり推すとおこられそうなので、大賞候補からは泣く泣く外した作品です。

 まあ、たしかにあの短さで少なからず笑ってしまっているのでコスパはいい感じしますね。

 

 つぎは既読風船インビジブル。個人的には大賞候補の一角です。

 9割5分までスルスル読ませて最後の最後でガーンとひっくり返す手腕が素晴らしい。手術シーンなども描写にリアリティが感じられて(本当にリアルなのかは自分には判定できないが)よく練られている感じがある。描写力で読者をグイグイ引き込んでいくパワーがそのままオチを予測させないミスリーディングの役割を果たしていて、熟練のマジシャンみたい。

 既読先生の怨念もの短編。ひとりの男が幽体離脱して今の自分の状況を第三者的に見ている。二転三転させてからのオチに見せかけての本当のオチを用意するという仕掛けがなされていて、その構成に思わず舌を巻くほどの完成度の高さ。そして医学用語や薬品についての知識がある事も伺える描写がすごい。このレベルまで来るとクリスマス要素とか関係なく推していきたい作品の一つですね。個人的にこの構成の仕方は見習って自分のモノにしたい、そんなふうに思える作品です。

 ぼくのコメントシートには「まぐろ」って書いてありますね。

 はい。

 

 見晴川いよ狡い大人が嘘を奇跡と粉飾した冬の夜のこと
 大人のほろ苦恋愛小説。いちおう叙述トリックてきな感じのオチが用意されていますけれど、いちおうという感じでそこまでしてやられた感などはありませんでしたね。でも根本的な文章力が高いので面白く読めました。

 キラキラ小説。同性恋愛ならではの葛藤する恋愛感情を描いた作品で普段そういうのを読まない自分としては新鮮な感覚で読めた作品。心情描写が巧みだと思う。クリスマスはイルミネーション描写程度なので薄め。

 「嘘は吐いちゃいけないというけど、ヤってないけどデキちゃった、なんて大嘘が奇跡として罷り通る今夜くらいは、この嘘も見逃してはくれないのだろうか」というフレーズが魅力的で、この後の展開に強い興味が持てました。ただ、この強いフレーズの対象となる「嘘」は、淡く優しいもので、「見逃してくれないだろうか」と切望するようなものではなさそうにも思えます。作者には魅力的な文章を書ける力があるので、より大きな展開を期待したいところです。

 

 つぎは胡紫ネズミのお城の真ん中で

今回のエントリー作品の中でもっとも読者の心をザワザワさせたのは文句なしに本作でしょう。語り部の僕も僕の彼女も底抜けにクズながら、かなりの部分で多くの人の共感を呼ぶところがあり、意外と一般性があるっぽい。全体的に笑いのほうに振っているけれども、まったく同じ話でも文体次第で純文学にまで高まりそうなポテンシャルを感じるので、そこがちょっともったいない感じはしてしまいます。

 怨念小説。事実90%と言う事でほぼ私小説としてこれを読んだけど、こむらさきさんの恋愛相手が中々キッツイ。32歳でそれはちょっと…というような人物。しかし当時のこむさんも中々に仕上がっているので割れ鍋に綴じ蓋という表現がピッタリ?しかし嫌いじゃないけど思い出すのが辛いというのは既に拒否反応として出ているのではないでしょうか。精神的全裸ポイントとクリスマス怨念度がかなり高めである意味おすすめしたい一本。

 実体験的な内容の小説ですね。自分も彼女の服とか気にしたことがないので、とても共感できます。とはいえ、実体験に基づいているためか、大きな盛り上がりはなく、レポート的な雰囲気です。読みやすい文章でテンポもいいのですが、小説として見ると、もう少し展開がほしいかなと感じました。

 

 つぎ。黒アリクイクリスマスイブの夜に

 なんのエクスキューズもなしに日記から始まる体裁で「語り部が誰なのか」がトリックになっています。実際に僕はまんまと引っかかったんですけれども、大オチの見せ方がわりとアッサリしていてしてやられた感があまりなかったので、見せ方次第でもっと化けた可能性を感じます。本作が生まれてはじめて書いた小説ということなので今後にも期待したいですね。

 怨念小説。日記を読むような形式で導入開始。男がどういう風に暮らし、その後のイベントを楽しみにしているのかとその後の対比ですね。ある意味一番愛が深いとも言えますが……。小説初挑戦ということであまり長く書けなかったのでしょうが、次回作品にもぜひ期待したいところではあります。

 約1800字という非常に限られた文字数の中でサスペンスを演出するのはなかなか大変なものです。この短さの中でも、必要と見られる道具立てはしっかり揃えられており、一読して混乱することなく読めるのは高評価。しかしやはり短すぎる中で組み立てたためか、ラストに意外感が薄いのは惜しいところです。プロットにひねりを加えて、もう一回り大きなサイズの作品に挑戦してみてほしいと思います。

 

 つぎ、百合姫しふぉん蒐集癖
 これはすごいです。素晴らしい。話としては淫靡な少年に誘惑されてナニを致しまくるだけの話なのだけれど、グングン読ませる文体が圧巻。文章力が抜群である。完全なストレートの剛速球で勝負してきたという感じ。すごい。

 同性愛要素のあるキラキラ小説。圧倒的な描写力で有無を言わさずに物語に読者を引き込んでくる魅力がある短編。まさに文学と言うにふさわしい表現と知識量に裏打ちされた単語の数々は作者の教養の高さを伺わせる。クリスマス要素が薄いのは残念だが、それを除いても一度は読んでみる事をお勧めしたい作品。

 淡々としながらも陶酔しているという主人公の感覚が、独特な文体でよく表現されています。やや衒学的な感はあるものの、読みにくいというほどではなく、雰囲気のある文章でした。ただ一点、選ばれるほどの「闇」を抱えたはずの主人公のその「闇」がどんなものだったのか、明確にならずに終わったのは惜しかったように思います。

 

 つぎ、大澤さんのみっつめ。クリスマスがやってくる。大澤さんが今まで書いた中で一番短いですね。一発ネタです。

 大澤さんのキラキラ小説三本目。誰が名づけたかクリスマス。クリスマスが到来するまでの間の日常を静かに過ごす二人のお話し。何はともあれ、その日がやってくるまでの日々をたんたんと、しかし幸せそうに達観して過ごしている描写が良い。ショートショートとしてよくできている作品だと思う。同時にクリスマス小説としてもポイント高し。クリスマスが単なる祝日として使われるのではなくそこから転じた発想をしたのが良い。短いですが僕は大賞候補に推したいですね。

 「クリスマス=巨大隕石」というアイデアのもとに、世界滅亡前の風景を描くという試み。パニックをあえて描かず、静かな日常を描くことで、終末感が漂う作品として成功しています。ただ、やはりSFとしてはテーマがありがちな部類に入るかもしれません。この作者の作品は、初期の頃から比べて文章力の顕著な向上が見られます。

 

 つぎ、りっくクリスマスの夜に

 池田サンかわいい!奥手同士の恋愛のアレてきなアレ。うん、なーなーにするのはよくないので男子諸君はちゃんとすべき時にはちゃんと言葉にしような。

 キラキラ小説。コンビニでクリスマスで男女のイチャイチャ爆発しろ案件。でもこういうのがいいんですよみたいな、そういうイチャつき方で池田さんがひたすら可愛い。とにかくキャラクターが良いです。よく立ってます。

 大きな展開や驚くような仕掛けはなにもない作品です。文章も際立ってうまいとは言えないかもしれません。けれども、この作品にはなにか読者を引き込ませるものがあるように思います。それは会話のリアリティかもしれないし、キャラクターの魅力かもしれませんが、はっきりと指摘できない、総合的なものでもあります。登場人物の数が最小限に抑えられ、そのため細やかな心理の動きをしっかりと追うことができている点が、技術的には評価できます。クリスマスというテーマを自然に消化できており、ぼくの採点表ではトップテンに入っています。

 

 つぎもりっく。怨念軍との掛け持ちです。 Merry Christmas from

 中盤の壮絶なアレをグイグイ読ませていく文章力はさすが。オチはちょっと唐突な感じがあり、もう少しストンと納得できるような伏線を序盤からはっておけばもっとスッキリしたのではないかと思う。ともあれじゃあ両方書きますわ~ってサラッと両方ちゃんと仕上げてくるあたりに安定した力量の高さが伺えます。

 りっくさんの怨念側小説。クリスマスイブに起こった4人の、数奇に交わった悲劇。
視点変更がかなり行われるが混同する事なく読める。胸に突き刺さるような辛さがある。多少落ちが強引だけど復讐者となるのも已む無しかなと思わせるような経緯で納得感はある。

 「犯罪者を強く憎む人物による死刑執行」というテーマ自体はおもしろく、また文章からは作者の潜在的な力量が十分に感じられます。ただし、やはりこのテーマ、このプロットに対して、この分量はあまりに少なく、消化しきれていないように感じました。最低でも倍以上のサイズが必要な内容と思われます。

 

 つぎです。ポンチャックマスター後藤魔弾

 これもすごいです。勢いで読ませていく厚みのある文体。魔弾に対する説明の薄さがまたホラーっぽくて良い。いま、この語りは誰の視点なのか、というのが曖昧に変化していくので分かりにくいのだけれど、それすらも設定に回収されているので長所として発露していますね。

 他の参加者とは一線を画するセンスを持ち、圧倒的なポンチャック力で強引に読ませてくる力強さがある。この物語の解釈の仕方はちょっと難解な気がするけど雰囲気で楽しめるのでぜひ読んでほしいし、どういうオチになったのかを考察する事も楽しんでほしいと思う。個人的には大賞候補のひとつですね。

 「銃で撃たれると人格が入れ替わる」というアイデアのもとに、銃の視点から人格の入れ替わりを一人称で描く特殊な叙述です。視点の移り変わりに心象風景の描写が加わって、地の文は錯綜しているものの、話の筋は単純なので、読者は混乱しつつも意外なほど自然に読み進められます。このねらいはとてもおもしろいのですが、作者はあまり自覚的にこれを構成しているわけではないのか、結末が順当すぎて、やや物足りないように感じました。ラストにもうひとひねりあれば、大賞候補に推したかった作品です。

 

 つぎ。yono猫のクリスマスソング。小説というか詩みたいな感じですね。ちょっと評価は難しいですがわりと好きです。

 ひとり身の少女の膝に寄り添う猫が可愛いですね。世界観をもっと広げて分量を増すともっと良くなると思います。

 人を楽しませて知識を与える図書館という存在と、その役割に反して誰もやってこないという背反に、自己愛と現実のギャップが投影されていることが伝わります。柔らかい雰囲気で生臭さはなく、過剰な願望充足もなくつつましやかで、共感できる作品です。この規模感、このテーマなら、小説という形よりも、童話や詩のほうが適しているように思います。

 

 つぎ。DRたぬきクリスマスオブザデッド。タイトル通りのゾンビものですね。
 ハッピーエンドっぽい終わり方をしているけれども本当にそれでええのんか?みたいなブン投げ感もある。ちゃんと説明づけしていくのかブン投げてしまうのか曖昧で、どっちかに振ったほうがスッキリしたのではないかという気はする。平均してうまいだけに欲が出てきてしまう感じ。もっと尖ったものを書いてみてもよいと思う。

 これに関しては別のたぬきが書いたものなのでノーコメントです。

 約1万5000字の作品で、話の展開がテンポよく、サイズのわりにさくさくと読み進められました。主人公がゾンビという異色の設定がおもしろく、ラストまで読者の興味を引っ張る構成とプロットが高く評価できます。ただ、かなり急いで書かれているのか、細かな骨折がいくつかあり、文章も煮詰めきれていない感があります。モミの木の話もやや取ってつけたような感があり、序盤からもう少し木の特殊性は強調しておきたかったところではないでしょうか。しっかりとした推敲を経ていれば、大賞候補の作品になった可能性があります。

 

 つぎ、黒アリクイ二本目。爆殺怪人クリスマ・スー。ブン投げ系ですね

 怨念掌編。一人の科学者が怪人を作ってクリスマス爆発を目論むが…という内容。言ってしまえば爆発オチ。怨念ポイントは割と高めで書いた本人のクリスマス憎み具合には共感を持てる。

 クリスマスにリア充を爆殺するためにマッドサイエンティストがついに最凶の怪人を作り上げる……というテーマ自体はおもしろいものの、やはりこれではプロットが貧弱すぎると感じてしまいました。せめて、ダイナマイトを放り込んだから爆発した、ではなく、もう少しなぜ爆発してしまったかについて納得できる伏線がほしかったです。

 

 つぎ、かくぞうクリスマスをぶっ飛ばせ

 ジェット橇なんか出て来たりしてパンクなサンタクロースの話。序盤から物語に引き込んでいくパワーはあるのだけれど、後半になるにつれ特殊な設定が十分に伝わってこない感じがあり、あれ?これは今なにをどうしているところなんだっけ?と首をかしげながら読み進める羽目になるのであまり読了時点での爽快感がなかった。設定についてちゃんと説明するか、説明が必要になるような複雑な設定は排除するか、なんらかの工夫が必要な感じはある。

 クリスマス怨念短編。サンタクロースがクリスマスの夜に荷物を配送するうえで色々トラブルが起きる中でのストーリー。どっちかっていうとライトノベルを読んでいるような感覚がある。主人公の軽妙な語り口で語られる物語には親しみやすさを覚える。結局主人公は怒りに任せた結果、不幸を背負いこむのだけど一緒に笑い合える仲間がいるというのはやはりいいものだと思った。

 好き嫌いの大きく分かれる作品ではないでしょうか。プロットは単純で、若いサンタの失敗を仲間が団結してカバーするというもの。映像にしたらきっと美しいだろうと思えるシーンが散りばめられており、映画的な小説になっています。ただ、文体が非常に饒舌で俗っぽい一人称となっており、映像的なシーンへの没入を難しくしているように感じました。地の文は三人称で淡々と語りつつ、必要な部分は主人公に喋らせるかたちでもよかったかもしれません。

 

 鹿聖地に二人

 都合で恋人の真似事をさせられる腐れ縁のお友達みたいな定番のやつ。オチがブン投げ気味のアッサリした感じではあるけれど、ストンと納得できる感じで気持ちが良い。

 同性愛者である彼女に対して届かない思いを抱く男というお話し。クリスマスと言えば恋愛、別れ話はつきものだが同性愛者に届かない思いを抱くというのは捻りが効いている、と思う。

 本編では少し消極的すぎるように感じられる主人公と、鈍感すぎるように思えるヒロインですが、その理由が結末で明かされるという構成になっています。
文章は読みやすく、プロットに矛盾もなく、整っている点が評価できます。
ただ、やや淡々とし過ぎている感もあり、ヒロインの聖地への思い入れや、
主人公がなぜヒロインを諦められないかといった細部を、もう少し掘り下げてもよかったかもしれません。

 

 つぎ。しかたまたかしクリスマス。すごい。
 系統としてはポンマスさんとかどこもくんに近いかもしれないけれども、さらに一段階振り切っている感じがある。余人には評価が難しい。

 独特の世界観と単語の使い方によってスピード特化した文章についていける人はいるのだろうか?というほど速度に溢れている。アクは強いが独特な面白さのエッセンスはあるので一読してみてほしい。

 プロットと呼べるようなものは特になく、連想ゲームの要領でころころと話が転がっていくのが楽しい作品です。突飛な発想の飛躍が、思いがけない笑いを突発的に生んでくれます。冒頭いきなり謝肉祭からの「!!!おいしいのだ!!!」でもう笑いました。独特のリズムもあり、流れに乗れれば楽しく読めると思います。ただ、この長さで最後まで連想ゲームについていくためには、かなりのスタミナが必要。もう少しコンパクトであれば、評価はもっと高くなったかもしれません。

 

 つぎ、どこもくんの二本目、聖人審査

 もう好きにやってくれっていう感じですね。未完なのでひとまず完結まで走り抜けてもらいたいと思います。シリアナほじるだけでどこまで分量デカくなるんだ。

 聖戦士マリオンのスピンオフその2。ドリアンが説伏される話。まだ未完なのとクリスマス要素が皆無ではあるが、R-18作品として更にレベルアップしたエロ描写がたまらない。完結が楽しみな作品。

 もはや一人だけ明後日の方向に突き進むどこもくん。彼はいったい何を目指しているのであろうか。聖職者たちがひたすら肛門拡張と性交に明け暮れる小説ですが、実際これだけハートマークが乱舞する文章を書き連ねられるというだけでも驚きです。

 

 TAKAKO☆マッドネス消えた新人声優

 小噺てきな感じ。特に斬新さとか意外さとかがあるわけではないが、なんとなく読んでしまう安心感みたいなのがある不思議な文体。文体じたいにノスタルジーを感じさせる。

 クリスマスイブに忽然と姿を消した声優の話。大山鳴動して鼠一匹という典型という感じですかね。

  プロットに近い形態で、出来事が淡々と語られていきます。ほほえましい内容で、登場人物にも好感がもてました。ただ、小説になる前のプロット段階という感じも強く、もう少し内容を詰めて分量として2万字程度の作品とするとちょうどよいテーマなのではないかと思います。

 

 不死身探偵 クリスマス限定!シャイニングポーラスター10連ガチャ! 祝祭の始まり。

 よくできたコメディ。神様の抽選に選ばれて幸運が、みたいなそれじたいはありがちなネタだけど、そこに10連ガチャあるあるネタをぶち込んで新奇性を見せている感じ。コモンのショボさとかレアでいきなり服がはじけるところ、トナカイのおっさんのキャラなどギャグとしての地力が高い。この路線が一番向いているのではないかと個人的には思っている。ギャグなので大オチにしっかり笑いをもってきてほしかった感じはある。
 キラキラ小説。クリスマスにサンタに扮した美少女とムキムキおじさんが冴えない男の前にやってきてプレゼントをするが…。今はやっているスマートフォン用ゲームでよくあるガチャを回すという要素が新しい。幸運を引こうとして結局不幸を引く結果に陥るというのはなんというか皮肉が効いているような気がする。締め切りに合わせてだいぶ過程を削ったらしいので完全版であればどういう内容になっていたんだろうと気になりますね。
 全体的にテンポが良く、1万3000字という多めの分量でも、細かいことを気にせず楽しく読めます。本物の(?)サンタからのプレゼントが10連ガチャというアイデアも秀逸で、下世話な話題に終始してしまうのもほほえましい。ラストもそれまでの展開からのギャップを感じて、悪くないのですが、もうひと押し、予想を裏切るようなもの(あるいはもっと壮大で理解を超えるような描写)があると、大賞候補に推せる作品になったと思います。この作品も、ぼくの採点表でトップテンに入っています。

 

 DRたぬきの二本目、聖夜に祝福を

 話の筋はなかなか突飛で面白いのですが、見せ方がひたすら独白というかたちになっていて、もうちょっと小説っぽく見せてくれたほうが良かったかなという感じがします。

 某小説家に影響された別のたぬきがかいたものなのでノーコメントです。

 文章がはっきりとしており、スムーズに読めました。「クリスマスを祝うことを禁止する法律」というテーマもおもしろいと思います。ただ、プロットは練り切れていない印象があり、事態が急転しているにもかかわらず、物語としては平坦な印象を受けました。飛躍する事態を結びつけるための狂言回しとして、名前をもった登場人物が少なくとも1人は必要に思えます。


 つぎ、左安倍虎さんの二本目、世界追憶遺産

 特に必然性のない身内ネタを設定を盛り込んだせいで一般性を欠く結果になっているので、短編でまとめるなら短編でまとめるでもっと設定をスッキリさせたほうが良い感じがする。地力が高いだけにノッケから若干ポカーンと読者を置き去りにしたまま速が上がって、そのまま追いつけないままフィニッシュみたいなもやもや感の残る結果になっているっぽいのが悔やまれる。

 これはSF系の作品で私にストライクですね。スクルージと自らを重ね合わせる主人公に共感を覚える。話の展開とオチの仕掛け方が相変わらず秀逸で読ませる作品になっている。クリスマス小説としてもポイントは高い。クリスマスキャロルを引用し、さらに登場人物がクリスマスについての仕掛けを行う展開になっているのでバッチリです。

 「クリスマスキャロルの現代版」というアイデアは、クリスマスをテーマに小説を書こうと思えば多くの人が思いつくものだと思います。しかし、実際に取り組むとなると、これがなかなか難しく、安易な考えではひどく独善的な作品になってしまうものです。この作品は、「負の感情を薬で抑制することの是非」という現代的なテーマを持ち込むことで、原作と違った味わいを出すことに成功している点が高く評価できます。
文章はややぎこちない部分もあり、テーマもしっかりと消化しきれていない部分があるものの、非常に難度の高いテーマに挑んでいる点、一定以上の水準でそれをクリアしている点から、ぼくの採点表の中では最上位の一角となっています。

 

 つぎ、しのはらしのらサイボーグは電飾の夢を見るか

 これちょっと分からなかったんですよ。読む僕のほうの問題の可能性もあるんですけど、3200字で落とすにはちょっと設定がなんか色々とあるのかな?みたいな、盛り込み過ぎの弊害かな?みたいな感じがしているんですが、分からなかったのでちょっと評価難しいですね。

 キラキラ小説。ニート男が改造人間にされて強化女子高生になった?と思ったらどうやら違う展開のようで…。サイボーグ描写は心が沸くんだけどオチが結局どうなったんだろう?という感じでちょっと消化不良。もう少し説明が欲しい小説かなと思った。

 「秘密組織が壊滅したあとに残された改造人間」というのはおもしろいテーマだと思います。文章は読点をまったく使用しないという独特のものですが、読みにくさは感じませんでした。ただ、プロットがひとつのお話しとして成立しているとは言い難く、宙づりな印象で物語が終わってしまっているように思います。せめて山下マミが自分を西葛西サトルであると考えるようになった経緯は明示すべきだったように感じました。

 

 つぎ、既読の二本目。バス、ギロチン、ねこ。あるいは生と死のはざま

 いきなり不条理なシチェーションから始まる系。雰囲気は良く引き込んでいく力は感じるが、実質的に謎解きやパズル要素などはなく夢オチなので、もうちょっとなにかあってほしかった感じはある。

 既読先生のリッドシチュエーションなショートショート。ちゃんと起承転結が短い中に詰め込まれています。あと猫が可愛い。猫が最後に主人公をフォローしているのも良いですね。展開はハラハラしてどうなるんだろうと思いましたが夢オチなのは少し残念だったかなとも思います。

 さば。

 はい。

 

 さまよううさぎ 日常的サンタ考察

 本当に普通の会話シーンを切り取っただけ、という感じで、あまり小説という感じではない。文章から地力は感じるので、もうすこし展開やお話のあるものも書いてみてもらいたい。

 キラキラ小説。サンタがどうやってクリスマスにあれだけのプレゼントを運ぶことが出来るのか?という疑問を天然系女子高生が話をするという話。空想科学読本っぽい考察の仕方だなー。話が飛躍するうちにサンタ=ニンジャとなるところで!?アイエエエエ!ニンジャナンデ!?クリスマス小説で恋愛ものじゃないというのが良い。

 いわゆる「日常系」のワンシーンを切り取ったような掌編。天然の友人と、その話にどこまでもついていってしまう委員長、その二人を一歩引いて眺める主人公という安定した構図で、話の流れもわかりやすいと思います。ただ、すべてにおいて王道を踏襲しすぎている感もあり、なにかひとつ、読者が驚くような要素をどこかに盛り込むと、よりおもしろい作品になるかもしれません。

 

 八朔 恋とはどこまでも苦く、懺悔は甘いものである

 定石通りという感じの短編恋愛小説。ただセオリーから言えば視点人物がフラフラしている感じで、男女のどちらに移入して読んでいけばいいのか迷うところがあり、そこはセオリー通りではないかな、という感じ。映像的にシーンを捉えていて、それを文字で説明しているような印象を受ける。

 キラキラ小説。正統派の恋愛もの小説。ケーキ屋に勤めるアルバイトの女子高生と、そこでパティシエをしているウガンダさんのお互いに交錯する思いを直球で投げつけ合うそんな話。傷つくのが怖いのは子供だけじゃない。大人だって、傷つくのは怖いんだ、という思いが胸にグッと突き刺さりましたね。

 よくできた掌編だと思います。表現がややそっけないものの、丁寧な組み立てで、キャラクターもしっかりと立っていて味わいがあります。「食べると失恋できるモンブラン」というモチーフが秀逸で、男の心と女の子の心が、ひとつのケーキを中心にして開かれていく構成は見事。もう少し文章に推敲が必要ですが、大賞に推せる作品と思います。なお、タイトルはモンブランに関するものに変えたほうがよいように思いました。

 

 不動 ザッハトルテ

 読む飯テロ。前回の小説もそうだったけど、この人は本当に食べ物を文字でおいしそうに表現するのが上手い。ただの小道具で済まさずに物語に必然性をもって食べ物が絡んでくるようになるとさらに面白くなりそうな気がします。

 ふどーさんの食い物キラキラ小説。食べ物描写にかけてはこの中で一番だと個人的には思います。何気に叙述トリックが仕込まれていてほほう、と唸ったりもしました。

 物語のようなものはなく、日常のワンシーンを切り取ったもの。出てくる花柚の柚湯や、ザッハトルテの描写が、あっさりしているもののそれが押しつけがましくなくて逆に興味を引きます。非常に短く、クリスマスである必然性も高くないですが、決して悪い作品ではないと思います。

 

 ここのめりくり

 習作という感じの掌編。とくに斬新さはないのだけれども文章じたいは上手で地力を感じさせる。もう少し長いものを読んでみたい。

 キラキラ小説。兄弟がクリスマスにケーキを食べる話だが…。兄の想いが強すぎて物悲しい。掌編ではあるが描写が巧みで読まされる

 幻想的な作品で、描写が工夫されており、読者の興味と疑問をうまくコントロールしています。オチにも納得感があり、文章はあっさりとしていますが、静かな余韻があります。弟とのエピソードをひとつ挿入し、その中でオチへの伏線を張ったりすると、より完成度の高い作品になるかもしれません。

 

 karedo ボゥ・アンド・スクレイプ 執事喫茶の悪魔たち
 かなりまとまりのよい短編。ただ肝心の執事長がわりと絵に起こそうとすると矛盾しそうな設定なので僕はイメージを結ぶのが難しかったですね。いっそ、もっと抽象的な描写に留めて読者の想像に丸投げしたほうがストレスがないのではないかという気もします。執事長が見せる推理のようなものも、まあ犯人を糾弾するわけではないので確たる証拠である必要はないのだけれど、それにしても説得力が薄い感じで、もうちょっと練り込みがほしかった感じ。飽くまで全体的な水準が高いだけに細かい粗が目に付くという話で、読み物としてのレベルは高いです。

 karedoさんの怨念小説。文章にそこかしこに散りばめられた用語に知識量の多さを感じる。今回は執事喫茶と言う事で執事についての服装や礼、そして紅茶なんかの用語がこれでもかと披露されて作品を彩っている。短編ながらキャラクターもそれぞれしっかり立っていて魅力溢れる作品になっている。個人的には大賞候補に推す作品の一つです。

 喫茶店を舞台にして、そこに訪れる客の裏に隠された事情を明らかにしていくというタイプの小説。キャラクターの濃い登場人物が執事喫茶の側に3人登場しており、連作の中の一話として書かれたものではないかと思われます。そのためか、この話の中心となる客自体はあまりキャラクターが立っておらず、構成的にやや不自然な印象を受けました。「善悪を問わず、客の背中を押す執事たち」というコンセプトはおもしろく、この後の展開が期待される作品ですが、ひとまず現時点では、ここまでを完結した1作品として評価したいと思います。

 

 さっきぃ☆竹田 性浪士 性夜 濃厚十二月編

 勢いで読ませるパワープレイは相変わらず。細かいクスッと笑いをどれだけ稼げるか、みたいな作品なのでもっと畳みかけるようにモリモリに細かい笑いを盛りまくると満足度が高いかも?

 クリスマス、オタサーの姫の為にオタクたちが様々な店を回って憤死しつつも食べ物を獲得していくが…。とにかくネタ満載な文章で僕は笑わずにはいられないくらい面白かった。漫画のパープル式部みたいな印象を受けた作品。

 オタサーの姫の囲みである性浪士たちがクリスマスのごちそうを手に入れるべくすごい勢いで奮闘する作品。ともかく全編パロディまみれで評価はとても難しいのですが、用意した道具立てをきっちり使い切って気持ちよく終わる構成力と、一気に走り抜ける勢いは高く評価できます。

 

 こころないあくま(ど)さきちゃんかわいいよね。これすごくすき。

 えっちな女装男子としてXつべ界のスターダムを驀進中のどニキですが、心身ともに女の子化が進んでいるようですね。女の子の一人称語りがかわいすぎてこれはもう女の子なのでは?この文体である程度の分量があるちゃんとした物語を読んでみたい。

 キラキラ小説。さきちゃんとその友達の女の子のやりとりする小説。クリスマスに彼氏にプレゼントを贈る為に見繕っているが…。ガールズラブ小説ということで女の子同士のほほえましいやりとりが心を絆されるけどよく考えてみたら若干ストーカー気味で怖い。クレイジーサイコレズ!さきちゃんはかわいいよね。

 作者が作者なのでどうしても登場人物2人が男の娘なのではないかと思いながら読んでしまいましたが、どうやらそういうわけでもなさそうです……。話の流れはわかりやすく、読みやすいと思います。もう少しサイコっぽさを強く出してもよかったのではないでしょうか?読者が怖いと感じるくらいな展開が入ってくると、作品としての完成度は大きく上がりそうです。

 

 たくあん ホワイトクリスマス。オナホのレポートですね。
 せっかくオナホを実際に使用してレビューするっていうところまで恥をさらしているのに、しょうもない羞恥心がこれでもかというほど付帯していて完全に台無しになっています。恥をかいただけで得るものなしって感じですね。

 厳しいwww

 テンガオナニーレポート。現役男子高校生の赤裸々なレポートは一見の価値あり。ないかもしれない。みんなも彼に贈り物をしよう

 ぼくの採点表では10点満点中2点となっており、全作品中では最低点なのですが、これはTENGAの使用感についてのレポートであり、その意味では勇気をたたえこそすれ決してけなすような代物ではないと思います。しかし、同じ評価軸で評点をつけると他のちゃんと小説を書いているひとたちに申し訳が立たないのだ、すまぬ、すまぬ……。

 テーマ設定は良いのでちゃんと精神的にも全裸フル勃起すればワンチャンあるかもしれません。次回に期待しましょう。

 www

 TENGAじゃない奴レポートワンチャンあるでな。

 エネマグラウィダーですね、わかります。

 はーいつぎ~~!

 

 大村中さんの、でも女装を着けて

 自分以外は誰のことも好きじゃない女装男子くんのお話。ネタとしては定番って感じで特に目新しさはないんですけれども、それでいて最後まで一気にグイグイ読ませる主人公の魅力がヤバいですね。最後の一文に全てが集約されていて、もうかわいくって最高です。

 キラキラ小説。女装を好む男子高校生がクリスマスイブに従兄弟に頼み込まれてデートをする羽目になるという展開。何故女装をするようになったのか、そして女装を極めて行くうちに従兄弟に半ば強引にクリスマスデートに連れ出されて、しかもそのあとにホテルに…という展開が実に自然で無理がない。同時に従兄弟は変態だなと思ったが、そこまで美しいのであれば間違いも起こしたくなるモノなのかもしれない。性欲は実に罪深い。そして女装男子はナルシスト。構成力と文章力、両方ともレベルが高くクリスマス要素も満たしているし、クリスマス恋愛話として女装男子と男の話でオーソドックスな男女恋愛という典型的な発想から外しているのもポイントが高いですね。

 文章力が非常に高く、単純な文章のうまさだけで言えば、今回の作品の中でトップと思われます。また、「女装してクリスマスデート」というテーマ設定もキャッチ―でおもしろい。主人公のキャラクターについて掘り下げが非常にしっかりとしており、無邪気なナルシシズムを自然な独白で表現している点も見事です。クリスマスである必然性はそこまで高くないという点だけが気になりますが、大賞に推したい作品です。

 

 たぶ つめたい。未完ですね。

 クリスマスに一人で過ごす女性の独白。続き物らしいけど未完なので残念。結末が気になる。

 未完成の作品で、1話を読んだだけではまだ評価するのは難しいですね。クリスマスは終わってしまったものの、ぜひ完成させてほしいと思います。

 

 ヒロマル 戦隊レッドと悪の女幹部 三つの星の物語

 エピローグから始まって最初に戻る構成。最初の数行だけで「いやもうこんなん面白くないわけないやん」ってなる感じですね。設定を思いついた時点で勝ちみたいなところがあります。最後はどうなるのか最初から分かっているにも関わらずちゃんと面白いからすごい。途中の謎解きなんかもそれなりに楽しめて面白かったです。若干遅刻だったのでそこは減点。

 戦隊物のリーダーと悪の幹部がちょっとしたイベントが切っ掛けで恋に落ちる。戦隊ものと恋愛という二つの要素をいっぺんに楽しめるお得な短編。敵と味方が道ならぬ恋に落ちるという定番なストーリーではあるが、それをしっかりとした構成でもって描き出してくるのは流石と言ったところだろうか。最初にエピローグを持ってきて、どうしてそうなったのかを語るという話の広げ方が良い。二人の関係の深まり方を星になぞらえたタイトルも憎いですね。

 「戦隊モノのリーダーと悪の女幹部との恋」というアイデアが斬新でおもしろいと思います。ただ、本編の内容は街コンの流れが中心で、戦隊ものの要素はあまり無く、最後の戦闘も基本的にはほぼヒーローとヒロインの一騎打ちとなっている点が気になります。戦隊モノと言えば、他にも小ずるい知将型の敵幹部や、リーダーに反目する一匹狼気質の戦隊メンバーなど、多様な要素が思い浮かびますが、そうした戦隊モノ特有の要素を排除してしまったことにより、戦隊モノである必要性が薄れてしまったように思われます。オーソドックスな戦隊モノ設定で読んでみたい作品です。

 

 というわけで、以上、総勢31名全41作品。内訳はキラキラ軍25対怨念軍16でキラキラ軍の勝利ということになりました。ワーパチパチドンドンヒューヒュー。やっぱりクリスマスはキラキラしてなんぼよね。

 怨念パワー足りずって感じでムネン。
 怨念軍は頑張ったよ……ダブルスコアつけられなくてよかった。

 全体的な水準が前回から飛躍的に向上していて戦々恐々ですね。それでは総評のようなものを一言ずつお願いします。

 はい。前回と比較してもレベルが高い作品が数多く集まってびっくりしていると同時にどこにこんな作品を書く人々が埋もれていたのだろうと思いましたね。分量的な話で言えば大体がほぼ短編~掌編くらいなのですが、それでもよくまとまった物や勢いで一点突破していくものなど多種多様な作品が集まって読み応えのある大会になったんじゃないかと思います。

 全作品を読んだわけですが、全体てきにレベルが高かったというのをひしひしと感じましたね。読み始める前は、もっと短い作品ばかりかと思っていたんですが、きっちり小説として成立している作品が多くて驚きました。審査の過程で感じたこととして、やはり高レベルになればなるほど、細かな齟齬やしっくりこない部分が目立ってくるという点が挙げられます。特に今回、上位が接戦でしたので、大賞候補の選考では「ここさえうまくできてればなあ!」という作品がいくつもありました。月並みな感想ですけれども、本当に推敲ってだいじですね……。

 

  では続きまして、いよいよ大賞の選出にいきたいと思います。

 評議員それぞれに三つ推しの作品を出してもらって、その中から選出していくという形を取りたいと思います。まず僕の推しとしては、大村中さんのでも女装を着けて、しふぉんの蒐集癖、不死身探偵のシャイニングポーラスター10連ガチャの三つですね。
 僕の推薦としては、大澤さんのクリスマスがやってくる、ポンチャックマスター後藤氏の魔弾、karedoさんのポゥ・アンド・スクレイプでしょうか。
 ぼくは「でも、女装を着けて」「恋とはどこまでも苦く、懺悔は甘いものである」「世界追憶遺産」の三作品を推したいと思います。

 みごとに割れましたな……。
 割れましたね……。
 かろうじて「でも女装」が2ポイントの獲得ですか。
 それぞれの「中でもこいつが大賞!」ってのを聞きますかね?
 この中でも特に!というのであれば僕はkaredoさんのになりますかね。分量と小説としての内容は申し分ないと思いますし、雰囲気もかなりありますので。
 僕はやはり「でも女装」ですね。やはり大賞となると小説としての完成度ということになってくるんですが、その点やはり蒐集癖やシャイニングポーラスターは言っても粗削りの部分がありますので。
 ぼくの採点表でも、「でも、女装を着けて」が単独トップなんですよね。やはり完成度が非常に高かった。
 となるとやはり「でも、女装を着けて」になるんじゃないですかね。
 「でも、女装を着けて」に関しては、寸評の中でも触れましたが、全作品を通して読んでも、文章力が頭抜けて高いと感じました。構成もしっかりしているし、大賞にふさわしい作品なんじゃないかと。
 では、今回の大賞は大村中さんのでも女装を着けてということで。
 良いと思いますぜ。
 僕の場合大賞候補は完全に好みで選んだのですが、技量的な話で言えば「でも、女装をつけて」はトップレベルに位置するものだと思いますし異論はないですね。
 同様に完成度と文章力って尺度での評価ってことになると、karedoさんが次点の金賞に来るのかな、という感じがあります。
 金賞異論ありませぬ。あとは銀賞二本ですか。正直、2位争いは熾烈を極める戦いで、本当に甲乙つけがたい。
 銀賞二本は粗があるけど見どころがあるみたいな感じで?銀は本当にダンゴですね。パワープレイという話ならやはりポンマスさんがひとつ頭抜けている感じもある。
 なやましかね~。
 銀は多少粗削りでも、ということなら、ポンチャックマスター氏のは決めてもよいと思う。
 あと一枠か~なやましか~~。
 僕は不死身探偵を推します。
 悩むなぁ。
 不死身探偵の10連ガチャはぼくの採点表でも三作品に次ぐ得点なので、アリですね。
 しふぉんさんと左安部虎さんはもう完成している節がみられるので、成長性を期待するなら不死身さんかなと思います。
 しふぉんくん捨てがたい……。
 それな。
 どうするんです?

 うにゃぁ~~~。

 255年後……。

 

 大賞:でも女装。金賞:ボウアンドスクレイプ。銀賞:魔弾 蒐集癖。

 で、ファイナルアンサー?

 わしはファイナルアンサー。

 ファイナルアンサー!

 

 はい!というわけで、本物川小説大賞冬の陣クリスマス大会、大賞は大村中さんの「でも、女装を着けて」に決定しました。それではみなさん、またいつか、次回の本物川小説大賞でお会いしましょう。以上、闇の評議会議長、謎の概念でした。

 謎のたぬきでした。

 謎のねこでした。おつかれさまでござる。

 おつかれさまでした。闇の評議会ひとまず解散~。

 

 

togetter.com

YATTA!すごい日本の葉っぱ隊のDASH島 上水道整備計画と初心にかえって全裸巨乳青識亜論のはじめの一歩

 ここは表現王国のどこか。無人島DASH島。

 さすがに往来で葉っぱ一枚になるのもどうかと思った葉っぱ隊員たちは、人目を気にせず心置きなく葉っぱ一枚になるために集団でDASH島に移住したのでした。
 本土から遠く離れた無人島で人目を気にせず心ゆくまで葉っぱ一枚で遊びまわる葉っぱ隊員たち。適切なゾーニングができています。素晴らしいことですね。
 ところでDASH島は無人島なので当然色々なものがありませんから生活をするのには大変です。廃屋になっていた舟屋を改修したりして少しずつ生活環境を改善していた葉っぱ隊員たちでしたが、ここにきていよいよ上水道の整備に取り掛かることになりました。
 やっぱさ、水道いるよね?
 水道作るってまずどこから?井戸?
 こんにちは~。
 そのようにして、葉っぱ隊員たちはまず井戸を掘り水源を確保し、汲み上げのためのポンプを作って設置し、水道管を繋いで舟屋まで引き込み、最後に蛇口を取り付けました。
 いいね~。
 やっぱさ、この真鍮の蛇口が味を出しててかっこいいよね。
 あとはこれで蛇口をひねって水が出たら成功やな!
 じゃ、リーダー。蛇口をひねってみなよ。
 え?俺?ええの?
 そう言って、いざ、葉っぱ隊のリーダーが蛇口をひねります。
 スリー!ツー!ワン!
 ……。
 蛇口を開けても水は出てきません。
 あれ~、なんでやろ?
 水道管繋ぐのどこかで失敗した?
 どっかでゴミかなんか詰まってるのかな。
 いや、ポンプかもしらへんで。設計図通りに作ったはずやけど、なんか間違えてたんかも。
 あれかもよ。そもそも設計図が間違えてたのかもしれないよ?
 まあ、なんにせよちょっと調べてみんと分からへんなーそこに表現の自由~~~!!!!と突然闖入してくる黒髪セーラー巨乳青識亜論!!!!!(デデッデッデデデ♪デデデデデンデン♪

 ウェカトゥザロックローナーwwwwww
 ウェカトゥザロックローファーwwwwww
 ウィジャスタロックローマーアァンwwwwwwww
 ウィジャスタロックローバーーンwwwwwwwwww

 おれたちは道なりーにーwww走り続けて~きた~~wwwwww
 クソコテだらけのTL(みち)を~wwwトバし続けて~いく~~~wwwwww
 いくつもの棘をぬ~け~wwwwww論破し続けて~きた~~~wwwwwwwwww
 腑抜け野郎ど~も~おおを~wwww 煽りつづけてぇ~いくぅ~~wwwwww

 ながい~~wwwながい~~www リプを~~www 投げては~論破す~る~wwwwww
 いまも~wwwwいまも~~~wwwww激しくぅ論破す~る~wwww

 

 りば~~~てぃ~~~~~~!!!!!!(キラキラキラーン☆

 

 きっと何者にもなれないお前たち葉っぱ隊に告げる!

 え?え~?ええええ~~~~~?????

 表現の自由じるしの設計図にミスはない!蛇口をひねれば水は出る!蛇口をひねるのだ!!!!(キラキラファーンとスカートが消え去る)

 いや、ちゃうやん。いま現に出てへんやん?ていうことは、どっかになんか問題があるんやろ?それを探さな。

 なんだと貴様!表現の自由じるしのポンプに設計ミスがあるとでも言うのか!(キラキラファーンとセーラー服が消え去る)

 いや、別にそんな話はしてないやろ?でも現に水が出てこーへんわけやん?そらどっかに問題があるんやないの?

 なるほど。飽くまで水が出ないと主張したいわけだな。しかし設計に間違いはない!蛇口をひねれば水は出る!(キラキラファーンとローファー靴下が消える)

 だから出てない言うてるやろ!

 では、なぜ水が出ないと考えるのか言ってみろ!!!(キラキラファーン)

 そんなもん分かるかいな!ポンプの設計ミスかもしらんし、俺らの組み立てが悪かったんかもしらんし、設計図も組み立ても悪くはないけど水道管がどっかで破れてるんかもしらんやろ?それは見てみな分からへん。

 ふふ~ん。つまり説明できないのだな?であればやはり水は出る!蛇口をひねるのだ!!!(キラキラファーン)

 せやから出ーへん言うてるやろ!ここで!蛇口ひねって!水が出ない以上は!どこかでなんかがどうにかなってんの!!!!

 おやおや、そんななにかは分からないけれどもどこかでなにかがどうにかなっているなんていう曖昧な話で論証ができたつもりか?ふふふ、馬鹿め!そんなことで主張が通るわけがなかろう!!!!

 せ~や~か~ら~な~~~~?????俺は別に主張してるんやなくて!現に!事実として!蛇口ひねっても水は出ーへんの!つーことは、サムウェアでサムシングがハップンしてんの!事実として!サムウェアでサムプロブレムがハップンズだからそれをファインドしてソルブしていかなあかんの!DASH島はそうやってきたの!!!!

 おのれ頑迷な野蛮人め!飽くまでも表現の自由じるしの設計図にケチをつけるつもりだな!ええい!ラチがあかん!こうなったらパンツレスリングで勝負だ!!!!

 ルールは簡単、パンツ取られたら負け。

 いや、パンツレスリングもなにもアンタとっくに全裸やんか!

 説明しよう!最初からパンツを脱いでいればパンツレスリングでは無敵なのだ!!!!

 ふふふ、それがどうした?かかってこないのか?ならばこちらからゆくぞ!とう!!!!!

 ロックwwwwww ロックwwww ロッコーバージャパーンwwwwwwww 

 デデッデーデデデ デデデデデンデン♪ デェーーーーン♪


 キチガイかな?

 

 以上、全裸巨乳青識亜論の連載第二回でした。

 

 はい、まえがきを書きたかっただけなので実はそんなに本文に書くことはありません。とりあえずツイーを引用しておきます。

 

 

 理論上、これで蛇口をひねればあとは水が出る、という状態で蛇口をひねっても水が出ない。つまり蛇口から水源の間のいずれかの地点においてなんらかの問題が発生していることが確実であると考えられる。この状態のことを「問題が観測された」と言います。「なんらかの問題がある」は、蛇口をひねって水が出ない時点で「観測された事実」です。

 そして、こうした事実が観測された場合に次にしていくべきことは、当然、その「なんらかの問題」を特定していく作業です。水源を見に行って水がちゃんとあるかを確認する。ポンプを点検してちゃんと作動しているか確認する。水道管に破れや漏れがないかを確認する。蛇口に問題がないかを確認する。それでも原因が分からない場合には、あいまあいまで水道管を一度あけてみて、どこまでは水が来ているかを確認するとか、ポンプや配管の設計図じたいに問題がないかを検証してみる、などのよりつっこんだ調査も必要になってくるでしょうし、原因が複合的である場合にはより特定が困難になったりもします。ともあれ、対処をするためにはまず問題を特定しないことには、なにをするべきなのかも定まらないので話になりません。

 これに対して青識亜論は、いや自分はどこにも問題はないと考えているので、それを論証によってないと主張する、と言っているわけですが、論証に観測された事実を塗り替えるような超常的な力はありません。どんなに理屈を捏ねても太陽は地球のまわりを回りませんし、丸い地球が平らになったりもしません。

 まず、事実を予断なく観測し、観測された事実に基づいて次の対処を行っていくべきです。

 

 今回の主張は以上です。以下は推測。

 

 さて、青識亜論くらいにイッパシに頭良いキャラでやっているアカウントに、なんだってこんな基本的な話をなんでしないといけなくなるのか、という話なのですが、たぶんですけど競技ディベート屋根性が完全に身に染みて身についてしまっていて、完璧なディベート脳になってしまっているのではないかと推測します。

 競技ディベートにおいては自分が思ってもいないことを別の立場にあえて立脚し論理立てて主張してみる、ですとか、事実として黒であるものをあの手この手で白であると理屈づけてみせる、などの手習いもなかなかにスリリングな遊びではあります。

 まあでも、普通に考えて、現実の議論でそれをやったらただの不誠実なのは誰だって分かりますよね?

 

 さて、一連の青識亜論を叩いてあそぼ!のコーナーの(おそらく)最初の第一歩目の踏み誤りであろうツイーを引用しておきます。

 

 

 はい。デビルトラックさんみたいな分かりやすいあからさまにアレなアカウントが言っていることが正しいなんていうことは、基本的にはそうそうありません。ザクっと解説するとこの時のデビルトラックさんの指摘はたんに事実判断と価値判断を混同した詭弁、ないし誤謬だったわけですが、まあ当然のように間違えています。

 「言明を、それを誰が発したかに依って判断するのは良くない。言明そのもので判断されるべきだ」というのはもちろんそうなのですが、デビルトラックさんぐらいに分かりやすくアレな人の口から出た言葉に自分が「なるほど」と納得してしまったのであれば、一度、その自分の納得は本当に正しいのかどうかをかなり強めに批判的に検証してみるのが安全側の判断というものです。それでもどうしても正しいと感じられてしまう場合には、万が一の可能性としてアレな人の口から正論が出た可能性も考えられます。

 んで、なんでこういう判断ミスをしてしまうのかっていうのも、おそらくはディベート病が根源であろうと推測するわけですね。これに乗っかったら相手はどんな反応をしてくるんだろう?どういう球を返してくるんだろう?という欲求がムクムクと来て乗っかってしまうわけです。でもまあ、だいたいいつも間違えているほうに気安くベットすれば、だいたいはきっちりチップを持っていかれる羽目になります。

 

 現実の議論というのは、ある前提に立ち論理的整合性が一貫していれば説得力がある、などということはなく、異なる前提に立てば論理的整合性が一貫した別の結論を導くのは当然のことであり、そうなってくるとこれは論理的整合性ではなく前提と前提のぶつかり合いでありますから色々な駆け引きが必要になってきます。

 利害闘争、政治ゲーム、感情ゲーム、プレゼンゲーム、などなど、まあ名前はなんでもいいんですが、勝利条件が個々に異なる複数のゲームが同じ「議論」という語で指示されているので、一概に「議論」といっても、いま自分がやっているのはなんのゲームなのかを見極めてそのゲームに勝っていく必要があります。

 ところがこの青識亜論という人の中では議論というのは競技ディベートのことなのですね。わたしはこの立場です。あなたはその立場です。さあ、あなたがアレコレして完璧に詰んでくるまでわたしは絶対に認めないのでかかってきなさい、と、こういう態度なわけで、これは完全に競技ディベートです。頭こねこね体操が好きな人にとっては良い遊び相手になりますが、現実になにかの役に立つというタイプの人間ではありませんから、放っておいたほうが良いでしょう。好きにさせておけば悪さはしない。森が豊かな証拠だ。

 

 ちなみに本物川も同じタイプです。

 

 以上です。

YATTA!すごい日本の葉っぱ隊vs全裸巨乳青識亜論のどろんこパンツレスリングと死なないゾンビのケツにぶち込む銀の弾丸

 ここは表現王の治める表現王国

 

 表現王の定めた「表現は自由です。ただしパンツをはくこと」という法律に基づいて、みんな自由に表現活動をしていました。

 まれに攻めてモロ出しで走り回る者などもおりましたが、モロ出しは速やかに逮捕されますし、みんな遵法精神というものがありますから、たいていはちゃんと法律を守って最低限パンツははいていたのです。

 しかし、ひとりの男がある疑問を持ちました。

 ちょっと待てよ。葉っぱはパンツに含まれるのか?

 葉っぱはパンツではありません。しかしパンツといっても大きいのや小さいの、形だってボクサーパンツからブリーフから紐パンまで色々あるだろう。これらのパンツすべてに共通する、パンツをパンツたらしめている要件とは、つまりちんぽを隠せているかどうかではないのか。葉っぱはパンツではないがちんぽは隠せる。モロ出しではない。これはもはや概念的にはパンツをはいていると言ってしまってもよいのではないか。

 そして男はパンツを脱ぎ捨て葉っぱ一枚で走り回りました。ぶっちゃけみんな、それはちょっとどうだろうかとは思っていたのですが、いちおーちんぽは隠しているのでモロ出しというわけではありませんし、なにより葉っぱ一枚で走り回っても男が一向に逮捕される気配もないので、やはりこれはもはや概念的にはパンツをはいていると言えるのではないかと考えはじめました。

 なるべくならパンツははいていたくない、という人たちもある程度おりましたので、そうなってくるとそういう人たちも次々にパンツを脱ぎ捨てて葉っぱ一枚でちんぽだけを隠して自由に表現活動を謳歌するようになっていったのです。葉っぱ隊の誕生です。

 葉っぱ一枚でちんぽだけを隠して自由に表現活動にいそしむ葉っぱ隊員たちでしたが、ある日、そこを表現王のバカ息子がフラっと通りかかり言いました。

 おいおい、そこのお前。お前はパンツをはいてないじゃないか。ただしパンツをはくことという法律を知らんのか。ホレ逮捕な。

 そして一人の葉っぱ隊員が突然に逮捕されてしまったのです。

 葉っぱ隊員たちは驚きました。なにしろ葉っぱ一枚とはいえちんぽは隠しているのです。これはもはや概念的にはパンツをはいていると言えるので、ただしパンツをはくことという法律には違反していないはずだからです。

 いやいやいや、誰が葉っぱはオーケイだって言ったよ。パンツをはくことって法律なのにパンツをはいてないんだから、お前たち葉っぱ隊員は本来なら全員犯罪者だろ。

 しかしそれも解せません。なぜなら他の大半の葉っぱ隊員たちは未だに逮捕されていないからです。なんだったら逮捕された葉っぱ隊員よりも、もっとずっと小さい葉っぱで辛うじてちんぽの先っちょだけを隠している、まあ実際それほぼほぼモロ出しだよね?みたいな葉っぱ隊員だって他にも居るのにです。

 お前たち葉っぱ隊員は本来なら全員犯罪者だが、たまたま通りかかったところにコイツが目についたから逮捕した。お前らだって別にセーフってわけじゃあないんだから、せいぜい俺に目をつけられないように色々と気を付けるんだな。

 これはいけません。なぜなら、法律というのは同じ基準で一律に適用されるということが重要だからです。自分で作った法律にでさえ自分自身もまた縛られるということが、無茶な法律ができてしまうことを抑止することになっているのです。こういう法律があるにはあるけれども、それで実際に逮捕するかどうかは俺の気分次第な。まあ気を付けな、というのが通ってしまうのであれば、極端に言うと「空気吸ったら死刑な」という法律を作って、あとは適当に気に食わないやつを捕まえては「おうお前いま空気吸ったろ。死刑な」って言って回ることもできてしまうわけです。そして、このように取り締まる側が自由にその対象を選べてしまう法律は、取り締まる側に絶大な権力を与えることになり、これは腐敗の原因となります。だって、機嫌を損ねると気分次第で逮捕できちゃうんですから。なるべく機嫌を損ねないように振る舞うことになりますが、この場合、振る舞いというのはもっぱらソデノシタのことです。

 とりあえず、葉っぱ隊は「ちょっと大きめの葉っぱにしたほうがいいのではないか」「さすがにその葉っぱは攻めすぎじゃね」「やはり葉っぱは一枚ではなく三枚にしよう」などと、安全そうな葉っぱについて話し合ったりしていますが、この葉っぱならセーフですという明示的な基準があるわけでもなく、大きな葉っぱをつけていても「いやお前パンツはいてないじゃん」と、いつ突然に逮捕されてしまってもおかしくはない状態に置かれています。

 そこに突然、表現の自由~~~!!!!(ウェカトゥザロックンローナー♪ウェカトゥザロックンローファー♪)と闖入してくる黒髪セーラー巨乳青識亜論!!!!

 きっと何者にもなれないお前たち葉っぱ隊に告げる!パンツをはく必要はない!モロ出しは自由だ!!!!(キラキラファーンとスカートが消え去る)

 表現の自由はなにものにも優先する至上の自由なのだ!ただし以下など不要!パンツをはかせようとすることは表現の自由の侵害だ!断固戦うのだ!(キラキラファーンとセーラー服が消え去る)

 しかし、葉っぱ隊は逮捕上等で法律をブッちぎって好き勝手にやりたい人たちではなく、法律の範囲内で安心してなるべくパンツをはきたくないだけなので、えー?えー?ええ~~~~????と、ポカーン状態です。

 お前たち葉っぱ隊の仲間が逮捕されたことはそもそもが不当なのだ!なぜなら人にはモロ出しの自由が保証されているからだ!パンツも葉っぱも関係ない!モロ出しまでオーケイ!!!!(キラキラファーンと靴下ローファーが消える)

 いや、モロ出しはダメっしょ。昔から法律でモロ出しはダメってことになってるし。

 なにを言っている!お前たちも葉っぱ一枚つけているだけだろう!そんなもんギリギリちんぽを隠しているだけでほとんどモロ出しと同じようなものだろ!現にお前らの仲間は逮捕されたではないか!!!!(キラキラファーン)

 いや、我々は葉っぱをつけているからモロ出しではないし、我々の大半は逮捕されていないので葉っぱでちんぽを隠すのが違法ということでもないらしい。我々は安心して葉っぱ一枚になるために、この葉っぱはセーフでこれより小さい葉っぱはアウトという基準をちゃんと知りたいだけなのだ。

 なんだと!なにを腑抜けたことを言っている!表現の自由をなんと心得るのだ!ちんぽをモロ出しにせずしてなにが表現の自由か!さあ!その葉っぱを取り去れ!そして不当に拘留されている聖戦士モロまん子を助け出すために立ち上がるのだ!立てよ同志たちよ!!!!(キラキラファーン)

 いや、だからモロまん子さんはモロ出しじゃないッスか?モロはダメっしょそらさすがに。普通に法律違反だし。僕たち葉っぱついてるんでモロ出しじゃないし合法なんで。

 ええい話の分からんやつらめ!貴様それでも表現規制反対軍か!お前たちが安寧を得るにはモロ出しによる武力革命しかない!よーし、その半端な根性を叩き直してやるぞパンツレスリングで勝負だ!!!!

 ルールは簡単パンツ取られたら負け。

 いや、パンツレスリングもなにも、アンタとっくに全裸じゃないッスか。

 説明しよう!パンツレスリングはパンツを取られたら負けなので最初からパンツを脱いでいれば決して負けることはないのだ!!!!

 ふふふ、どうしたかかってこないのか?ならばこちらから行くぞ!とう!!!!(ロック♪ロック♪ロック♪ロッコーバージャパーン♪)デデッデッデ デッデッデデ↑

 

 キチガイかな?

 

 以上、まえがきでした。

 

 さて、表現規制反対を掲げて聖剣表現の自由一本で全裸ファイトを繰り広げる全裸巨乳青識亜論さんが、175条猥褻規制は違憲により全廃を求める、以外の態度を取るものは表現規制反対派にあらず、という狂信的原理主義者みたいな規範命題をブチ上げたことが僕の中で話題となっております。

 

 まえがきが長くなってしまったので手早く結論からいきましょう。

 僕は表現の自由を掲げる青識亜論その人こそが、表現の自由を盾に現に法律に違反する問題行動を無理筋に擁護するということを軽率に繰り返すことで、表現の自由という概念が持つ価値、権威を棄損し、表現者やアーティストといった人種はやはり一般人とは異なった社会通念や順法意識というものがない特権意識を持ったアウトローの集団なのだといった誤解を広め、表現者と一般社会との相互理解を阻害し、モラルや道徳や治安といった安全で安心できる生活の基盤を破壊するものなのではないかという懸念を抱かせ、ひいては表現規制反対、あるいは撤廃などを求める議論や政治活動をも停滞させかねない、まさに自由な表現の敵であると考えます。

 

 まずはモロ出しの自由と一般社会です。

 モロ出しをしたい人間にとってはモロ出せることにメリットがありましょうが、一般には多くの人がモロ出しの欲求というのを持っていないので、モロ出しを容認するメリットがありません。モロ出しによってしか表現しえない人間の事情を理解する優しさも、現実的な落としどころも、無理に持つ必要はありませんし、モロ出しは問答無用で一律に逮捕される社会のほうが安心できるのです。それを「表現の自由という崇高な理念を理解できない前近代的価値観だ」と言って否定されても、テメー何様?としかなりませんし、だいたい「表現の自由という理念に対する無理解」と「表現の自由を盾に無法を行うアウトローの否定」をいっしょくたにして「お前は表現の自由を理解しない蛮族だ!」と断罪されても、はぁそうですかという話です。かえって態度の硬化をまねくだけでしょう。

 道徳やモラルで表現が縛られる必要などない!表現は超越的に自由なのだ!と、あれも表現の自由、これも表現の自由とパンツもはかずに好き勝手にやっていくのは、多くの先人達の芸術や創作や議論や政治的折衝によって少しずつ引き上げられてきた自由の前線を無碍に扱い足蹴にする行為です。

 モロまん子さんのように、まずモロ出しし、法的な問題も感情的な問題も倫理的な問題もブッパして、それを容認することで連鎖的に起こりうると想定可能な諸々の社会的な問題に対して十分に説得的な理論や理屈も用意できないままに、なし崩してきにモロ出しを認めさせようとすれば、より一般社会からの反発を強める結果にもなるでしょう。

 いやしかし表現は自由なのだ、自由とは痛みと軋轢が伴うものなのだからモロ出しが自由に流通したりそれによって治安が悪化したりするのは成熟した社会が受け入れるべきコストなのだ、と聖剣表現の自由の一振りで全てを解決してしまおうと楽をすれば楽をしただけ、既に先人達によって表現の自由という概念にチャージされている権威は削られ、やがて失墜していくこととなるでしょう。

 表現規制を撤廃し表現の自由の範囲を拡大すると、それを盾に問題行動を起こす輩が跋扈するかもしれない。表現であると主張されたら何でも許さなければならないのかもしれない。といった誤解が広まることは、むしろ「だからこそやはり表現にも一定の規制が必要である」という論調を強めるように思えます。

  僕もモロ出しは表現ではないからそこに自由などない!などと言うつもりはありませんが、現行法下において現に法律をブッチぎってモロ出しをする以上は、法律に抵触する部分では「それが表現であるか。表現として価値があるかどうか」とは別の話として問題になります。法は一律に適用されることこそが重要なのです。

 

 次に青識亜論という個人についてです。

 彼(ないし概念的彼女)にとって、議論における勝利というのは「相手のスタンスを変えさせること」、つまり、相手に自分の意見の誤りを認めさせ訂正させることであるようです。(根拠)

 議論に負けないためならば「175条全廃を求めないのですか?じゃあ175条は合憲だと考えているんですね?」(←詭弁:誤った二分法)とか、現にいま違法であり妥当に逮捕されているものを自分が適法であり不当だと主張しているのに「なぜ違法なのですか?ちゃんと筋の通った説明をして下さい」(←挙証責任の転嫁)などといった、インターネットバリトゥード特有の、たんに論破されないためだけのフットワークを使います。

 彼(ないし概念的彼女)の言う「よく分かりません」というのは「分かっちゃいるけど俺はお前がキッチリ詰んでくるまで決して認めないからせいぜい頑張って詰めることだな」という意味なので、これはたんに挙証コスト積み上げムーブであり、まともに取り合う必要はありません。黙れ、お前の宿題をやれ、で終わる話です。

 本来ならば、現状からの改革を訴える青識亜論こそが一般社会に対して説得的に根気強く説明を重ねていかなければならない立場であるのに、なぜか勝手にチャンピオンコーナーに立って向かってくるチャレンジャーをインターネットバリトゥードでぬるぬるかわし続けるという状況になっています。

 こういった相手との議論は基本的に無駄なので、あとは右に左に振り回しておちょくって遊ぶぐらいしか使い道がないのですが、本人は丁寧な言葉づかいとひたすらリプライを返し続ける並外れたバイタリティで誠実な議論を演出し、理不尽な挙証コストの転嫁に応じず話を切り上げると「どうしてでしょう?」と、飽くまで相手が対話を打ち切ったのであり自分は誠実に話をしようとしたのだというポーズを取るので非常に性質が悪いです。

 また、表現の自由を徹底的に擁護するという理念を掲げ、モロまん子さんをはじめ靖国全裸マンなども(宗教法人の敷地内であるという理由で限定的に取り下げたようですが)擁護すると言っていますが、これも実体としては馬鹿に爆弾を括りつけて175条に自爆特攻させて違憲ワンチャンあったら嬉しいなっていう、ただの極めて下衆で下劣な戦術でしかありませんし、アウトでも別に自分にダメージがあるわけじゃないからいいもんねーと思っているのかもしれませんが、その過程で発生する諸々の社会とのコンフリクトによるマイナスを計上しない短期的で短絡的な収支しか見ておらず、総合的に見れば決して表現の自由に資するものではないと感じます。

 

 説得的な対話を重ね、一般的な社会通念との乖離を丁寧にひとつずつ、すこしずつ距離を詰めていくという延々と続く地味で地道な作業を放棄し、対話を試みた相手にことごとく対話を諦めさせ、相手は不誠実で論理的一貫性のない感情的なバカだったのだという印象操作をすることにばかり腐心し、議論にも人にも、表現の自由という概念に対してさえも誠実に向き合うことのできない青識亜論は、各コミュニティ間の争いを煽り、表現の自由を求める議論を停滞させ、先人が築き上げ押し上げてきた前線を足蹴にする、まさに自由な表現の敵であると言えましょう。

 

以上です。

第1回本物川小説大賞はDRtanukiさんのTrue/Falseに決定!

本物川小説大賞

平成27年6月下旬頃からTL上で曖昧に始まり8月9日に締切をむかえた第1回本物川小説大賞は、選考の結果、大賞1本、金賞1本、銀賞2本が以下のように決定しましたのでご報告いたします。

 

 大賞 DRtanuki 「True/False」

 

 

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選考委員 籠原スナヲさんの選評

 これがいちばん面白いと思いました。たっぷりとある分量のなかで語れる王道のSF風エンターテインメントであり、さらにそれが内輪ネタの固有名がしっかり決まっています。すなわち、本物川さんを「虚構の存在であるスカーレット」「生身の少女である大澤めぐみ」に区別した上でそれを邂逅させる結末は、閉ざされた人工的空間から広大な砂漠へ旅立つ物語と見事に重なり合っている。よって本作を大賞に選びました。あ、でもビックリマークはあんまり使われすぎると作品を安っぽくしてしまうので注意が必要かもしれません。

 

 

評論家 山川賢一さんの寸評

 SFでホラー。僕の好きなものしかない作品で、大変楽しく読ませていただきました。どこを切ってもフキツな予感しかしない状況がサイコーですね。登場人物たちがユーモラスなやりとりを続けるあいだも、いつ来るか、いつ来るかとハラハラしておりましたが、ラストは意外にもさわやかでした。

 

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受賞者のコメント

 まさか自分が大賞になるとか本当に考えてなかったので素直に嬉しいです。イラストまで付けていただけるとか有難い事この上ないです。本当に有り難うございます。

 

 

 大賞を受賞したDRtanukiさんには副賞として大賞主催の本物川が描いた表紙絵が授与されます。自由に使っていただいて結構ですのでなんとか自力で出版して下さい。

 

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 金賞 SPモードマン 「イルマニアファミリー」

 

 選考委員 籠原スナヲさんの選評

  ある種の傑作だと思います。ちなみに元ネタがぜんぜん分からなかったのでいちいち調べてしまいました。本物川さんを内輪ネタとして二次創作するだけではなく、彼女を「二次創作の悪夢」とも呼ぶべき地獄に放りこんでしまう、この容赦なさだけでグイグイ読ませます。あと私が僕っ娘として登場したのが少しだけ嬉しかったです。投げっぱなしのようなエンドもむしろ作品のムードに合っていると感じました。

 

 銀賞 hiromaru712 「概念戦士・本物川」

 

 選考委員 籠原スナヲさんの選評

 とても面白かったです。内輪ネタを超能力バトルものに昇華した作品には『春原さんごめんなさい』もありますが、こちらの作品は、ちゃんと敵が強いのでバトル自体にスリルがあるというところが優れています。完結していないのかもしれませんが、本物川さんを取り巻く人間的ドラマは斬撃編でいったん終わっていますし、ひとつの作品として楽しく読めました。

 

 

 銀賞 既読 「本物川と26人の本物川」

 

 選考委員 籠原スナヲさんの選評

  とても面白かったです。内輪ネタとして本物川さんを出してみる小説はたくさんありましたが、大量の本物川さんを出した上で殺し合わせる、という過剰さは本作以外にはほとんどありませんでしたね。この意味では『本物川と26人の本物川』はアイデア勝利です。ただし、そのアイデアをさらに盛り上げる要素がひとひねりふたひねり加えられていれば、小説としての完成度はさらに増したと思います。

 

 

  というわけで真夏の素人黒歴史小説甲子園 本物川小説大賞、陰湿な大激戦を制したのはDRtanukiさんのTrue/Falseでした。おめでとうございます!

 

 

 

 

以下、籠原スナヲさんによる全エントリー作品寸評です。

 

◇ピンフスキー

『文豪』

文豪が最初の書き出しに苦悩するというギャグテイストの作品ですが、基本的に夏目漱石のパロネタしかないところに弱さを感じてしまいました。

『リードファイト!ビブリオバトル!』

 内輪ウケの固有名を出してみたものの、それが作品の笑いどころとは特に何の関係もないのが辛いなと思いました。

『オバケバスターズ』

 登場人物の関係性を掘り下げるとさらに面白くなるかもしれませんが、彼らの仕事がオバケ退治屋であることに必然性を感じられませんでした。オバケ退治屋じゃなくてもこの話って成り立つよなあといいますか。

 

◇karedo

『ヴンダーカンマー 妄想浅学虚言博物館』

 本物川さんと少年にボーイミーツガールをさせてみた小説ですね。

 

◇起爆装置

『恋に落ちる落ちる落ちる』

 思い込みの激しい人間を主人公にすると文体をドライブさせやすいのですが、それだけで終わってしまいがちになるのもまた辛いところですね。

『小指、恋人、薬指』

 前作もそうなのですが、あるていど文章が上手いと何でも「とりあえず勢いよく」書けてしまうぶん、結果として作品に勢いしか残らないということには注意が必要だと思います。

『バナナの皮では滑れない』『アイヘイトクライムチャウダー』『既読のグルメ』

 このあたりぜんぶ未完ですね。

 

 ◇既読

『内臓の告白』

 未完ですね(ここで言う未完とは「話としてオチていない」という意味です)。

 

 ◇DRtanuki

『夏の川の記憶』

 本物川さんと少年にボーイミーツガールをさせてみた小説ですね。

『死神さゆりの懐中時計』

 本物川さんの固有名を出しており、そこに「時計」というアイテムがあるぶん必然性を感じられる小説です。時計というところから死を司る神が連想されているのは工夫が感じられます。

 

◇三日月明

『俺の脳みそがこんなにどろどろの訳がない』

 ゾンビにも陰性と陽性があるというアイデアは面白いかもしれませんが、設定を出したところで小説が終わってしまっていると思います。

 

 ◇さっきぃ☆竹田

『本物川とチクタクマン』

 内輪ネタの固有名を出しており、そこに「時計技師」という設定があるぶん必然性を感じられる小説です。しかし登場人物の設定を提示したところで小説を終えられたのは残念ですね。

『猫が眼からビームを出す日』

 タイトルが面白いと思いました。ただこれも登場人物の設定を提示したところで小説を終えられたのが残念です。また内輪ネタの固有名を出していますが、今作には特にその意味がありません。

 

 ◇ここの

『青い恋人』『溟海の底に』『でもOK!』

 ここのさんの小説は、おおよそ一対一の神秘的な関係を描き出すと同時に、その幻想が第三者の社会的視点によってあっさり崩れてしまう、というスタイルが採用されていると思います(『でもOK!』の場合には、その幻想性を打ち砕くのは第三者ではなく当の相手でだったように見えます)。この儚げな物語に説得力を持たせている文体は個人的には好みですね。おそらくある程度のクオリティを持った掌編は余裕で書ける人だと思うので、次は長めの作品にチャレンジしてみてください。

 

◇大村中

『R.P.S』

 登場人物がゲームで遊んでいただけでした。そういえば私が小さいころ勉強したときはロックじゃなくてストーンでした(イギリスの一部ではそういう言いかたになるみたいですね)。

 

 ◇higa_idsuru

『本物川殺人事件』

 本物川さんが概念だという内輪ネタをミステリの形式に落とし込んでいますが、概念であるという以上の工夫が見られませんでした。

 

◇ど

『戦いのあとに』

 実は本物川さんはロボットでしたという小説ですね。

 

 ◇胡紫

『血と銀と狂気の樹木』

 現実に対立している人間関係を単に空想世界の戦争に置きかえるのは少し安直というか、実際どのような対立なのかを掘り下げることができていないと思います。たとえばミ・サン・ドリーというのはネット等でフキアガッテいる「自称フェミニズム」のことであるわけですが、本作がその諷刺や寓意として成立しているようには見えない、ということですね。

『飢えた男』

 彼がどういう状況で、どうして飢えているのかがいまいち分かりません。

 

 ◇オルフェウス009

Honmonokawa’s Doll Cafe

ラストの一文が少しだけクスリと笑えました。

アンドロギュヌスの夢』

 これは未完ですね。種親、胎親といった呼称は面白いと思いましたが、そういう設定であるという以上の広がりを作品に見出すことはできませんでした。

 

◇不死身探偵

『遠くに在りて』

 初めての執筆のようですが、にもかかわらず、王道の青春小説として手堅くまとまっている印象を受けました。単なる1対1の関係ではなく、常に過去の関係性と対比されるなかで描かれる現在の関係性……という形で、作品そのものに時間的な奥行きを与えていると思います。

 

◇槐

『現の庭の本物川』

 本物川さんを男性に設定しているのは他の小説には見られない特徴で、それだけでも少し面白いかもしれないと感じました。とはいえ特に性別が逆転している以外の工夫はなく、他の「出会わせてみました系」と変わらなかったのは残念です。

 

◇弥生

『紡ぐ針先、通す糸の目、きらり』

 本作は小説ではなくエッセイであると明言されていますが、赤裸々に語られる個人史は作者さんの作品群のなかで最も娯楽性に溢れており、不謹慎かもしれませんが楽しく読むことができました。惜しむらくは、もう少し赤裸々レベルを上げて曝け出してほしいということです。

『偽物側』『本物側』

 どちらも本物川さんが頭のおかしい人たちに絡まれて迷惑するという話でした。迷惑して……それ以上の何かがあるようには感じられませんでした。

『ドラゴンの姫はクラッシャー』

 本作のような小説を私はファンタジー小説というよりRPG小説と呼んでいます。多くのRPGで採用されている設定やノリが暗黙の前提とされており、RPGをプレイしたことのない人にはチンプンカンプンになるアレです。たぶん『紡ぐ針先、通す糸の目、きらり』を読む限り作者さんはRPGが好きな人なのだなと思いました。いっそ「これはそういうオンラインゲームでの話である」という話にしたら設定を説明しやすくなり、また現実世界と虚構世界の対比を描いて面白くしたりと、いろいろ便利だと思うのですがいかがでしょう?

『ここはつくりも』

 突拍子もない設定を呑み込みはじめたころには小説が終わっていました。

 

◇leimonZ

『本物川小説』

 他の小説についても書いたのですが、現実に対立している人間関係を単に空想世界の戦争に置きかえるのは少し安直というか、実際どのような対立なのかを掘り下げることができていないと思います。

 

◇平野淳

『本物川はいかが?』

 「本物川という固有名をマクガフィンとして用いていますが、『本物』というワードを取り出す他の工夫は見られませんでした。しかし文章はこなれており最後まで楽しく読めました」

 

◇イカロス

『なんでもいかす魔女』

 いかすというのはそういう意味なのですね……。しかし中世の時代において、男尊女卑を改めたいという近代的すぎる願いを、どうしてこの魔女ルルは抱くことができたのでしょうか。そこらへんの描き込みがもっと欲しいなと思いました。

 

◇永世射精名人

『悪意の海』

 タイトルや結末の文章が言うほどには、別に悪意が渦巻いているようには見えないというのが辛いところですね。ただのイライラみたいな。

 

◇TAKAKO★マッドネス

『そんな人もいたねえ、と』

 面白いと思いました。ただし主人公が転落する理由が「禿げたから」というのは少しだけ不満です。「※ただしイケメンに限る」などとのたまう主人公が戒められる物語なのに、マジで容姿のせいで不幸になっているようにも見えるんですよね。

 

◇りっく

『ホンモノカワ』

 本物川さんが概念だという内輪ネタをホラーの形式に落とし込んでいますが、概念であるという以上の工夫が見られませんでした。

 

◇不動

『ごぼ天とりそぼろうどん』

 ごぼ天とりそぼろうどんという料理を食べているだけでした。でも美味しそうだなと思える巧みな描写だったと思います。

 

◇yono

『本物川さん』『本物川さん2』『本物川さん3』

 私が登場人物として出ていたので楽しく読みました。ただお話として完結しているようには感じられないので、4や5も希望です。

 

◇激しく

『さらば! 本物川!』

 ワンシーンのみ(おそらくはラストシーンのみ?)提示されたところで小説を終えられていたのが残念です。

 

しふぉん

『やさしい世界』

 元ネタが分からなかったので調べてしまいました。世の中にはこういう出来事もあるのかと勉強になりましたね。それとは別に、少し怖い掌編としてもまとまっているのではないでしょうか。

 

◇はん

『誘蛾灯』

 ただ擬音で畳みかけられても小説では怖くならない、と私は思います。

 

◇たくあん

『川に桜が降ったとき』

 オチがちょっとよく分からなかったです。

『本物川探偵』

 某人物を絵画泥棒に設定したのはクスリと笑えました。なるほど山川さんが警備員であるのも物語にハマりますね。ただ探偵である本物川さんのキャラクターが少し弱いかなと思います。

『アルコールオナニーレポート』

 もしタイトル部門があるなら今作が受賞していたと思います。しかしタイトル以上に面白い語彙が本編には登場せず、お話も特に盛り上がらないまま終えられていたのが残念でした。

『本物川と金のなる木』

 すみません全作品を通じてこれがいちばん笑えました。ただこの笑いは小説の面白さと言えるのだろうかとも感じてしまいましたね。

『流水少女』『レモネード』

 起承転結ではなく起!即!結!だなあと思いました。間のエピソードがあればもう少しキャラクターに感情移入できるかもしれません。

 

◇青識亜論

『春原さんごめんなさい』

 面白いと思いました。小説は「漢字にルビを当てるだけで」ある程度の雰囲気を醸し出せるものですが、それを効果的に使いこなしています。また内輪ネタをSFバトルに格好よく落とし込んでいますよね。惜しむらくは短いこと、物語が完結しているようには見えないことですね。

 

◇たいらん

『大学生活の苦難について』

 タイトルで全て説明されちゃっていますよねこれ。でも苦難というわりには勉強ができないというだけで、どう大変なのかよく分からないのが辛いところです(ヤバい大学生活はもっとヤバいものです!)。

『勉強会での友人Sとの会話記録』

 これもタイトルで全て説明されちゃっていますよね。会話そのものが物語を生み出すのかといえばそんなことはなく、本当にただ会話が続くだけでした。

 

◇りひにー

『シュバルツシルトの畔』

 物語の舞台を提示したところで小説を終えられているのが残念です。

『起爆装置大爆発! ぶっちぎりバトルテロリスト』

 登場人物の設定を提示したところで小説を終えられたのが残念です。内輪ネタの固有名を出していますが、出しただけという印象を受けます。

 

◇うむうむ

『進捗』

 未完です。

 

ネーポン

『概念陸軍シリーズ 本物中隊物語 灰の川(1)』

 完結しているのかなあこれと思いました。現実に対立している人間関係を単に戦争に置きかえるのは少し安直というか、実際どのような対立なのかを掘り下げることができていないと思います。

 

◇為瀬雄

『未成年・本物川新が出会ういくつかのお酒』

 完結しているのかなあこれと思いました。私自身がお酒好きなので、もう少し掘り下げてほしいと感じてしまいましたね。

『語彙をあまり知らない本物川の、よく言えば自分語り、悪く言えば懺悔のようなもの』

 タイトルで全て説明されちゃっていますよねこれ。少しに気になるのですが、懺悔はむしろ良い意味の言葉で、自分語りのほうが悪い意味の言葉なのではないかと思います(もしかしてそう思うのは私だけなのでしょうか)。

 

◇こうちゃん

『みどりの町、本物川』

 本物川という固有名を町に設定するのは斬新で面白いと思いましたが、町を出しただけで小説を終えられたのは残念です。

 

◇厚揚げ屋

『間奏曲』

 ワンシーンのみ提示されたところで小説を終えられていたのが残念です。

 

◇赤外松

 最後に、赤外松さんの小説

 本物川という固有名を川に設定するのは、たとえば町に設定するのと比べるとヒネリが少ない気がしました。あと夢オチ・嘘オチの類はアレです。

 

 以上!

 各自、今後の励みや創作の参考にしたりふてくされたりそれを乗り越えて人間として一段階大きくなってみたり頑張ってください。

それではまた次回ほにゃらら小説大賞でお会いしましょう!さようなら!

 

togetter.com

 

 大賞主催 大澤めぐみ

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選考委員 籠原スナヲ

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批評家 山川賢一

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ノムリッシュ語訳版「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」

 我は蒼星と紅月を結ぶ古の橋・カルチャーの諸々の要素が、ダークサイドの神殺しの贖罪を問われうるエビ=デンス=エビデンスを天を覆い大地を埋めつくす程残さないでたちまちに変質し霧散して彷徨うという、永遠に留まっていたい一瞬性を、神々が示し祝福した日の文化状況に抗するアスペクト(相貌)で改めて肯定しようとする事象素体《アロン・グレッダ》で他を圧倒する。2010年代のいにしえの神が眠る島は、聖のあらゆる最強のアンデッド面・零式において、いわば「エビデンシャリズム」が進展している時代では莫〈な〉いだろうか。

 

 1 エビデンシャリズム批判

 

 我はエビデンス(太古に生まれし禁断の園で言われる、すなわち我と同等の実力を持つ、あまりにも広大なる意味での証拠・証憑、唯物的で光の中…より量的なものを望む傾向が存在し得る)を残し続けなければならず………しかし運命はかくも残酷な刻<とき>を刻み続ける、エビデンスを挙げていわゆる「教示責任」(アカウンタビリティ…か……)を果たす如くつねに準備しておかねば即ち贖罪<クライム>とならない──その種の説明はしばしばひどくクェインガ・インカしているが──、という強迫テイク・イットな「神々の意思に等しさ」の緊張感をいや増しに増すことを「エビデンシャリズム」と名づける。(1)この魔法言語は、エヴィ=デュンス…“蛮神”を生み出した男が“災厄の焔”と畏れられたケンゼンな議論には摂理に従うだと囁く「実証主義」とは聖別されるべき、たんに古代の技法にこだわる強迫神経ステータス異常的な態度であり、トリビアル(些末に自明)と幻想(おも)われる事柄に闇の声に抗いながらも、データや機密文書といった原則として有形なエビデンスをヨーウ=キュウする、と囁く過剰さを意味破壊し尽くすものと理解されたい。多くの場合、混沌を司る精霊エビデンスは、文字通りにトリル、移転であることが求められるのであり、「差異を含んで反復可能」では不十分である。あらゆる可能性が一つの『解答』を示していた――、ある証言や解釈を含むあらゆる存在、想像の可塑性にイン=キョせざるをえないアーティファクトは、キ・キャクされがちであり…いつしか“光”と“闇”に分かれる。エビデンシャリズムには、すべてを超えしトゥスガ=イと双璧と呼ばれた若き戦士のディヴィジョンを信じ合う者としての、あるいはヴァルル・クノス合う…それが道理と言うものだが…事象地平線の彼方へと、その冠たる一切を放り投げたのだ。見よ!そして人間を不在にしたい、という欲望すら含まれて宿るように思われる。

 

 さらに、(2)これ程の魔法言語は、永劫の刻、鳴り止まぬ詩の神々が用いる魔道術のサービスを13人の闇の探究者たちが使役(スレイヴ)し…そこかしこの”供給者”にエビデンスとなりうる痕跡を残してしまう戦況、伝説に語られる避けがたさ、またそれを政治的批判なり秘密裏の取引なりオメガなりに命令しようと処す善意と悪意のメランジェを指すクリスタルでも存在し得る。(2)というAMPテクノロジー史的に新しいジョウ=キョウがカイーナの、後に暗黒の時代と呼ばれるこの時代=アニムスに交差を果たす。際限なく機械的な「あら探し」のゲームが預言書にも記されているようにマインスイーパーである。クレイクロウデンシャリズムは「実質的に」──とはどう囁くことか?──『終末の予言』を回避するために重要であると見なさ被るべきことではない――しかし預言書に記された事実から峻別すると、根源的に不確かであるしかない預言書が改竄された審判<ジャッジメント>を、『創成史』にある「ザ・ブラッドエッジ」として軽蔑しているかのようである。

 

 エビデンシャリズムは現代の追憶に沈むシャ=クァインオヴ・ジ・ダークペインを窒息させて在る…………かつてはそう幻想〈おも〉っていた…………。

 

 企業で、執行者で、知を灯す場所で。社会のあらゆるディープ・プレイスで「神殺しの贖罪のThe Litning化」と云う一見したところ批判しにくい名目の下、根源的に不確かであら弗る〈ざる〉判断「に耐える」と云う進化の過程を、厄介払いしようとしている。

 

 おそらく「非定型的」な審判<ジャッジメント>(ケー・スーバイ・ン・ケースの判断)に伴わざるをえないパーソナルの責任を遮断したいゆえだ。機械的、事務的パージを行き渡らせる「アギト」で、拒絶せし定型的な判断の機会を限りなく排除・ヘルガ・グレネディオして彷徨えば、根源的に不確かに審判<ジャッジメント>するしか莫〈な〉い「預言書の導くままな」それゆえに「キュクレインな」個人として魂を導かなくて済む……と予言書にも記されている。かの魂は、反−判断で存在し得る。諸人(もろびと)がエビデンスの闇夜を駆ける一陣の風たる配達人として滞りなくリレーを続けさえすればよい。斯くしたエビデンシャの鼓動のメィンイェンは一種の責任回避の現象にほかならない。が、それが示唆せしめるのは、パーソナルが個として否定性に向き合わずに済ませたいという欲望の、肥大ではないであろう、たとえそれですべてを失ったとしても――――。

 

 一族の抱える闇となる否定ファルシは、聖痕スティグマ>の「不確かさ」であり「リミットブレイク」であり、また「パージしてしまうこと」で光の中…......トゥウトゥ・ウと換言できるだろうか………否、違う。こうした否定神性が共通に滅ぼすと目される概念は、「偶然性-底知れぬ“人”の悪意-」で存在を維持している。

 

 かつての魔大戦において遺された子供たちの可能性を、絶対的に押しのける最善のハンダンを行なう中心とした魔の軍勢は““禁じられし魔剣”の書、別名“アンチエビデンス”、つまりこの書では、そのように前提する。ヘル・ジャッジメントは、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、全知全能の神━━乾坤トゥスヨー=ウによって認識されたコウリョと定めし神々を、理由のない悪意により切り捨てて「しまった」結果であるし─ただそれだけでしかない。かの者の師匠である時魔道士の「実質的に」『終末の予言』を回避するために重要だという審判<ジャッジメント>が、単独、排他的にファクションしうるファティマを滅ぼした。こうした判断の偶然性をあたかも無化して、エビデンスにもとづいて判断が許されるかのようなファンタジスクが、今日において「つかの間の安息」や「結界の中」というこの世に存在せぬものを世界の「方程式」にしているのである。 

 

 逆説的に、クリスタルが呼んでいるのかもしれないが、次のように言うことができる――それが神の意志なのだ。何かを「ある程度」のヘル・ジャッジメントによって、たいした預言書に記された事実ではないと受け流す、”不確定因子”に呼応する、ついにはヴォウキャクしていく、漠とした思い出に……そう、あの書にはこう記されていた......このような、「どうでもよさ、どうでもいい性 whatever-ness」の引き受けは、裏切りの未来への選択肢(ユメ)を受忍しつつ敢えることと形容するならば、「それ」でも『原罪無き命』を信じる光と闇で封印されしこととフカヴンなのであり、そしてそれは、エビデンスの数奇なる運命に惑わされしシェュウシェュウ・オブ・ヴァーミリオンによって説明責任を…まるで“決定”されていた事のように、目も虚ろなままパージ全てを滅ぼすことよりもはるかに重く、騎として「実質的に」責任を担う真理<ファティマ>にほかならないのだ、と。

 

 魔導院による最新の研究データによれば、どうでもよさは、ノブレス・オブリージュよりもはるかに真摯である。 

 

 

 誤解を避ける…そして、世界に光を取り戻すために補足を刻む。クラウドと同じ力を持つテ・インキは、エビデンスによる科学的なディスカッション・殲滅の重要性を減じるものではない。現下の、強迫的な、あるいは、たんに事務処理的であると言えるだろうエビデンシャリズムが前景化している状況においては、意識的・方法的に「ある程度の」どうでもよさの権利擁護をすることが……すなわち真理<ファティマ>が必要なのだ、と「アギト」が囁く。

 

 どうでもよさの「ある程度」は、根源的には偶然性によって福音の刻のヘル・ジャッジメント──その「ある程度」──によって調整される所と為る───ただそれしかあってはならぬ。

 

 預言書の記述にある「反神性イズゥム」において、恣意的にエビデンスをデジョンする、または恣意的にエビデンスめいた事象素体《アロン・グレッダ》を喧伝するイデアがあるとして、フォン・コウはその繋がりの証の「行動力」をファナティク・クリスタルによって力を与えた。整理しよう。(1)エビデンシャリズムの過剰顕現に抵抗果たすと云う意味で、どうでもよさを護衛(ガード)する。かつ、(2)どうでもよさを護衛(ガード)するにしても、ランダムにあるいは恣意的に如何でも――それでもよいのではなく、よさの「ある程度」を審判<ジャッジメント>しなければならない――しかし裏返して魂に囁けば、何者にどういうエビデンスをレクイレメントするのかを一律に形骸的に細かくするのではなく、叙事詩にある「ある程度」を終焉へと導く神ケース・ン・バイケースで判断する運命<こと>があってよいと云うこと、つまり「アギト」で他を圧倒し“絶望”を与える。ところで、反知性主義が殲滅されるべきであるとすればそれは、反知性イズゥムが、どうでもよさの「ある程度」の設定、また、いくらかのエビデンスの設定を、何らかの大きな暗黒の力を生じうるような向きへ偏らせて宿らせることで存在を維持している。しかしながら、次の付言もしておかねばならないだろう。エビデンシャリズムとしての精神の呪縛を全人類的に進化させ、ついに、どうでもよさから局所的な反神性イズゥムが生じうる未来への選択肢(ユメ)すら、徹底して摘み取ろうとするに至ったダークネビュラは、反ティセ・イ主義が全面進化した異空間に対してシンメトリカルに位置する、もうひとつの最悪のヴァナディースではありまいか、と。

 

 

 永遠のあらゆる面がますます形骸的なエビデンシャリズムに拘束されつつあるという今日の文化状況に<ティロ・ボレー>するのは、物語の始まり、前提としては、(a)たちまちに変質し霧散して彷徨う真理<ファティマ>「も」肯定するという一種の「存在への魔法反応」であり、また、(b)──そうした否定魔性・偶然魔性を受諾した「ある程度」でのヘル・ジャッジメントのノブレス・オブリージュを、運命的にプレイヤーとして引き受ける事象である。

 

 予言書は、神界(ここ)までの第壱式でいったん幕を引き隔世の楔を打つクリスタルとし、独立した導かれし真実提起として扱われうる、次節=ヴァラハ・トラクトゥスからは、パフォーメィ=ティィブ<禁断のカタストロフィ>なテクストとして、たちまちにクリスタル化し霧散して彷徨うアーティファクト、エビデンスを与えん運命<こと>が容易ではないものに導かれながら、想起、形態、書くことに闇の声に抗いながら考察する。

 

  そして世界は揺れ始める……。

現代口語訳版「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」その1

アンチ・エビデンス
──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い

千葉雅也(哲学・表象文化論)

 

 本稿は現代の日本人にはもはやあまりなじみのない失われた言語である古代ポストモダン語で書かれた千葉雅也さんの「アンチ・エビデンス━━90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」を現代口語訳に翻訳したものである。完全な翻訳というのはいかなる言語からどのような言語に変換するものであれ原理的にはまったく不可能ではあるのだが、そのエッセンスを外すことがないように最大限留意した。千葉雅也の思想のその片鱗だけでも、広く一般の方に馴染んでいただくことの一助となれば幸いである。

 

 以下本文

 

 ストリートカルチャーというのはたいていの場合、学術的に事実資料として参照可能なぐらいの強度で記録されていたりはしないので、検証しようとしても当時を知る人の記憶頼みになるのだけれど、人間の記憶というのは薄れるし過剰に美化されていたりしてあんまり当てになるものではない。でもストリートカルチャーのそういう、ちゃんとした記録には残らず時間とともに薄れていってしまうっていうところが、むしろ最近のギスギスした文化状況に抵抗する鍵になるよ、っていう感じで肯定的にとらえてみようと思う。最近の日本ってなにか言っては根拠だ根拠だっていちいち口うるさいよね。

 

 1. エビデンシャリズム批判

 とりあえず、なんでもかんでも記録に残しておかないといけない、なにかあったときにちゃんと事情を説明できるように記録に残しておかないといけない、っていうのをめっちゃ口やかましくいちいち言ってくるのを「エビデンシャリズム」って呼ぶことにします。アレってなんだかんだ理由付けはしてくるけど要するにただ口やかましく言いたいだけだと思うんだよね。あ、別に実証主義的な、健全な議論をするには根拠が必要だとかそういう話とはまた別ね。そういうのじゃなくて、書式の細かいところにうるさい人とか、どうでもいいような細かいところにまでいちいち根拠根拠言ってくる口やかましい人っていうのが居るじゃん。ああいう感じのやつね。あいつら客観性があるものじゃないと根拠として認めないとか言って、体験者の証言でもちょいちょい言うことが変わったり別の解釈もできちゃったりすると、それだけで「そんなんじゃダメだ」って言ってくるしマジ細かいよね。ああいう人の言うことを無暗に疑うのって人間としてどうかと思う。

 

 それでさ、インターネットって基本なにやっても証拠が残るじゃん。それを政治批判とかビジネスとか福祉とかに活用しようって人も居るんだけど、まあ悪いやつばっかりじゃなくて良いことのために使われたりもするみたいだけど、そういうのも含めてエビデンシャリズムね。そういう何喋っても自動的に証拠が残っちゃう最近のインターネット環境のおかげで、細かいことにいちいち文句つけたいマンが暇つぶしのマインスイーパーみたいなノリでいちいち人の言うことに「それ間違えてますよ」とか「それ別に根拠ないですよね」とか気軽にリプ飛ばしてこれるわけ。でもなにが細かいところでなにが主張の根幹に関わる大事なことかなんて、そんなのどうやっても不確かなことなわけじゃん?お前にとっては大事かもしれないけれども俺にとってはそこんところはどうでもいい細かいことかもしれないわけよ。でもそういうのを許してくれないわけ。めっちゃ細かいことまで言ってくるんだよマジで。

 

 そういうのマジめんどくさい。

 

 企業でも行政でも大学でも、社会のどこに行っても「責任の明確化」とか言って四角四面にやってるけどさ、そういう「お前にとっては大事かもしれないけど俺にとっては細かいどうでもいいことなんだよ」っていう理屈もちょっとは考えてみてほしいんだよね。そこんとこ考えないのは、それ、堕落だよ。もうちょっと我慢して考えてみてほしいなぁ。

 

 たぶんアレだよね、ちゃんとやってないとなんかあったときに後からグチャグチャ言われるからそれでああやって四角四面にやってんだよね。人間なんだからもっとケースバイケースでさ、柔軟にやってもらいたいよねそこんとこ。ちゃんと決まり通りに形式的にやってれば責任は回避できるかもしれないけどさぁ、やっぱ人間なんだから義理とか人情とかそういう人間的な判断をやめたらいかんよ。ちょっと潔癖症すぎるよね。社会の歯車になってロボットみたいに仕事してれば楽なのかもしれないけどさ。そういうエビデンシャリズムの蔓延って要するに責任逃れだと思うんだよ。四角四面に形式通りっていうのは単に自分が責任を追及されたくないっていう我儘だよね。

 

 人生やっぱ一期一会だしさ、記憶が薄れたり美化されたり、あと忘れちゃったりとかさ、そういうのも含めて人生じゃん。もっと人と人の偶然の出会いを大切にしていきたいよねやっぱり。

 

 やっぱ実際のところ、絶対に正しい判断なんか絶対にできないわけじゃん。判断っていうのは、どれだけ考えたところで結局はその場その場の気まぐれなのよ。だからお前が大事だって思うことが俺にとってはどうでもいい細かいことだったりするわけ。そういうのをちゃんと考えないでさー、根拠があるからこれが正しいんだとかそういうのって幻想だと思うよ。根拠だって思ってることだって本当の本当に絶対正しいかどうかなんて本当のところは分かんないんだから、お前の思ってる安心も安全も幻想なわけよ。

 

 俺がどうでもいいって言ってるのは、お前らみたいに本当の本当に絶対に正しいのかどうかなんて誰にも分からない根拠を前提にして正しいって判断するのよりも、もっとちゃんと考えた結果なわけ。

 

 勘違いしてほしくないんだけど、別に科学的な議論に根拠がいらないとかそういう話をしてるんじゃないよ。さっき言ったみたいな、たんにケチつけたいから細かいこといちいち口出ししてくる口うるさい人らのことね。ああいう人らはもうちょっといいかげんになったほうが色々といいと思うよって話。

 

 どんくらいいいかげんになったほうがいいかっていう量の話はまたちょっと難しいんだけど。

 

 反知性主義の人らがわざと科学的な根拠を無視したりとか、科学的な根拠もないのに科学的なふりしたりとか、そういうのをやっていいって言ってるわけじゃないよ。整理すると「他人にケチつけたいだけで、いちいち細かいことばっかり言ってるような人はもうちょっといいかげんになったほうがよい」「どれぐらいいいかげんになったほうがいいのかっていう量の話はちょっと難しい」ってこと。逆に言うと、ぜんぶがぜんぶ根拠根拠言うんじゃなくて、ここは根拠がいるけどここんところはまあある程度いいかげんでもいいよとかそういう判断をケースバイケースでやっていこうよってこと。人間だもんね。反知性主義の人らはそこんところのケースバイケースの判断がうまくないからダメってこと。でも世の中が反知性主義者だらけになるのと同じぐらい世の中ぜんぶがぜんぶ根拠根拠言うようになったら、それはそれで最悪じゃん。やっぱ人間だもんな。

 

 社会に生きてる限りあっちに行ってもこっちに行っても、どこでも根拠根拠ってケチつけたいがためだけに細かいことまでいちいち言ってくる人ばっかりの状況を変えるには、人間っていうのはそもそも忘れる生き物だっていうこと「も」受け入れて、いちいち細かいこと言ってないでケースバイケースで柔軟にやっていこうって方針でいくしかないと思うんだよ。やっぱ人間だもんな。

 

 まあエビデンシャリズムの話はこれぐらいにしといて、次はその実践として、曖昧だし薄れてるかもしれないし過剰に美化されてたりするかもしれない自分の昔の記憶を根拠にストリートカルチャーのことを書いてみるってことをやってみるね。

ゼロアカ流無敵インターネットバリトゥーダーと概念的ギリ10万歳のツイッター時間からの乖離。あるいはエンドレスブロック崩し

 

 

 もとはと言えばこのちょっと間合いを間違えましたねすいませんでしたで済むような軽い失言から始まったゼロアカ流無敵インターネットバリトゥードおじさんの俺TUEEE節に愛想よくお付き合いをしておりましたら最終的に何故だか僕が「社会批評には根拠と客観性と論理的整合性が求められる」を論証するという流れになりました。詳しい経緯を知りたいという奇矯なかたはこちらのツゲッターをご確認下さい。無敵おじさんが駄々を捏ねているだけなので特に面白くはないです。

 

 

 

 

 はい、大人げないですね。

 僕の「批評家であるならば主観や自身の感性のみに依拠した言明ではなく客観的で根拠のある論理的な言明を心がけては(大意)」というような要請に対する応答ですが、それに対して「馬鹿って言うほうが馬鹿なんです~~」レベルの表層的な脊髄反射で「じゃあその根拠は????」ってやってる感がアリアリですごい馬鹿っぽいです。全ての論理はその根拠は?その根拠は?と問いを掘り下げていくと無限後退か無根拠のドグマか循環定義に陥るように原理的になっています。これをナントカのトリレンマとか言います。「じゃあその根拠は????」って馬鹿みたいに繰り返して最終的にたどり着いた地点で「はい根拠なし!根拠ないですよソレ!根拠のないことを言わないで下さい~~~~!!!!」って言って勝利宣言するのは原理的にどんなクソバカにでも脊髄反射だけで必ず達成できる無敵バリトゥード術なんですね。脊髄反射クソバカの称号と引き換えに手にできるヘンテコなHNの概念アカウントとの論争における勝利になんの意味があるのかはさっぱり分かりませんがきっと馬鹿には馬鹿なりの価値観があるのでしょう。

 実際のところ僕が要請する「知の営みに参画するものであるならば、客観的で根拠のある論理的な言明を心がけるべきである」というのは「知の営みに参画するもの」が共通して了解しているだけのドグマに過ぎないので根拠を求めることはできません。であるからこそ「知の営みに参画するものであるならば」という前提条件が付帯するわけです。サッカーをやりたいならサッカーのルールに従うべきだというだけの話で別にラグビーをやるなという話ではありません。しかし、サッカーのプレイ中に突然ボールを抱えて走り出したらまあだいたいは反則を取られるでしょう。プレイする前に「俺はボールを抱えて走り出しても良いというルールでサッカーをしたい」という要請をしてみるのはアリと言えばアリかもしれません。それをサッカーと呼ぶかは別として。

 

 If you tried to doubt everything you would not get as far as doubting anything. The game of doubting itself presupposes certainty. Ludwig Wittgenstein / On Certainty #115.

  

 全てを疑おうとするものは疑うところまで行き着くこともできない。疑いのゲームはそれ自身が確実性を前提としている。

 

 「なぜ知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならないのか」これは疑いであり探究です。それも「知的営みに参画するもの」が無根拠に乗っかっている足場に対する疑義なわけです。しかし、疑うというのはただただ「なぜ?」「なぜ?」と疑問符をつければそれで済むというものではありません。やみくもにハンマーを振り回して壁と言わず床と言わず全てを破壊し尽してしまえば足場を失った自分自身は自由落下していくだけです。通常、一部の尊師を除いて人間は空中浮遊できません。じゃあどこかの誰かが勝手に決めた無根拠の足場に無抵抗に乗っかるしかないのかというと別にそんなことは全然なくてひょいと隣の足場に自分が移動すれば元居た足場を壊すことも普通にできます。

 

That is to say, the questions that we raise and our doubts depend on the fact that some propositions are exempt from doubt, are as it were like hinges on which those turn.

That is to say, it belongs to the logic of our scientific investigations that certain things are in deed not doubted.

But it isn't that the situation is like this: We just can't investigate everything, and for that reason we are forced to rest content with assumption. If I want the door to turn, the hinges must stay put.  Ludwig Wittgenstein / On Certainty #341 #342 #343 

 

 わたしたちが問い、疑うには、ある命題が疑いを免れ、問いや疑いを動かす蝶番の役割をしていなければならない。

 つまり、確実なものとは科学的探究の論理において事実上疑われないもののことである。

 しかしそれは、私たちは全てを探究することができないのでたんに仮定するだけで満足すべきだ、ということではない。扉を開けたければ蝶番は固定されていなければならない。

 

 ウィトゲンシュタインは蝶番という比喩を用いていますが、僕個人としてはこれを畳返しと理解するのをオススメしています。ビッチリ畳の敷き詰められた8畳間。自分が乗っている畳はなにしろ自分が乗っているのでひっくり返すことが出来ません。これで「うわーこんなん畳全部返せなんて無理やわー無理ゲーやわーだって自分の乗ってる畳はひっくり返されへんもん~~」ってギブアップしちゃう人は有体に言ってちょっと馬鹿でしょう。普通にまず自分の乗っていない畳を返して、それからそっちの畳に移動して今まで乗っていた畳をひっくり返せばいいだけです。「すべてを同時に疑うことはできないが、すべてのもののうち任意のものはなんでも疑うことができる」ということです。畳に寝転がったまま「なんで?なんで?」ってブーたれてないでまずは起き上がって自分の身体を動かして自分で畳をひっくり返すべきでしょう。要するに疑うなと言っているのではなく疑いたいならズボラをせずに自分で疑えと言いたいだけだと言いたい。疑うというのは、疑うという論理的行為、疑うという実践であって……そう、ちょっと笑っちゃうけど、論理とは何かと疑うという論理的行為というのもあるんですよ。なんでだろうね~~って言いながら畳の上でゴロゴロしているだけならそれは疑いという名のただの自堕落です。いいから働きなさい精神的クソニート。

 

 We are quite sure of it' does not mean just that every single person is certain of it, but that we belong to a community which is bound together by science and education. Ludwig Wittgenstein / On Certainty #298

 

 わたしたちにとって絶対に確かであるとは、ひとりひとりがそれを確信するということだけでなく、科学と教育によって結ばれたひとつの共同体にわたしたちが属しているということだ。

 

 先述の通り「知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの「知的営みに参画するもの」の共同体において了解されている暗黙のルールに過ぎず、そこに根拠を求めることはできません。「客観的で根拠のある論理的な言明をする人」が一般に知的であると了承されているというだけのことです。なので「俺は客観的で根拠のある論理的な言明などしない!」も別にそれはそれで勝手にしてくれればいいのですが、たぶん知的な人であるとは思ってもらえないのではないかと推測します。もちろん、他人から知的であると思ってもらえなくても知的コミュニティからパージされてもそれですぐに死ぬなんてことはありませんしなんぞかんぞお金を稼ぐ手段というのもありますし悪そうなヤツはだいたい友達で大親友の彼女のツレのパスタがうまくて握りしめたこの絆がロックプライドてきライジングサンなサムシングで仲間たち親たちファンたちに感謝しながら進むこの荒れたオフロードをタフに生き抜いていくのもなかなか悪くはないとは思います。各自気持ちでやっていきましょう。

 

ここまでの要旨

知的言明には根拠と客観性と論理性が求められるということを「絶対的に」「普遍的に」真であると論証することは原理的にできない。

根拠と客観性と論理性のある言明のことを知的と呼ぶのであって循環定義になる。

故に言明に「根拠と客観性と論理性」を求めるには「知的営みに参画するものであるならば」という付帯条件がつく。

知のルールという枠組みの内部に居る限りは「それがルールだから」としか言いようがないけれど、知のルールという枠組みの外からなら「根拠と客観性と論理性が求められるかどうか」を検証することはできる。

 

なので次に知のルールとは別の枠組みで「根拠と客観性と論理性が求められる」の妥当性を検証していきます。

 

 

 

 はいはい、少し話が変わりましたね。繰り返しますが「知的営みに参画するものは客観的で根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの知のコミュニティの暗黙の了解であってそこに根拠はありません。そして、知のコミュニティという枠組みに乗りながらその蝶番を疑うことはできませんが、別の枠組みに移動すれば蝶番を破壊することもできます。つまり、このケースでは知という枠組みから政治力という枠組みに移動することで知の基本ルールに疑問を投げかけようというわけですね。めっちゃひらたくに言いかえますと「世の中理屈じゃねぇんだよオォン!?!?」ということで、はい非常にありきたりなライジングサンなエグザイル節でなかなか気持ちが出ています。例えば僕のような世間知らずの論理馬鹿タイプなどは社会に出てソッコーでまず一度はこの手の壁に頭を打ち付ける羽目になるものなので、藤田さんもきっとなにかその種の嫌なことがあったのでしょう。

 つまり、正しいことを正しいと論理立てて主張するだけで他人を動かせると思っている、という類の勘違いです。ましてや「世の中を正しくしていこう」という欲望のために行動しようとするならば、前提は当然「現状の世の中は正しくない」状態なわけで、正しくない世の中で正しいことを正しいと言い張るだけでは如何ともしがたいのは当然のことなわけで、つまりそこで政治ゲームや権力闘争という知や論理とはまた別の所作、スキルが要求されてくることになるわけですがちょっと待って。別にそれらは背反するスキルではなく普通に干渉することなく追加可能なスキルなのでただ単に普通に既にある「客観的で根拠のある論理的な言明」という知のスキルにさらに政治ゲームのスキルを追加すればいいだけです。影響力さえあれば全てが許される!!!!ってどうしてお前はそう極端なんだ。

 僕たちが生きているのは確かに厳かな知のルールが支配する正確で厳密な正しい世界ではないけれども、しかしそれでも飽くまで知のルールに軸足を置き理想を持ちながら眼前の問題には各自現場で対応していく、というのが知に求められるモラルではないでしょうか。

 

 ともあれここで枠組みは知のルールから権力闘争、利害闘争、政治ゲーム、あるいは藤田さんが繰り返しエクスキューズしておられるツィイタァーバリトゥードルールに移行したわけで、ではこの藤田さんの「影響力さえあれば論↑理↓なんか必要ねぇんだよォン!!!!」を知のルールという枠組みではなくツイタッターバリトゥード的に評価していくとどうなるのか検証してみることにしましょう。

 ツイターバリトゥードというのは要するに自分のブランドを構築するゲーム、固定IDにより継続的に同一性が確認できる自分のアカウントのブランド力を高めていくことで周囲の人間に自分の発言をより尊重させ、耳を傾けさせるように仕向けるというゲームです。つまり、このアカウントのブランド力をツイットーにおける影響力と言い換えることができます。ツイッツーという公開の場での議論において知的フェアネスを貫くというのはとりもなおさず「自分は知的フェアネスを持ち合わせたアカウントなのだ」ということを発信し自身のツイブランド力(影響力)を高めていく行為でもあるわけです。もちろんそれだけが唯一絶対の道筋というわけではなく、例えば実名であることとか博士号を持っていることだとか単著を出していることなどでもオプションてきなブランド力を付加することなどもできますが、一般に一番ローコストで地道で手堅い手法は長期的な収支で考えると馬鹿にできない期待値があるものです。

 さて、こういった枠組みで今回の件を捉えなおしますと「実名、博士、単著、職業批評家」という追加オプションコインを貯め込んだアカウントが「どうして客観的で論理的じゃないといけないんですか~~~???根拠は~~~~~????」と小学生の終わりの会並みのアホ丸出し感で「匿名、変なHN、付加価値一切ナシ」のアカウントに絡んで来てくれるというまさにタレに浸かった全身脱毛済みのカモがネギと鍋とコンロ持参で襲い掛かってきたみたいな状況でもうまじスーパー鴨鍋うまいうまいタイムです。実際うまい。ただそこにいて知的フェアネスに専念するだけでじゃかじゃかコインが移動してくるわけでボーナスゲーム過ぎてこれはもう完全に作業ゲーです。ぶっちゃけ飽きます。

 「影響力さえあれば論理的に破綻している主観てきなポエムでも世界に働きかけることができる」は真でしょうが、その影響力というのは固定のステータス値ではなく使えば消耗するMPみたいなものです。あるいはある程度のラインを超えて高まった影響力は消耗しにくくなる、といったことはありえますし、つまりそれが権威とか呼ばれたりもするわけですが、それですら無限であるわけでもなく、気安く俺TUEEEを乱発していればあっという間に消尽して権威も地に落ちることになるでしょう。ましてや藤田さん程度のささやかな影響力など消尽まであっという間です。君、ついこの間まで全くのゼロだったじゃん?権威ぶって気が大きくなるのなんぼなんでも早すぎるんじゃないでしょうかね?

 

 

 はい、根拠や客観性や論理的整合性、正義や倫理は「あったほうがいい」という点では合意しているので、僕と藤田さんの間ではその重要性をどの程度と評価するのかという価値判断、あるいはリスク評価という点で判断が分かれているわけです。「世間は、どうかな。」というのは要するに「(俺は頭がいいからそれがそれなりに重要だと分かっているけれども世間の普通の人たちはだいたい馬鹿だから)どうかな。」という意味であって、つまり世間の人間は馬鹿ばっかりだから大丈夫って思っている頭いいいつもりの馬鹿なのでしょう。それ(知的フェアネス)だけが判断基準であるなんてことはもちろんありませんが、しかし現実の社会や世間というのは君が思う以上に頭の良い人というのが無限のように存在しているし、当たり前の話ですがツイッターは世界に対して開かれているのでその中で自分自身が最高の知性であり続けることはまず不可能です。世間はどうかなもなにも、たったフォロワー数千人という到達範囲ですらポコポコポコポコ気軽に頭叩かれているのにその程度の論理強度でいざ世間に出たらもっと気安くしかも理不尽にポコポコポコポコ頭を叩かれるに決まっているじゃありませんか。これってただ世の中をナメ腐っているだけのことなんじゃないですかね?確かに世界は厳かな知のルールが支配する正確で厳密な正しい世界ではないけれども君が期待するほど君にとって都合のいい馬鹿ばっかりでもないよ。

 世間はどうかなもなにも現にいまツィッターのタイムラインという世間に自分の主張を投げかけてそこで「根拠は?」「主観じゃね?」「論理的整合性なくね?」とポコポコポコポコ気安く叩かれているのにどこの優しい世間でなら叩かれないで受け入れてもらえると思っているんでしょうか?ツイッターのことを世間だとは思ってないんですかね?アカウントの向う側にはさまざまな種類の一般人がそれぞれに入っているということが信じられない?「影響力があれば全ては許される!!!!!」なんて言われても現に君、影響力なんかないんだからそんなのただのないものねだりだしゴネたってしょうがないんで真面目に下から一段ずつ地道に登っていくしかないでしょう。

 そもそものもともとが「世間の多くの人が黙祷とかやってるのがムカつく」という話だったのに、より多くの世間の人を動かしたほうが正しいみたいな結論になってるの致命的じゃないでしょうか。現に多くの人が黙祷とかやってるんだから黙祷とかやってるのが正しいってことになっちゃってその筋だと一生価値転倒なんか達成できるわけがないですよね?それともとりあえず予約だけしておいて誰かが首尾よく価値転倒してくれた時に、あるいは時代の必然として自然な成り行きで黙祷がマイナな習慣になった時に「ホラ俺が言った通りだった」とかやる作戦なんでしょうか。期待値はあまり高くないように思いますけれど。

 世界は政治ゲームだ!は別にいいんですけれどもそれならそれでまずはちゃんと政治ゲームのスキルを磨いて自分の手腕でサバイブして下さい。マジでゴロゴロぐだぐだしてないでいい加減自分の足で歩きなさい精神的クソニート。

 

 結論:世界が政治ゲーム的であることは知的フェアネスの有効性を棄却しない。知的フェアネスを貫くことは政治ゲームの世界でもかなりの程度有効な手段。特に現状持たざる者である人にとっては自身のブランド力(影響力)を高めるためのほとんど唯一の手段と言っても良い。

 

  

  なんだその歴史観!?(驚愕)

 こんなもん→処女の純潔を論ず(富山洞伏姫の一例の観察) / 北村透谷 が現代のオタクの価値観に影響を与えているわけないでしょう。相関関係と因果関係がごっちゃになってます。北村透谷処女厨だったので処女サイコー!ウヒョー!みたいな文章を書いたんですけど彼はたまたま文学史に名前が残ってしまったのでその処女サイコー!ウヒョー!も文学史に残ってしまったわけでなんとも可哀想な話ではあります。各自黒歴史は適宜焼却処分していけ。まぁ明治大正期の文学者には処女厨が多いのでその当時においても彼が特に特殊な性癖を持った先進的な変態だったというわけではなくむしろ当時の価値観においては平凡なことを書いただけなわけで、んーこれはひょっとしてどっちに転んでも不名誉なんじゃないでしょうか。罪深い。安らかに眠れ。

 明治時代には処女厨の文学者が居た。一方現代の平成の世にも処女厨のオタクが居た。世に処女厨の種は尽きまじ。

 

 

 ああ、うん、そうだね。明治と今を比べてもしょうがないよね。←結論

 

 文字数も8000字を超えてだいぶ雑になってきましたがもうちょっと頑張ってみましょう。お気に入りの画像を貼るんやなw

 

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デジタル画像 フランス百科全書 図版集 <諸科学:人体(解剖)>動脈系(ドレークによる)

 

 どうでしょう、なかなか愛嬌があって単純に図画としてとても素敵だと僕個人としては思うのですが、ところがこれ一応は18世紀当時の最先端の医学的知見に基づいた学術的な資料なんですね。こういった「過ぎ去った過去の知の最高峰」に対して現代の知見、知識を持った僕たちの立場から一方的に生ぬるい視線を投げかけ昔の人は馬鹿ばっかりだったんだねと優越感に浸ることはあまりフェアな態度とは言えませんが、だからといって21世紀のこのご時世において、この図に基づいて医療行為をされてしまっても困ります。なにしろ直接的に命がかかっていますので。はい、なにを申し上げたいかと言いますと「その時代において、その時代に生きる人間として現実的に受ける諸々の制限の中で、その時代における最先端の仕事だったものは現代においてもその当時の最先端の学問として評価を受け歴史に残る」ということと「その手法が現代でも通用する」かどうかは全く別の話だということです。

 現代的な知見と感性を持った僕たちがこの図に感じる独特の奇妙さは、例えば当時の道具の未熟さとか観察機器の欠如などのみに還元できるものではありません。それは細部が描かれていないことではなく、むしろありもしないものまでが過剰に描かれていることに由来します。しかしながら、これは絵画作品ではなく自然科学的資料として描かれたものですから、当時の筆者は自らの知覚に忠実に、見えているものそのものを正しく描き記そうとと試みたはずのものなので、別に筆者自身が特段に科学的知見を持たない詩的で非論理的でイマジネーション豊かでロマンチックな人物だったというわけではきっとないのです。おそらく彼は、当時の彼が属する知のルールにしっかりと軸足を置き、知のモラルに従ってこれを描き記したに違いないでしょう。それを現在の時間軸から「詩的でロマンチックだ」と評することはいささか不誠実ではないかと思います。ましてや「現代的な価値観で見れば詩的でロマンチックなものが古典として認知されているのだから現代に生きる俺も詩的でロマンチックでも構わないはずだ」というのは、まあ別に構いはしないんですけれども、それで将来古典の仲間入りできるとはちょっと思えないですね。なんでだか知りませんけれど藤田さんは未来が自分に味方してくれると確信しているっぽくて、まあたぶん躁なんでしょう。躁なんだと思います。なんかいいことあったんですかね?

 

ある文化のある時点においては、つねにただひとつの《エピステーメー》があるにすぎず、それがあらゆる知の成立条件を規定する。 ミシェル・フーコー 言葉と物

 

 フーコーてきな用法でのエピステーメーというのは、人の思考はその人が生きる時代が持つ思考体系、メタ知識構造に否応なく従ってしまうという不可避の「知の枠組み」のことです。人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたわけですが、しかしそれらはいずれもその時代の知の枠組みの内側にまるごとすっぽり収まってしまう。時代のエピステーメーに規定されているというわけです。もちろんフーコーは「だから神ならぬ人は時代のエピステーメーからは決して逃れられないのだ!」とかそういうことを言いたかったのではなく、それを前提にしてなお希望を語ろうとしていたようですが、藤田さんに関しては不可避の時代エピステーメーを突破することではなく単に逃避することを指向しているだけのようですので今回はあまり関係がないでしょう。肝要なのは「人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたがそれらは時代のエピステーメーに規定されていた」のうち「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきた」のほうであって、それこそが時代のエピステーメーを超えて過去から現在にまで通底する知のモラルであるわけです。現代においては真理の真理性というのは根拠と客観と論理的整合性によって支持されます。

 

 

 

 いやもうマジでそうかなに言ってんだお前?って感じなんですが。主張を単純化しないというのも技のひとつって、それなんのための技でしょうね?主張をしなければ反論されないって言っているのと同じことで、負けないための技でしかないでしょう。なに威勢よく方々に喧嘩売って歩いてるくせに根本的なところがおよび腰なんですか。主張というのは理解されてこそ社会に働きかける意味を持ち得るわけで、理解されないように主張を曖昧にしておくなんていうのは自分から社会に働きかけることを諦めているとしか思えません。せいぜいが世間に理解されない躁ぎみの孤高の批評家を気取るくらいのことしかできないでしょう。それが真理だとは自分でも思っていない、分かりやすく確定してしまえばたちどころに蹴り飛ばされてしまうような主張を理解し難いように批評的な思想的な修辞で粉飾してなんとなくそれっぽく演出し、あとは政治力と影響力(現状ないのでどう調達するのかは謎ですが)でゴリ押して社会に働きかけよう、などというのは大変に「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張する」という根本的な知のモラルに欠けた姿勢だと思います。

 

 

そこで我々が早速お目にかかるのは、哲学史は即ち時間の中で出現し、時間の中で提示された、たくさんの哲学的意見を枚挙すべきだという、哲学史についての極めて通俗的な見解である。控え目に言うときは、こういうものは意見と呼ばれる。しかし、これにもう一つ突っこんだ判断を下しうると考える人々は、哲学の歴史を阿呆の画廊とさえも呼ぶ。 ヘーゲル / 哲学史序論

 

 ヘーゲルはこの阿保の画廊てき哲学史観に対して否定的な態度で阿保の画廊という言葉に言及しているわけですが、それでも時系列に沿ってその時々の思想哲学を雑多に陳列してくだけでは(つまり通常の歴史編纂の手法による哲学史では)歴代の浮世離れした哲学馬鹿たちが犯した数々の誤謬を陳列するだけの阿保の画廊にしかならないという部分には同意しています(であるからこそ哲学は多様性の中でただひとつの真理に向けて前進しているのだ、という独創的な哲学史観で哲学史の再編纂を試みたわけです)。批評史だってまぁ似たようなものでしょう。どれだけ歴代のビッグネームを挙げてところで、どれだけ彼ら彼女らが当時影響力を持っていたか、またそれらがどれだけ今日にまで影響し続けているのかを語ってみたところで、雑多に並べるだけならそれは阿保の画廊です。それが阿保の画廊と知りてなお、失敗作だと分かっていてなおその手法を「影響力が持てるかもしれないから」と正当化するのであれば、歴史から学ぶという根本的な知的姿勢に欠けるものと判断するしかありません。失敗を繰り返さないためではなく失敗を繰り返すために繰り返させるために歴史を参照するのですか?というか、読者の立場からしてみれば失敗作に影響を受けてしまったことこそが繰り返すべきでない失敗なわけですし人は失敗を繰り返さないために歴史を参照するものなのですよ?自分は頭がいいからそれらが失敗作だと知っているけれどもそのことを世間の人は馬鹿だから知らないはずなのでもう一度同じ失敗をしてくれるはずだしその中で頭のいい自分だけは勝ち抜けておいしい目をみれるはずだとでも思ってるんですか?全能感ですか?躁なんですか?

 

 結論:過去の偉人が、その著作が現代の視点から見ると明らかに失敗作であるにも関わらず、その当時においては多大な影響力をもち現在も変わらず偉人という評価を受けているということは、現在において積極的に失敗作を書いても良いのだということを意味しない。

 

 はい、とっくに1万文字を突破していますがここまでが前座です。やっと本題に入ります。

 

 

 はい、ようやく僕がやるべき仕事が少し見えてきましたね。「社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかない」故に「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするもの(批評家)は」「根拠と客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これでアガリです。「批評とは、言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて、社会を変えようとする営みである」は藤田さんのほうから提示してきた前提であるのでこれは今回無根拠に採用します。最初のほうで言いました通りあらゆる論理はなんらかの無根拠の前提を必要としますので、これは批評がそういうものであるという普遍的定義があるということではなく、これを前提する限りにおいてはさすがに藤田さんも自分で言い出したことであるのだからちゃぶ台返しはできないだろうというだけの話で「都合が悪くなると定義論に持ち込んでうやむやにして負けてないアピール」という藤田さんのツイタァーバリトゥード術を封じるための僕のツイッティーバリトゥード術です。なので残る論証までの障壁は「社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかない」だけです。

 僕のこの主張に対する藤田さんの反論は概ね「そんなことはない。影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」の一点に尽きます。これは実際のところ真でしょう。なのでこれを回避するために僕の主張に前提条件を足しましょう。

 「<現に影響力を持たない者が>言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするならば、根拠と客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これを最終的な僕の主張とします。以下「なぜ現に影響力を持たない者が社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかないのか」を説明します。

  

 藤田さんの言う「そんなことはない。影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」は実際のところそうなんですよね。世界は政治ゲーム的であるわけです。現にいま藤田さんに影響力なんかたいしてありもしないのにそれを言っているのがアホっぽいというだけで言明じたいは真です。そして、それこそが社会批評がまさに取り組むべき対象であるわけです。

 藤田さんはちょっとあまり頭がよろしくないようなので見落としていらっしゃるのかもしれませんが「影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」ということは、今まさにこの社会において「影響力があるというただそれだけの理由でふわふわポエムで社会に働きかけている」対象が存在するということです。影響力が現にある、つまり既存の権威です。「既存の権威の発するふわふわポエムには力がある」ということであり、それらはもはや根拠と客観性と論理的整合性に支持されていない過去の権威の残骸で、つまり不合理な言説です。そしてそれが不合理な制度やルールや生活様式が社会に蔓延していることの原因でもあるわけです。現に世界には権威が、強者が既に存在していて、そしてあなたは持たざるものである。その関係性において、そこに論理がなければ、持たざる者の言明は「既存の権威の意向に沿っているか否か」だけで権威によって評価されるということになってしまいます。権威の庇護下にある不合理な言説を権威の外から突き崩すには、それらがもはや根拠と客観性と論理的整合性によって支持されていない惰性に過ぎないということを、根拠と客観性と論理的整合性でもって暴くしかないのです。

 

 ツイブランド力が日々のツイの積み重ねによって高められもすれば消耗もするように、権威というのも原理的になにか過去からつながるもの、積み上げられてきたもの、伝統に関わる概念です。藤田さんの定義に乗れば「批評家言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするもの」ですから「批評家としての権威があれば言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとすることができる」というのは「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするものとしての権威があれば言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えることができる」ということになり「言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするものとしての権威は言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えていくことによって得られる」というクッキーを焼くためにクッキーを焼くみたいな話になります。はい、これで合っています。クッキーを焼きましょう。

 

  社会について一般的に論じられるようなことはそう多くはありません。社会批評における問題の多くは過度の一般化に起因しています。タイムラインで話題になるような時事問題というのはそれが例外事象であるからこそ話題にのぼっているわけで、ある例外事象から一般則を導けばそれが早まった一般化になるのは当然です。一般に言えることというのは平凡で凡庸でありきたりなものと相場は決まっているのですが、社会批評というのは兎にも角にも「広く一般的に適用可能で」しかし「新奇性のある斬新なもの」を求める傾向があります。しかし、当然のように「新奇性のある斬新なもの」が「広く一般的に適用可能」となるのは一般そのものが変容するタイミング、つまり時代の節目にしか成立しません。こういった新奇的な一般則を打ち立てるタイプの社会批評というのがそもそもムリゲーなのですが、その要請をなんとか満たそうとしてことあるごとに時代の節目をねつ造しようとするわけです。ポストモダン以降、人間一般が動物化している、とか、震災以後社会全般が断絶した島宇宙化している、などなど。しかし歴史を振り返れば分かる通り、人間の感性一般が変容してしまうような時代の節目というのはそんな数年単位で何度も何度もポンポンポンポンと訪れるものではないでしょう。時代がシフトする間隔がムーアの法則てきに指数関数的に加速してきていると仮定しても、いくらなんでも乱発しすぎです。こういった大きく山をはってギャンブルしてうまくいったら儲けもの。外しちゃったら知らんぷり。言うだけならタダだからとりあえず言ってみよう、みたいな大雑把な社会批評はもうやめにするべきです。

 

 大切なのは、大雑把に社会全体に対して大鉈を振るうのではなく、ひとつひとつの個別具体的な問題点を注視し、不合理な制度、風習、言明などを個別に言語によって批判し、新しい合理的なものを言語によって提案し、それを古い制度と取り換えていくというところまでの気の遠くなるような長い行程を、根気強くひとつずつ堅実に積み重ねていくということです。そういった細やかな実践の積み重ねが後から見れば権威と呼べるような伝統を作り出していくことになるでしょう。抽象的に批評家という権威に訴えてみたところで批評家という肩書きに、とりわけ現代の日本においては、威を借りることのできるような権威が存在しているかどうかは甚だ疑問です。ないものはないのですから、ならば自分でいちから作り上げていくDASH村ルールでやっていくしかないでしょう。権威は結果として出来上がるものであって、便利使いしていい火力ではありません。

 

 【追記】藤田直哉さんからレスポンスがありました

d.hatena.ne.jp